85羽の鶴

父入院

2時間後、母から電話。「朝6時頃起きたらお父さんが倒れてて、着ていたものを全部脱いでて、尿と便でお父さんの体が汚れてて、救急車を呼ぶにもまずお父さんをきれいにしてからじゃないとと思って、タオルをお湯に濡らして拭き取って、なかなか拭き取れなくて、意識なかったんだけど、タオルで拭いたり、寝まきを着せようと体をあっちこっち動かしていたら、意識が戻って今、寝てるのよ。あんた、家に来てよ。」
私は急いで支度をして、電車で実家に向かった。父は寝ていて意識があったが、話しかけるとうんうんうなずくだけだった。そんなに寒くないのにすごく寒がって、毛布をかけていた。そんなにかけたら暑いからと母が毛布をはいだら、「寒い、ダメだって!」と怒って毛布を引張って自分にかけた。
意識はあるけれど、具合が悪そうだ。私は母に言った。「病院に担いで連れて行くか、救急車を呼んだ方がいいよ。」って。父は糖尿病の持病がある。数年前から人工透析を考えるように言われていたのである。人工透析については色々な考えがあって、しないできていた。母はかかりつけの病院に電話をした。「もしもし。。。。」
母は静かではあったが、パニックになっていた。うまく説明ができない。質問に答えるかたちでどうしたらいいのか聞いた。返ってきたこたえは、すぐに救急車を呼ぶようにとのことだった。救急車を呼ぶのに、勇気がいる。本当に救急車を呼んでもいいのかという心配や不安があった。救急車を呼ぶ前に#7119に電話をしてみようということになった。母「もしもし。。。。」返ってきたこたえは先程と同じで、すぐに救急車を呼ぶようにとのことだった。今度は躊躇なく救急車を呼んだ。父は意識があり、救急隊に自分の名前と生年月日を言った。意識があることに、母と私はほんの少しホッとした。
病院に着くと父はすぐに集中治療室に入った。先生からの説明は、腎臓は全く機能していない。心臓は2,3割しか機能していない。生きているのが奇跡。きっと母が発見した時には心臓が止まっていて、何も着ていなかったのは、きっと苦しんでもがいたのではないかと。それで母が拭いたり着替えさせたりしているうちに体があっちこっち動いて、心臓がまた動き出したんじゃないかって。でもいつどうなってもおかしくない。死亡してしまうかもしれない。家族や親戚には話しておいた方がいい、今、会っておいた方がいいとのことだった。集中治療室にいる父と面会できた。声をかけるとうなずく父。父が目を開けて喋った。「予定が狂っちゃった。」母と私は、頑張ってと声をかけて、一度自宅に帰宅した。

うっ血性心不全で心臓弁膜症手術

次の日、病院の先生から説明があった。心臓弁膜症の手術をするかしないかの選択・決断だった。手術をしない場合、相当苦しんで死んでいく。手術をした場合、成功率50%。体力がもたなくて、手術の途中で死亡してしまう可能性が高いということだった。どちらにしても究極の選択だ。母は言った。「全力を尽くして下さい。」
まもなく手術が始まった。足の血管と背中の血管をとり、心臓に移植し、人工弁をとりつけた。手術時間6時間。手術は成功。集中治療室に入り、眠っている父。声をかけると手や足を動かし、反応しているように見えた。聞こえているのかな?お父さん、頑張って。
ところでそんな大きな手術、一体いくらかかるのかと母と話していた。母は年金で暮らしているので、もし高額な費用だったとしたら、とても払えない。病院の先生と話している時に、母はおそるおそる聞いた。手術の費用は高額なのか。先生の説明は、本来は600万円位かかる手術だけれど、心臓人工弁の手術をした人は、申請すると身体障害者1級になり、支払額がぐんと減って、だいたい1万円位だと言うのだ。600万円が1万円?母と私は顔を見合わせて、ホッとしたのだ。
母と私はできる限り父の病院に行った。母はほぼ毎日。父はずっと昏睡状態だった。看護師さん達は、ご家族の声掛けが何よりものリハビリなので、どんどん声掛けをして下さいと言っていが、私は心の中でそんなこと本当に効果があるのか疑問だったが、後に声掛けの大事さに気づいたのだった。

終活

父は数年前から終活をしていた。もしも自分に何かあったら母や周りの人が困らないように、ノートを作っていた。
・退職した会社のOB会の連絡先.....連絡してほしい
・車の処分.....担当者の連絡先
・保険の解約
・銀行口座
・社会保険事務所に行くように
・遺族年金のこと
・葬儀はやらない。お金がかかることはしなくていい。
・火葬場.....住所・連絡先、火葬の金額。
父は自分が火葬される火葬場に見学にも行っていた。
母と私は父の手術10日後、車の処分をし、車とガン保険の解約をした。
その頃の父は、意識が朦朧としていた。人工透析を始めた。

母の手術

母の話になるが母はこの時、腎臓ガンだった。見つかったのは1年前。両方の腎臓にガンができていたのである。ガンになるのは二度目。一度目は29年前だ。私が高校生の時だった。健診で子宮ガンであることがわかったのだ。母はショックで毎日、泣いていた。子宮全摘手術をしたのだが、手術前にアートフラワーに目覚めて教室に通い勉強して、毎日夜中に一生懸命に作っていた。何かに没頭したかったのだと思う。手術は成功。後に母は、祖父母がやっていて引退した古本屋さんを改造して、なんと、アートフラワーのお店をオープンしたのだった。母は手術後とてもパワフルで、仕事は母の生きがいとなった。それから29年間、ガンとは無縁だったのに。悔しい。私は新橋にある烏森神社に、癌封じお守りがあることを知って足を運び、手を合わせ、お守りを買った。ガンを封じ込めて、やっつけて、治りますように。
1年前は左の腎臓を開腹で4分の1を切除。母曰く、手術の間ずっと夢を見ていたらしく、亡くなったおじいちゃん・おばあちゃん・おじさん・おばさん達が会いに来てくれて、ずっとそばにいて「こわくないよ。」と助けてくれたらしい。手術は成功したのだが、筋肉を相当切ったらしく、毎日痛い・痛いと痛がっていた。それは今もだ。切ったところが今も痛く、お腹がどんどん膨らんでいて、妊婦さんみたいなのだ。何度検査をしても、原因がわからないとか、大丈夫とか言われている。
それから1年後、父が闘病中に右の腎臓の手術をした。


母、歯肉に腫瘍

今度の手術は前にした左の腎臓手術の回復が、あまりよくないとのことで、ロボット手術をすることになった。かかりつけの病院ではロボット手術はやっていないので、違う病院で手術をすることになった。手術の時に口から管を入れて麻酔液を入れるので、管が硬いから歯にぶつかったら、歯が折れてしまう可能性があるので、手術の2週間前に口の中を検査した。すぐに終わると思い、私は廊下で待っていた。
少しすると母が青ざめた顔で出てきた。
「なんか、あたし、口の中に腫瘍があるんだって。先生達が、なんか、焦ってるのよ。どうしよう、ガンだったら。どうして。。。。」
私は冷静を装うことしかできなかった。
母がまた先生に呼ばれて、診察室に入って行った。そのすぐ後に、先生が私のところにきて、「娘さん、早く、早く。」と言うので、診察室に入った。
三人の先生が母の前で私に言った。「これ、多分、ガンだよ。最近できたものではなくて、前からあったんじゃないかな。すぐに手術をした方がいい。」と。
母は泣き崩れ、言った。「あたし、どうなるの?死ぬの?ねえ、死ぬの?」先生達は、今発見できてよかったよ。治療をしようねと母をなぐさめた。その二日後に歯肉を一部切取り検査をして、CT、またその二日後にPETの検査をした。結果はガンの診断は出なかった。その1週間後には腎臓の手術があるので、今はそれに専念しようとのことだった。
母は不安と心配で仕方がなかった。もし万が一、自分が入院中に闘病中の父が死んでしまったら、どうしようって。
母「もし、あたしが入院中にお父さんが死んでしまったら、火葬は待って。遺体安置所とドライアイスのお金はかかるけど、お願いだから待ってちょうだい。お願い。」
母は頑張った。手術成功。目を覚ました時、父のことを真っ先に心配していた。その後、歯肉の腫瘍は切除したが、何度検査をしてもガンの診断はでなかった。ガンではなかったんだろうか。

サイダー飲みたい・アイスクリーム食べたい

父の手術から1ヶ月後、いつものように母と集中治療室に入ると、父が車椅子に乗って、リハビリをしていた。私達は驚いた。父の意識が戻っている。車椅子に座っている。目を開けている。
母「お父さん、わかる?」
父「車はどうした?」
母「処分したよ。車の保険と駐車場も解約したから大丈夫だよ。」
父「よかった。お前、どうした?どうした?」
父は倒れる前から、母の腎臓手術の予定を知っていたし、心配していた。
母「あたし、手術終わって退院したよ。」
父「よかった。よかった」
父「迷惑かけてごめん。ごめん。」
母「お父さんは元気になって、退院するんだからね。」
父はすごく泣いていた。
父「こんな体になって。。。。。どうして死なせてくれなかったんだ。こんなんじゃ生きていても仕方ない。」
母「家であたしと一緒に暮らしてよ。」
父「サイダー飲みたい。アイスクリーム食べたい。
母「元気になって食べようね。」
父「ちょっとだけ。ダメ?」
鼻から胃にチューブが入っていて、そこから栄養を入れているので口からは食べられなかった。
父の意識がもう戻らないんじゃないかって思っていたから、本当に嬉しかった。父に早くサイダーとアイスクリーム食べさせてあげたい。

リハビリ

父はリハビリを嫌がっていた。体はほとんど動かないので、見ていると母も私も辛かった。そんなやらなくてもとその時は思っていたが後に、リハビリの大事さがわかるのだった。
ある日友人とランチをした。父のことを話すと、リハビリの大事さを聞いた。友人のおじさんが倒れた時、うちの父と同じような状態で家族はあきらめていたが、体が固まらないようにリハビリをして辛いけど、頑張ったら体が動くようになり、回復して退院したというのだ。
意識がなくても、家族が声掛けをすると聞こえていたり、脳が反応することがあり意識が戻ることがあるという話も聞いた。家に帰ってネットでも調べてみた。大事だ!

転院

父の手術から3ヶ月後、できる治療はしたので、今後は人工透析とリハビリができる病院に転院するようにとのことで、母と私は病院を探した。あるところに見学に行った時のこと。院内を見てまわり、説明を聞いた。
もし万が一のことが起こった時に、延命治療はどうするかの話になった。「もし機械をつけたとしても、それからどれくらい生きられるのかわからないし、本人も辛いと思うので、延命治療はしなくていいですね。延命治療はしないという同意書に氏名と押印して下さい。」
母と私は顔を見合わせ、母は言った。「この場では決められないので、もう少し考えます。」と。そうしたら、早めに決めて書類を持って来るように言われた。
この病院はやめた。
母は支援を求めて、地域包括支援センターに行った。事情を話すと、保健師さんや社会福祉士さんが親身になって話を聞いてくれて、病院を調べてくれた。一覧リストを出し、電話で空きがあるか確認してくれた。今空きがあってすぐに入れるところで、家から通える範囲のところには1つあった。母はすぐにアポを取り見学に行き、ここに決めた。
転院の日、父は意識がしっかりあり、会話もちゃんとできていた。転院することも話すと理解していた。母が病室から離れている時に、父は私に言った。「お母さんを頼むね。」って。私は「うん。」って。
父は部屋で準備をしている看護師さん達に、「ありがとう。」と言っていた。私の方を見て看護師さんに「娘!」って。看護師さんが「おまごさんだと思いましたよ!
」と言うと、「女房の子!」って微笑んだ。そのことはまた後で話そう。

転院した病院

転院した病院は、見たかんじ重症の高齢者が入るところのようだった。もう末期の人達が。ちゃんと会話ができる患者さんは、父だけだった。最初、看護師さんが喋れるんですね、会話もちゃんとしっかりできるんですね、ここでは喋れる人はいないんですよと言ったのだ。だから院内は喋る人はいないから静かなんだけど、ブザーがよく鳴っていた。ブザーが鳴っている時、看護師さん達は慌ただしく動き回り、忙しそうだった。みんな体が動かなくて、看護師さんを呼ぶボタンを押せるとも思えないし、あのブザーはご臨終のブザーだったのか?思い出すとこわい。
転院した翌日、父は意識が朦朧としていた。日に日に父は衰弱していった。病院に行く度に、隣にいた人がいなくなっていた。またか。父は意識がない時が多かった。言葉もだんだん喋れなくなっていった。ある日父はまだ喋れる時に母に言った。「この病院はヤバいよ。監視されているし、監獄。危ない。お前、早く帰った方がいい。」と。母は何かされているのか聞いたが、父はシーっと言って、そのことについては喋らない。
父の思い込みなのか、妄想なのか、幻覚なのか、勘違いなのか?でも前の病院ではそんなこと言わなかったし、転院直前まではちゃんと意識があって会話もできていたし、やっぱり転院してから何かおかしい気がする。
ネット検索
病院をネットで検索してみた。口コミを見た。
・高齢者しかいない
・入院したらおしまい
・元気になって退院した人はいない
・生きて帰れない
・終末期の人が入る病院
・医者が常時いない
・何かないと医者は病院には来ない
・意識がない人が多い
・みんなほとんど眠っている
・医者が来なくていいように薬で眠らされている
・薬の過剰摂取で意識が朦朧としている
・はやく死亡させる
検索しているとそこの病院が出しているリストなのか、数年間の1年間の入院人数と退院人数のリストを発見した。転院した人はごく数人いるが、退院した人はいない。
ネットは嘘やでたらめも多いことは知っているし、当てにならない口コミもあることも知っているけれど、どこにもいいことは書かれていなかった。でも父がそれらのことをされている証拠などない。今更、他に行く病院などないのだ。
母が見学に行って説明を聞いた時は、看護師さん達は優しくて、○月○日に空きが出るので入れます。退院を目指しましょう。在宅医療を目指しましょう。リハビリを頑張りましょうと言っていたらしい。今改めて考えてみると、○月○日に空きが出るってどういこと?転院する人がいるっていうこと?でも転院する人はリストを見るとほとんどいない。まさか死亡する日が決まっている人がいるっていうこと?死亡する順番が決まっている?まさか。。。。そんな病院ないよね。。。。?私の考えすぎだよね?きっと。
ある日、母が駅からタクシーで病院に行った時のこと。
母「あそこの病院の評判ってどうなんですか?」
運転手さん「よく家族を乗せるけど、よく死んでるね。まあ、高齢の人達が入っているから。。。。」
母が地元でタクシーに乗った時のこと。
運転手さんは偶然にも、近所のご主人だった。
運転手さん「大変だったね、あの日、救急車でご主人運ばれたんだってね。」
母「○○っていう病院に転院したのよ。」
運転手さん「知り合いがあそこの病院に転院したんだけどね、転院する前は安定していたんだけど、転院してすぐに亡くなったんだよ。あんまりいい評判は聞かないねぇ。」

先生不在

父はいつどうなってもおかしくない状態が続いた。母が看護師さん達に父のことを聞くと、先生がいないのでわかりません、答えられません、看護師の口からは言えないんです、先生に聞いて下さいと言われ、先生はいついるのかいつ来るのかを聞くと、先生はいつ来るかわかりません、来た時に聞いて下さいと言った。いつ来るかわからないのに、聞けないではないか。病院への不信感もあり、母の心労はどんどん大きくなっていった。

占いにハマっていく母

ある日母は地元の駅で買い物をして、路地をブラブラしていたら、占いを見つけた。生年月日やタロットカードやよくわかんないけど、計算した数字などで占うらしい。母から電話。
母「昨日、占いを見つけて占ってもらったのよ。きれいな人で、ずばり言うのよ。当たってるのよ。」
私「それは最初に何か聞かれて、自分で言ったからなんじゃないの?お父さんが病気でとか。。。。」
母「まあ、それは言ったけど、どうなるか占ってもらったら、このことで家族が結束するって。あんたがあたしの心の支えになってるんだって。数カ月後、お父さんのことは見えないから、もしかしたら悲しいことがあるかもしれないけど、家族が結束してこの悲しみを乗り越えていけるって言うのよ。お父さん、もしかしたらもうじきなんじゃないかしら。」
私は占いは好きな方ではあるが、本当に信じてのめり込んだりはしない。占いには依存しない。
母が占いにハマるのは何度目だろうか?20年前にも占いにハマって困ったことがあった。知り合いがある占い師に占ってもらっていて、それが当たると言うのだ。知り合いに誘われてその占い師に会いに行った。母はどんどんハマっていった。
私の写真を見せて占ってもらったら、私には悪い霊がついていると言われたらしいのだ。一人だけではなくて、数人の悪い霊が。ある日母に言われた。
母「あんたを先生のところに連れて行って、見てもらいたいから、一緒に行ってちょうだい。あんたのことが心配なのよ。」
私「バカじゃん!そんなの信じるなんて、頭おかしいんじゃないの!」
母から度々、先生が娘さんを連れてくるように言っているから、一緒に行ってほしいと言われた。このままでは私は幸せにはなれないとか言われて、どんどん洗脳されていった。私がいない時とか、お風呂に入っている間に、私の部屋を詮索するようになった。物の位置が違ったりして、すぐにわかった。母に尾行までされていた。私はよくいい加減にしてと言っていた。占い師のところに行く時には必ず手土産を持っていき、色々な物を買って持って行っていた。いくらかは知らないが、きっとお金も相当払っていたと思う。
そんな母を父は見守っていた。父は占いには全く興味がなく信じていなかったが、お母さんを許してやってよって。父はいつも優しかった。
3年位して、行く度にお金がかかるからと言うようになり、だんだん占いに行かなくなり、行くのをやめたのである。
そして今回だ。占いが悪いとは思わないけど、以前のような母になってしまわないか心配だった。母は占い師を先生と呼ぶようになった。占い師を先生と呼ぶようになったら、あぶない!!
母「今日も先生のところに言って来たんだけど、あんたのことを見てもらったら、娘さんはすごい運の持ち主だっていうのよ。あんたがあたしの力になってくれるんだって。あたし勉強して、先生みたいな当たる占い師になりたいのよ。でも今から勉強するって言っても、もう年だしねぇ。もっと早く勉強してればよかったわぁ。」
占いの料金は時間で決まっていて、高額ではないのがちょっと安心した。20年前と違って今はネットで調べることができるから、その占い師を検索してみた。悪い人ではなさそうだ。
私「まあ、人生相談じゃない?」
母「そうね!」

亀と三途の川

ある日、ずっと昏睡状態だった父が目を開けて言った。ベッドに沢山の亀がいて、それを焼いて食べるって。その亀を食べれば長生きできるからって。
またある日、父は言った。
父「お金をちょうだい。」
母「お金はダメよ。」
父「必要なんだ。」
母「何につかうの?」
父「三途の川を渡ろうと思ったんだけど、お金がなくて渡れずに戻って来たんだよ。だからどうしてもお金が必要なんだよ。」
母は千円を父に見せたら、それじゃ足りないと言った。もう千円見せたら、それでも足りないと言った。もう千円見せたら
父「ありがとう。これで足りる。」と言った。母は三千円を折りたたみティッシュで包み、手にはめているミトンの中に入れて、父に握らせた。父は「ありがとう。これで渡れる、ありがとう。」と言って涙を流し、その後すぐに眠りに入った。

父のパソコン

実家に行った時に母に父のパソコンを処分してほしいと言われ、私がもうらことになり、家に持ち帰った。パソコンの中を見て、父の思いを知った。以前、父はEメールの練習をしていた。電話がかかってきて、今メール送ったんだけど届いているかな?って。数通送った中で、2通しか届いていなかった。
父は家に来てもらって、パソコンを習っていた。パソコンの先生とのやり取りがあった。Eメール
先生「その後、娘さんとはメールのやりとりはしていますか?娘さんとはホントの親子ではないから、距離があってなかなか直接の会話ができないから、メールでコミュニケーションをとりたいと言っていたので、やりとりできていたらいいですね。」
父は私とコミュニケーションを取りたかったんだ!初めて知った。
愛犬への思いを綴ったものがあった
愛犬ダンディ
時の経過と私の老化の進行で、​愛するダンディの記憶が薄れない様に、書き留めておこう。ダンと初めて逢ったのは商店街のペットショップだった。12年前の4月、帰宅中にウインドウ越しに盛んに尾を振る愛くるしい子犬が君だった。その日からお互いに忘れられない存在になった。そしてゴールデンウィークに我が家の一員「ダンディ」が誕生した。思い出す行動がいくつもある。どれも忘れられない。
1雷が大嫌いで雷が鳴り響くと、大慌てで逃げ回り、何かの陰に隠れようと必死だった。ある夏の日、ドライブ中突然の雷鳴にビックリした彼は、運転席の足もとにもぐりこみ、大変危険だった。
2とにかく出かけるのが好きで、私達が外出の準備をしていると、先回りをして玄関で待機していた。
3階段が怖いので、ほとんど二回の部屋には来ることはなかったが、夜中に何度もトイレに下りる私の足音を聞きつけ、トレイのドアの近くに来て、頭を撫でられ、安心して自分のベッドに戻って行った。
4ドライブが好きで各地に出かけた。遠くは博多、玉造温泉、境港、修善寺、沼津、花園温泉、伊東、吉祥寺、練馬、高円寺、川越。出先での思い出は尽きない。玉造温泉の河原で水を恐れぬダンは、短い脚にもかかわらず腹まで濡らして喜んで
いた。
5風呂が大好きだった。担当はお母さんで風呂から「ダーン」と呼ぶ声に、一目散にまっしぐら、はしゃぎまくっていた。出ると私によって、「ドライヤー」サービス。結構、おとなしくなすがまま。
平成26年の夏の終り頃、下唇に腫物ができ、10月医師の診断を受けた。10月21日に手術をし、悪性腫瘍で余命160日と宣告された。残り5ヶ月あまり。。。3月末か4月には散る命。4月後半には喉のリンパが腫れ始めた。日を追って腫れが大きくなり、食事がとれなくなった。どんどん痩せ始めまるまるもこもこだったお尻が断崖絶壁のような岩みたいに尖ってきた。体力もみるみるうちに落ち込み、トレイに行くのも腰がふらふら、すぐ転んだ。でもダンは排泄処理は最期までしっかりしていた。食事を受け付けなくなり、20日位は水だけでながらえていた。本当に残酷な20日だった。食べたかったろう、お腹が空いただろう。6キロ近くあった体重は4キロまで落ち込んでいた。平成27年5月22日午前5時、お母さんと私の腕の中で天国へ旅だった。まる12年間、家族の一員だった。12年6ヶ月の生涯だった。
長い間、本当にありがとう。安らかな眠りを祈り、合掌。
ダンへの誓い:ダン以上のペットは考えられない。生涯、他のペットは飼わない。
                           平成27年6月11

父の存在

母は離婚し再婚している。私が小学5年生の時、父と暮らし始めた。父は母の13歳年上だ。父の印象は、クソ真面目なおじさんっといった感じだった。私は、生みの父親のことが大好きだった。しかし、離婚。悲しかったし寂しかった。私が小学校卒業する時に父と入籍し、名字が変わった。私は人一倍人見知りな性格で、父と会話をすることが苦手だった。何かある時にはいつも母経由だった。父はよく言っていた。「血は繋がってないし、本当の親子にはなれないけど、でも家族だよ。お前に何かあった時にはいつだって、どこだってかけつけるんだ。」って。思春期の頃はそれがとてもウザかった。
私が若い頃、帰りが遅くなると携帯に電話がかかってきて、「今どこにいる?今から車で迎えに行くからそこで待ってて。」とよく車で迎えに来てくれた。
生みの父親には身寄りがなかった。父は私と兄の父親だから、何かあったらかけつけてあげようと母に話していた。生みの父親が具合が悪い時には、母にお弁当を作って持って行ってあげようよと、母が作ったお弁当を二人で届けて、看病しに行ったことも何回もあった。生みの父親は父のことを、お父ちゃんお父ちゃんと、慕っていた。
生みの父親が脳出血で倒れた時に、病院からうちに連絡があった。身寄りがないので、父と母が支払いや色々な手続きとかをして、度々病院にも足を運んだ。生みの父親は十数年闘病し亡くなった。その時も父と母が二人で見送った。実家に生みの父親の遺骨を持ってきた。父は私と兄の父親なんだから、うちのお墓に入れてあげようと言ったけれど、母は離婚した夫という思いがあり、そうすることはなかなかできず、しばらく実家に遺骨があった。母は度々、生みの父親が早くお墓に入れてほしいという夢を見るようになり、お墓に納骨をした。この時も父と母で。母は父の優しさに感謝していた。
おじいちゃんとおばあちゃんの時もそう。父は血の繋がりのない、介護が必要となったおじいちゃんとおばあちゃんにも優しかった。母と一緒に介護した。
私にもそう、すごく優しかった。私が結婚して子どもができた時、妊娠中、心配だから実家に帰っておいでとよく言っていたし、自分とは血の繋がりのない二人の孫を、すごくかわいがってくれた。
私に子どもができてからは、父との関係もよくなっていき、普通に会話もできるようになっていった。父から時々、手紙が郵送で届き、よく頑張っているねと書かれてあった。父は兄にも、母の姉妹にも優しかった。あんな優しい人、他にいない!何よりも、父と母はすごく仲が良かったし、二人はいつも一緒にいた。豪放な性格な母と、細かく真面目な性格の父。一見、合いそうもない二人だけれど、二人は運命の人だったんだと思う。

85羽の鶴

病院から父は呼吸が浅くなってきているので、今日か明日と言われていた。​私は折り紙で鶴を折ることにした。普通サイズの折り紙の4分の1のサイズで。父が回復しますように、一日でも長く生きられますようにと願いを込めた。一つは普通サイズの金色の折り紙を使い、メッセージを書いた。父が旅立つ時には、棺に入れようと思った。鶴なんて折ったことがなくて、動画を見ながら折った。毎日折った。心を込めて折った。夢中で折った。一生懸命折った。数日かかった。
ある日、母から電話。
母「病院から電話かかってきて、お父さん、息がないって。どうしよう。。。」母と私はそれぞれの家から急いで病院に駆けつけた。
母が先に着いた時には、父はもう亡くなっていた。病院の説明は、足からカテーテルを入れている最中に、気がついたらもう呼吸が止まっていて、慌ててしまって、臨終の時間がわからないと言うのだ。母は言いたいことが沢山あったが、悲しみでいっぱいだった。母と一緒に確認した時間を臨終の時間にするということで、部屋に入った。先生がいた!先生が心電図や呼吸などを母と一緒に確認した時間が臨終の時間になった。先生と会ったのは転院した日以来だった。母は聞きたいことが沢山あったが、それ以上に悲しみでいっぱいだった。
転院してから2ヶ月半、父は天国へと旅立った。倒れてから5ヶ月半のことだった。
父 85歳 永眠
私は棺に85羽の鶴を入れた。
5ヶ月半という時間は、父が母や私達に覚悟と準備の時間を与えてくれたのだと思っている。その時間がなく突然だったとしたら、きっと母の悲しみはもっと深く計り知れないだろう。
父が亡くなった後、母が手続きに年金事務所に行った時のこと。母はスタッフに「ご主人、亡くなられたんですね。」と言われたのだ。父は生前、年金事務所に行き、自分が亡くなったら女房が手続きに来るので、女房はそういのが苦手なので、よろしくお願いしますと言っていたのだそうだ。それを知った母は、涙が溢れて止まらなかった。
母からこんな話を聞いた。私が結婚して実家から出た日、寂しくて二人で泣いたこと、父は私のことを「あいつは口数が少ないけど、本当にいいやつだ。」と言っていたこと、父はここ数年、足腰が弱く自分の部屋のベッドに横になっていたことが多く、手の届くところにいつも私の写真やアルバムを置いて、よく見ていたことを。私は想像以上に父から愛されていたんだと涙が出た。
父にちょっとでもサイダー飲ませてあげればよかった、アイスクリーム食べさせてあげればよかった。
もうじき父の一周忌。どうしも書かずにはいられなかった。
                              おしまい

あとがき

​その時の率直な気持ちを文章にしましが、転院した病院のことを悪く書いてしまって、申し訳ないと思っています。時間が経った今では、私は勉強不足でした。介護医療の病院で、高齢者が多いのも、亡くなる人が多いのも、いずれほとんどの人が亡くなるのも、看取りの場所であるのも、退院する人がいないのも、当然です。ネットの口コミは、知らない人からしたらそう見えたのかもしれません、実際に自分が見たわけでもないのに誰かに聞いて、想像で書かれたかもしれません。父が監視されていると言ったのは、もしかしたら様子をみていた看護師さんのことを言っていたのかもしれません。監獄と言ったのは、自分の体が動かなく、とても嫌がっていた痰の吸引のことを言っていたのかもしれません。○月○日に空きが出ると言ったのは、ご危篤の方がいたのかもしれません。看護師さんが先生はいつ来るのかわからないと言ったのは、先生は何かあった時に来るけれど、日にちはわからないという意味だったのかもしれません。
臨終の時間がわからないと言ったのは、正直だと思います。私達にはわからないのだから、適当な時間を言ってもよかったのにとも思います。母は辛い思いをしましたが、母と一緒に確認したのは、本当に正直だったのだと思います。母と私はやり場のない悲しみを、誰かのせいにしたかったのかもしれません。父が亡くなった日、看護師さん達は父の為に、泣いてくれていました。
今では父を救おうと父に関わってくれた皆様に感謝をしています。
ありがとうございました。

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