精神崩壊から警察官となり、講演家になるまでの物語②
入校式の次の日からは通常の授業が開始された。
刑法、刑事訴訟法、憲法、刑事、交通、生活安全、警備、社会(地域の歴史)などの授業が朝から3時限ほどあり、午後は柔道や剣道、逮捕術の授業が毎日3時間ほど組み込まれていた。
また、食事もゆっくり食べることはできない。
これも警察官や消防、自衛隊、海上保安などの職種の人は同じだと思う。
いつどんな状況でも出動できるように、日頃から訓練が必要だからだ。
そして、まだ30代前半で機動隊出身で柔道、剣道、逮捕術のレベルも段違いの超体育会系の鬼頭教官は、昼ごはんを食べる直前に私たちに向かって
『俺より早く食べ終われ』
とボソッと言って席に着いた。
一瞬で背筋が伸びた。
給食当番の
「姿勢を正して、いただきます!!」
の号令と共に皆ご飯に手を伸ばした。
チラッと教官に目を向けると尋常ではないスピードで食べていた。
それでも必死に口へ運び、11人(男9人、女2人)いる同期のうち、男は何とか教官よりも早く食べることができたが、小柄な女性警察官には極めて酷な命令だった。
食べ終わった教官が私たちのところにやってくると、全員のお皿を見渡して
『終わったら表に出ろ』
と言い放った。
嫌な予感しかしなかった。
食事終了の号令と同時に表に出た。
案の定だった
『腕立てよーい!!!』
満腹の食事後にこれはかなりきつかった。
しかも、通常は反省1から10(反省1=腕立て10回)ある内の1から3なのだが、予想外の・・・反省10(腕立て100回)
みんな汗だくだった。
ただ、当時の私も辞めた今の私も、これがパワハラだと思ったことはなかった。
その理由はシンプルに
『警察官だから』
だ。
『何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず、良心のみに従い、不偏不党且つ公平中正に警察職務を遂行すること』
を誓っているわけであり、例え女性警察官であろうとも、状況によっては1人で国民を守るために体を張らなければならない、命をかけなければならない。
どんなに理不尽なことを言われても、どれだけ理不尽なことをされても、冷静に平常心を保たなければ、緊迫している現場で正しい判断ができない。
また、仲間が困っていたら全力で助け合う、失敗も成功もみんなで分かち合ったり考えたりすることで、団体行動の強い信頼関係が結ばれることに繋がる。
団体行動の中で、誰か1人でも勝手な行動をとると全員の命が奪われることに繋がることを、警察学校では叩き込まれるのだ。
そして、尋常じゃないくらいに厳しい鬼頭教官の愛情を無意識に感じていたことも、激動の10ヶ月間を乗り越えた大きな要因となっていると、今でも思っている。
肉体的にも精神的にも極限まで追い込まれながらも、同期のお陰で何とか過ごせていた。
入校式を終えて数日後、私の高卒クラスとは別の大卒の同期の中では早くも退職者が出た。
入校式の練習をしている時から、どんどん元気が無くなっていっていたので想像はついたが、きっと耐えられなかったのだと思う。
警察学校に入校中の期間は、仮採用期間でもあるので、訓練に耐えられなかったり、教官の命令に従えないのであれば即刻辞めることをすすめられているので、申告すれば基本的には辞められる。
また、人によっては教官たちの判断で辞職を迫ることもある。
酷いと思うかもしれないが、法を行使したり、拳銃も扱う警察業務には性格の適正も採用試験以上に細かく調べられるので、仕方がないことでもあるのだ。
そんなこんなで、毎日怒鳴れたり、理不尽なことを言われる日々を過ごしたのだが、追い込まれる度に、心の奥底が怒りではない感情で震え上がっていった。
「上等じゃねーか」という反骨心なのか快感なのか分からない感情が日に日に増していき、気付いたら特別在校期間の最後の30日目を迎えた。
警察官になって初めての外泊。
金曜日の夕方、ホームルームを終えて全員の車を整列させて、点呼と車両チェックの後に携帯電話を返された。
当時はLINEもなくガラケーだったので、電源を入れてセンターに問い合わせるとおびただしい量のメールや着信履歴があった。
30日を耐え切った自信と強い警察官になるんだという熱い想いを胸に秘めて警察学校を後にした当時の私が、3ヶ月後に辞表を出すことになるとは思うはずがなかった。
あなたの親御さんの人生を雑誌にしませんか?
著者の内藤 佑さんにメッセージを送る
メッセージを送る
著者の方だけが読めます