26歳で大学生だけどまだまだ諦めないよって話

1993年生まれの26歳、大学生。今年で27歳。

今の私は現在の肩書きはこれしかない。肩書きなんかいらない、肩書きってダサいとかそんな風に思って、肩書きがないわけではなく、ただ本当にないだけだ。
ただ、何もしてなくてここまで生きてきたのかと問われればそういうわけでもない。



このストーリーは、挑戦しても失敗し続けて26歳になったが、まだまだ諦めないよって、まだまだ人生を楽しむよって話。



1.生まれてから中学生になるまでの話

1993年の秋、愛知県の田舎町で上に姉と兄がいる、次男坊として私は生まれた。父親は自営業、母は父親の仕事を手伝うという恵まれた家庭で育った私は、これが欲しい、あれが欲しいと言うよりは外で遊びたいと言う、元気な少年だった。

一つだけ私が他と違っていたのは、小学校に進学する際に、幼稚園の友達が進学する学校とは違う学校へと進学したため、小学1年生の頃は学校に馴染めず、毎朝、学校に行きたくないと泣き叫んでいた。

しかし、小学2年生になる頃には環境にも慣れ、友達と相変わらず外で遊んだり、人生で初めてのバレンタインチョコをもらって初彼女ができたりしていた。

そんな中、一つだけ問題が起きた。

それは、他の人より勉強ができなかったのだ。漢字も算数も何も理解することができなかった。根本的に頭が悪かったのかも知れない。クラスでは常に成績が悪く、九九のテストでは私が一番最後まで残り、昼休みなどで私だけが追加の授業や追試を受けていた記憶がある。

このような体験があったからか、小学3年生の頃には勉強ができないことがコンプレックスとなり、親に頼みこみ、くもんに通わせてもらった。しかし、くもんでも出された問題や宿題が出来ずに、常に先生に質問しながら解いていた。

このような生活を送っていた最中に、姉と兄が有名な中高一貫校へと進学したことがきっかけとなり、私も中高一貫校を目指すために中学受験専門の塾に入った。この塾に入ったことがきっかけとなり、また先生方が優しかったこともあり、勉強にのめり込むようになった。コンプレックスの原因であった勉強が大好きになり、1日あたり15〜18時間の勉強をしていた。

そのため、入塾してからはほとんど友達と遊んだ記憶がなく、26歳になった今も、地元での友達というのは塾の友達以外はいない。

しかし、ここまで勉強した甲斐があり、中学受験を控える全国の小学生が受けるテストでは常に名前が載るようになり、受験前にはほぼ確実に受かるという状態になり、無事に全国的に見てもトップクラスの中高一貫校へと進学することができた。



2.中学生時代

中学校に進学してからは、今までが嘘だったかのように勉強熱が冷め、全くというほど勉強をしなくなった。その代わり、と言っていいのかはわからないが、アーチェリー部に入部して、アーチェリーにのめり込んだ。
しかし、中学2年生になる頃に部員内いじめが起こり、私はその対象にされてしまった。正直な話、つらいといった感情にはならなかったが、居心地はもちろん良いものではなかったため、すぐに辞めることを決めてわずか1年ほどで退部した。折角大会でも入賞していたので、勿体ないことをしたと今では思う。
その後は学校を休むほど、ゲームセンターに置いてあるレーシングゲームにハマった覚えがある。県内でも1、2位を争うほどの腕前になった私は、育てたゲームデータを売ることでお金になることに気付き、いくつもの育てたゲームデータを売り捌き、得たお金でまたゲームをするという生活をしていた。
しかし、こんな生活が長く続くわけもなく、学校から親に連絡がいき、学校からも親からも怒られて反省文と残りの中学生生活はゲームを禁止という条件で、また普通の学生生活に戻った。
この頃にはゲームにも少し飽きていたため、これがキッカケで26歳となる現在まで、ゲームにハマることはなくなった。



3.高校生時代

高校へと進学した(といっても、中高一貫校のため、特に何もせずに進学できた)私は、友人から誘われたアメフト部へと入部した。アメフト部では全国大会の出場や主将などの経験をさせていただき、とても身になる経験をさせていただいたと思う。
部活以外でも、草野球クラブや草サッカークラブにも参加したり、友達と夜までマックにいたりと、いわゆる青春を送った。こういったことは、もう一生経験できないかと思うと、たまにノスタルジックな気分になる。
そして、部活を引退した高校3年生の秋頃には、友達が大学進学を目指して勉強を始めていたことに気付き、慌てて勉強に取りかかろうとするが、そこにはやる気も目標もなく、1ヶ月ほどでやめてしまった。
その後、何もやることないからどうしようか、高校を卒業したらニートでもやろうかと思っていた時に、当時通っていた美容師さんからの「米国にでも行ってみたら?」という一言がきっかけで、渡米を決意。その3ヶ月後には高校を卒業して、米国にいた。



4.米国時代

私が降り立った地は、NY。なぜ、NYなのかと問われれば
何でもあるから
と答えていた。NYはビジネスから芸術まで何でもあるイメージだったし、実際に何でもあった。
着いてからしばらくは、当たり前だが英語に苦戦した。全く勉強をしていかなかった私は、小学生の頃と同じようにまた、1人だけ何もできないという状況だった。そこで語学学校に通いながら、積極的に話かけてスピーキングとリスニングを学び、単語は日常でわからなかったことやモノはGoogle翻訳で調べて、文法は日本から参考書を持ってきていたので、毎日勉強した。
こうして少しずつだが英語に慣れてきた私は、渡米から1ヶ月ほどで外に遊びに行くようになり、米国らしいことやもの(食事やバスケ、ダンスなど)をひたすら体験していった。
そして、渡米から約半年が経った頃には米国での生活にも慣れて、暇になってきたため、前からTwitterでフォローしていたIT企業の社長さんにDMでこのように送った。
「米国で暮らしていて、日々英語は学んでいるのですが、あとはひたすら経験値を積むだけだと思うので、ここらへんで違うことも学び始めようかと考えています。また、もうすぐ語学学校を卒業してコミュニティーカレッジ(2年制大学)に入学なので、そこでの専攻も迷っています。」
いきなり送ったので無視される可能性が高いと思い、気楽に送った。すると、10分も経たないうちに返信があった。
「何もやりたいことがなければ、プログラミングやIT関係にふれてみて欲しい。もし、やりたいことができたら、すぐにそちらにいってもいいから」
このような返信があり、これからITについて学ぼうと決めた。まずは手当たり次第ネットから情報を得て、有名なサービスやツール、気になるサービスは片っ端からふれた。その中には、まだ日本では話題になっていないサービスやツールも多くあった。(VineやSquareなど)
その後、コミュニティーカレッジに入学すると同時にHTML、CSSを学び簡単なHPを作ったり、C言語の本を読んだり、まだ当時は流行っていなかったPythonなんかにもふれていき、それらと同時に、私がDMを送った社長さんが人手不足で困っているのをFacebookの投稿から知り、すぐにフルリモートのインターンを申し込んだ。
無事に採用されて、約半年間ほどコンテンツマーケティングのお手伝い(Webマーケティングやリサーチャー、ライターや翻訳までやらせていただいた)をさせていただいた。
さらに、これらに加えてストリートファッションにハマっていた私は、NYで売っている服をBUYMAなどで売る、いわゆるバイヤーも始めて稼ぎはじめていた。
ここまで見ると米国時代は順調かのように思えるが、このインターンを終えた後は何もやる気が起きない状態となり、さらに当時にお付き合いしていた彼女にフラれて、気持ちが暗くなってしまった。
この後は早かった。すぐにコミュニティーカレッジを退学して、専門学校の試験を受けた。結果は合格。引っ越しもすぐにしたのだが、この学校に通って何になるのか、私は何がしたいのだろうと自問自答して、私が出した答えは帰国。
20歳の成人式を目処に帰国した。



5.1年間の空白

帰国してからは、1ヶ月だけこれからどうするか考えた。
勉強しに専門学校でも行こうか、ニートになってまたハマるゲームでも見つけようか、以前に教わったマーケティングの知識とHP制作のスキルを活かして起業しようか
いずれもピンとこなかった。友達や高校時代にお世話になった恩師、そして親に相談して大学に行くことに決めた。センター試験まで9ヶ月、一般試験まで10ヶ月もあった。
最初に決めた目標は、偏差値が高過ぎず低過ぎず、名前がある程度知れた大学には受かろうと決めた。こういった目標を立てる時に、私は周りから
「もうちょっと目標は高くしたら?」
と言われることが多いが、目標は現実的に考えて達成確率が高いことを立てているため、周りからしてみたら物足りないと思われるのかもしれない。
とにかく、目標を立てた私は受験にむけて勉強を始めた。ここまで解き方や暗記したことを忘れているのか、と落胆しながら、少しずつ記憶を回収していった。
そして無事に試験を通過して、大学に入学をした時には22歳になろうとしていた時だった。



6.大学時代

大学生となった私は、これを機に真面目になって授業とアルバイトに精を出し、無事に4年間で卒業!!!



とはいくわけもなく、入学して早々に麻雀を覚え、サークルや友達にも恵まれて授業よりも麻雀、飲み会、イベントなどにながされていった。いわゆる、「大学生」になった。
しかし、そのような中でも好きなことをスキルに変えようとする姿勢は忘れず、お酒や女性にハマった時期は水商売でアルバイトをしたり、グルメにハマった時期には季節料理で働いたりした。
その中でも、ビットコインがまだ2万円であった時に投資(今では投機だと理解できる)にハマり、あとはご存知の通り、仮想通貨ブームでお金を稼いだ。
また、大学に入学した当初からハマっていた麻雀は、「ただの麻雀が好きな大学生」から「雀荘店員」、そして「プロ雀士の弟子入り」までいっており、麻雀を仕事としている時期もあった。
しかし、このような生活をしていたため、当たり前だが4年間で卒業することなど到底無理な話で、留年した。この頃には、もうすでに25歳になっていた。



7.休学時代

「留年するにあたり、どのように履修を組み卒業までいくか、またそこには就活までも考えなければならない」
このような風に大学から言われた私は、麻雀を断ち、投資も生活に支障をきたすほどではなくなった。ここで、ITをもう一度勉強しようと思い、調べているうちに、新しいITサービスの開発をしたいと考えるようになった。
様々な投資家にアポイントを取って会いにいったり(実際に投資しても良いという方もいた)、有名ベンチャー企業にメッセージを送り会社訪問などをさせてもらった。訪ねた企業の中には六本木ヒルズに入っている企業もあり、人生で初の六本木ヒルズに入館したりもした。
このように行動している中で原宿にある、あるIT企業の新しいシステム開発に携われることになった。しかし、この時に問題となったのが大学。私は悩んだ末に、休学して1年間はIT業界で働くという選択をした。
働き始めた私は現場で覚えることも多いが、もっとプライベートでも勉強するべきだと考えた。そこで、Web系フリーランスで活動されている方に連絡を取り、その方のもとでフロントエンドの技術も学び始めた。
半年間ほど、このような生活をしていると次第に自分でも1からできることも多くなり、お世話になっていたIT企業とフリーランスの方のもとを離れて、個人事業主として仕事を始めた。
最初は上手くいかず、トラブルなどもあり苦戦したがコツコツと営業を続けることで、結果的に4社と契約することができた。



8.現在

そして、現在も個人事業主としてバリバリに働いているのかというと、そうではない。IT業界で働き始めてから約1年が経った時、復学するか退学するかの選択になった。この1年間、ひいては今までの経験を通して大学でもう一度学びたいと素直に思った。
大学の授業は社会に出てから意味がない、と口にする人がいるが、何度も学校と社会を行き来した私は、そのようなことは思わない。意味がない、と思うから自分が勝手に意味なくしてしまうだけである。
これらの気持ちは私の中から素直に出たものであり、この記事を書いている2020年5月もオンライン授業でしっかりと授業を受けている。(コロナウイルスの影響)
また、私のわがままで学生に戻るという選択をしたのにも関わらず、今でも数社とはお付き合いがある。学生の本分である、学業優先でいいからと優しい言葉を貰ったりもした。



・勉強・レーシングゲーム・ゲームデータの販売・英語・Web制作・リサーチ・ライティング・コンテンツマーケティング・転売・麻雀・仮想通貨のトレード・株式投資・テスター・SE・フロントエンドエンジニアリング・Webコンサルティング…



スキルと胸はって言えるほどでもないものもあれば、そもそもスキルでもないものもあるかもしれない。しかし、これらは私が人とは少し違うレールを歩き、身につけてきたものだ。
26歳で大学生?28歳で大学卒業してお先真っ暗だね、どうするの?どこも雇ってくれないよ?
といった、厳しい言葉をかけられることもある。
でも、私は私がやってきたことに自信を持っているし、これからも挑戦して楽しんでいこうと思う。
「今」を生きてきた私が将来のことを言うのはらしくないが、卒業したらどこかの企業でもっと学びたいし、経済を少しでもまわし役にたちたいと思っている。さらにもっと先を言えば、私がこれから先にハマったことで人の役にたちたいと思っている。それが会社員、フリーランス、起業などの形はどうだっていい。フリーターだろうがニートだろうが、社会人、そして学生だろうが何だっていい。あくまでそれらは手段に過ぎないのだから。



これから、
まだまだ私は学び、
挑戦し、
ハマっていく






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