ヨットのしろうとが3週間でドーバー海峡を渡って、そのあとさらに6つの海峡を制覇してしまった話。
あの年の4月、ぼくは、ボスとテーブルをはさんで向かい合っていた。
ボスに会うのはそれが2回めだった。いや、そのときのほかにも、大勢の空間に一緒にいたことはあったけれども、言葉をかわす機会もなかったのでそれはカウントしていない。まあ、ぼくの位置づけがだいたいそのくらいだったということだ。
秘書の人が紅茶をもってきてくれた。やたらスラっとして綺麗な人だ。この人に会うのも2回めだ。紅茶を飲みながら、ボスは云った。
「ヨットに乗りたいんですよ」
ボスはぼくより5つ歳上だけど、いつもこういう口調だ。もっと年が離れている人、たとえば10コくらい下が相手だと、もうちょっとだけくだけた話し方になる。こともある。見た目はいかついのだけど、すごく丁寧だ。
ボスはモナコに住んでいて、日本にやってくるのは1年のうちに数回しかない。そのタイミングでマンツーマンで話をしてもらう時間を得たのだった。
仕事のこととか、遊びのこととか、いろいろ教えてもらって、ちょっと一息というところで紅茶をいただいたところである。
ぼくは紅茶なんかほとんど飲んだことがなかった。いや、飲んだことがないというのはウソで、子どもの頃から甘いミルクティは好きだったし、学生のころアイルランドで1ヶ月ほど過ごしたときは日に5杯も6杯もミルクティを飲んだ。チベットでもチャイを飲んだし、いやもういいか。
とにかく、日常的なものとしては紅茶はフツーに飲むが、なんというか、たとえばホテルのティールームで紅茶をオーダーしたことはない。そういうことだ。男って、なんか、コーヒーな気がする。
「え?ヨットですか?」
やたらと模様がたくさん描かれているティーカップに緊張しながら、ぼくは答えた。
「ぼくは、高校のとき、ヨット部だったのですよ」
これはほんとうだ。高校のときに仙台に住んでいたぼくは、平日はバンド、週末はヨット、という生活を送っていたのだ。学区内で一番の進学校に通っていて、このような活動をしているとなれば、モテるに違いないと思うのだけれど、まったくその気配がなかった。なぜだろう。いまでも疑問である。
「ほんとうですか。じゃあヨット買って、ふたりでどこか渡りましょうよ」
ボスは社交辞令ではなく、ほんきでヨットに乗りたいようだ。当たり前か、ボスのほうから言い出したのだから。
ヨットといっても、いろいろある。
たぶん、ほとんどの人は、ヨットというとものすごくエクスクルーシブでゴージャスでお金持ちの象徴で、みたいな印象を持っているように思うのだけれども、ぼくが高校時代に乗っていたのはもちろんそんなものではない。
一人乗りとか二人乗りの、全長はだいたい5メートルくらいの、エンジンなど付いていない、いうなれば自転車のようなものだ。
セール(帆)で受けた風力でのみ走ることができる。
逆にいうと、風さえあれば、燃料のことなど気にせず、どこまででも走ってゆけるのだ。
ボスに確認すると、ボスの認識も同じであった。と、いうか、ボスはクルーザーなんかはすでに持っていて、フランスの港に停泊させているのである。
そういうのではなくて、ぼくが乗っていたような、風だけで走る小さなヨットに乗りたいということだった。それはまだ乗ったことがないと。
ボスはその場でパソコンを出してきて、グーグルマップを開き、ここはどうですかね、渡れますかね、とぼくに聞く。
わかるはずがない。
高校のときに、県大会のレースに出るために、陸から近いところを、小学生が校庭のトラックを長距離走するように、クルクルと回って練習していただけなのだ。
「ここからここまでだと30kmですね」
などとボスが言っている。海のうえでの30kmがどのくらいの距離なのか検討もつかない。
「東京湾ってヨットで横切れるんですかね?」
いや、それもわからない。
わからないけれど、それまでの数ヶ月のボスからの教えからすると、答えは「やりましょう」しかないのである。高校時代にヨットに乗ったことがあるというだけで、その後20年はペーパードライバーならぬペーパーセイラーなのだが。ちなみに、自転車と同様に、小さなヨットには免許など不要である。大きな船だと船舶免許が必要で、ぼくはその後取得することになるのだが。
ぼくが目ぼしいヨットを探して、あらためてボスに連絡するということでその日は別れた。
翌日、ボスからメッセージが入って、なにごとかと緊張してすぐに開くと、
「ほかにも仲間が見つかりました!」とある。
なんでも、同じコミュニティに属しているぼくよりも少し、いや一回りくらい歳上の女性が、「ヨットに乗るんですか!? わたしも乗りたいです!」と言い出したのだそうだ。
「こうなったら、『ヨット部』をつくって、みんなでやりましょうか!」とボス。
よくわからないことになってきたけれど、ボスがご機嫌なのでぼくも嬉しい。
ネットでいろいろ探して、あちらこちら電話して、神奈川の逗子のヨットメーカーを見つけた。東京からなら2時間くらいで行ける。
とりあえずいちど見に行ってみることにした。
メーカーの社長が直接対応してもらえるという話で、ちょっと緊張していたのだけど、じっさいには、たぶん社員はその社長一人だけである。
社長が車でJRの逗子駅に迎えに来てくれた。とんでもないオンボロ車で。完全に職人さんである。とても人当たりがよく、それから6年ほどたった今でもお付き合いいただいているのだが、お金よりも何よりもとにかくヨットが好きな人なのだ。
社長は車を30分ほど走らせて、ヨット置き場につれていってくれた。
ヨット置き場とはあんまりだ、ほかに言い方はないのかと自分でも思うが、そうとしか言いようがないのだから仕方がない。
船なのだから、海に近いところなのかと思っていたが、ぜんぜんそうではなかった。
小さなヨットから、10人以上乗れそうな船まで、20艇くらい置いてあった。
2~3人乗りを探していると伝えていたのに、それを忘れたかのように大きな船を進めてくる。
「あ、これがいいです」
とぼくが言うと、
「それなら新しく始める人にも乗りやすいよ」とのこと。
ぼくは写真を撮ってボスにメッセージで送り、また来ますと社長に伝えた。
その後、社長の「工場」にも連れていってもらったのだけど、そこは「工場」というしかないところで、「ヨットメーカー」というワードはぼくの中からすみやかに消えていったのである。
ボスに伝えると、「じゃあそれを買いましょう」というか、「それ買っといて」みたいな感じで、信頼してくれているのだろうけど、なんだか責任重大だなと緊張をおぼえた。
ボスは「ヨットを置くなら葉山ですね」というので、葉山マリーナを契約しようとしたが、そのときは空きがなくて一ヶ月ほどお隣の葉山港に停めていた。
石原裕次郎灯台があるところだ。だれも知らないか。
ヨットが納車ならぬ納艇されてくるその日。ボスと、ボスよりも上の方と、コミュニティの先輩と、とにかくぼくは一番下っ端で、それだけで緊張していた。
緊張する場面が多いのだが、そうなのだ。とにかくいつも緊張していたのだ。
社長がトレーラーでヨットを運んできて、マストを立てて、ロープを結び、海に運んでくれた。
「じゃあ、まずはあなたたち(ボスとぼく)でしっかり練習して、4~5回くらい乗ったら、お仲間さんたちを乗せてあげたらいいでしょう」
と社長が言っていたのだが、
「わかりました!」
という舌の根も乾かぬうちに、ぼくたちは5人全員でヨットに乗り込み、走り出してしまった。
さきほど書いたとおり、ぼくは20年間ヨットに触ってもいないペーパーセイラーである。
はっきりいって、ヨットの操作方法も半分以上忘れている。というか、高校のときにどれだけちゃんと理解していたのかもはなはなだ怪しいが。
「手塚さんはヨットのベテランだから」
いやちがうのです。
そしてもう一つ、大事なことがある。ヨットには2つの役割がある。
スキッパーとクルーだ。
スキッパーが、車のハンドルにあたる舵を握り、クルーはその他のたくさんの作業を行う。
ぼくが高校のときに主にやっていたのはクルーであって、スキッパーの経験はほとんどない。
このことをボスに伝えるのを忘れていたのだけど、まあ、伝えていても何も事態は変わってはいなかったと思うけれど、とにかくヨットは葉山から江ノ島に向けて進み始めてしまった。
このあと、風が強くなり、大雨が降ってきて、ほうほうのていで江ノ島から帰ってきたのだけど、そのときは誰も、その3週間後に、イギリスとフランスの間のドーバー海峡をヨットで渡ることになろうとは、ほんとうに誰ひとり思ってもいなかった。
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