鉄格子の内側 第15話 -変身-

一夜明け、私の隣には入室当初のように遠くを見つめているマスゾエさんがいた。
昨夜、起訴の事実を聞かされ驚いたが、それ以上にマスゾエさんはショックを受けているように映った。早々に布団に潜りこみ、背中を向ける姿からは前日の明るさは消え失せていた。
しかし、マスゾエさんはここの生活をユートピアのように感じていたはずだ。ならば、目の前で悄然としているのはなぜだ。気のせいなのか。
私は注意深く観察することにした───
少しして、朝食の弁当が配られた。
昨日までのマスゾエさんなら、恍惚とした表情を浮かべながら食していたが今日は一転してもの憂げな空気を放っている。私は様子をうかがう為に声をかけてみた。
「今日の弁当も朝から美味しそうですね」
「あー」
「今日、取り調べありそうですか?」
「わかんね」
眼を合わせることなく一言で片付けられた。言葉の端からも生気を感じられない。
私は確信した。
落ち込んでいることを───
やはり、本心は外にでて自由な生活を謳歌したかったんだろう。不安を紛らわす為に強がっていたのかもしれない。当然の想いだ。
しばらく落ち着くまで、そっとしておくことにした。時が解決するだろうと思って。
それから一週間が過ぎた頃、マスゾエさんの様子は…悪化していた
官本を床に投げ捨て、重苦しいため息を吐き、苛立ちをあらわにしている姿がそこにはあった。食事の時間には食器口から入れられる弁当や箸を手わたしても、ありがとうの一言も言わなくなり、終始、無言を貫き始めた。
更に運動も拒否し、夕方は洗面に出ても歯を磨くことなく急ぎ足で部屋に戻り、あからさまに他人との接触に壁をつくるようになった。
私はマスゾエさんのあまりの身の変わりように戸惑いを隠せなかった。少し経てば落ちつくと思っていたのに
多感な時期の中学生のように急に心を閉ざすなんて
それでも、四畳半の部屋で共に生活しなければいけないのだから私に逃げ場はなかった。ただただ、殺伐とした部屋の空気を吸い続けるだけだった。
「部屋のオッチャンどーしたの?運動、全々こないじゃん」
運動の時間、他の部屋の人が心配して私に聞いてきた。
「起訴されてから落ち込んじゃって、別人になりました…」
私は溜息まじりに答えた。
「えっ、十一室って一人部屋じゃなかったの?」
マスゾエさんに気付かない人がいるほど気配を消していた。しかし、部屋の中ではだった。
マスゾエさんの全身から滲みでる負の波動は圧倒的な存在感で私の身体にも影響を及ぼしてきた。一緒の部屋にいるだけでどんよりとした心持ちになっていくのを実感した。

そして、私の中には大きな懸念が浮かび上がってきていた

忍びよる年末

「年の瀬ももーすぐだな」
反町さんはパソコンのキーボードを打つ手を止めて、ふいに言った。
「本当ですね…留置場で年越しか…」
私は一年前の年越しを思いだしていた。友人たちと新年明けてすぐに初詣でに行ったな、としみじみ感傷にふけた。
「それで、まだオッチャンは落ちこんでるの?」
「はい、変わらずです」
取り調べ相手であり、相談相手でもあった反町さんには身の回りの状況を細かく説明していた。
「まじかー。年末年始が取り調べやんないから部屋に缶づめになっちゃうけど大丈夫か?」
「…耐えるしかないです。祝日扱いになるので運動も三日に一回しかやらなくなるらしいので、かなりストレスはやばそうですが…もしかしたら、マスゾエさん、年末前に裁判やってでていくかもしれませんし…」
「もし残ったら地獄の六連休だな。三ヶ日明けたら取り調べだすから、それまで頑張れよ」
私は近づいてくる年末に心底、怯えていた。この時期、よく耳にしていた言葉は
「留置場の正月は刑務所や拘置所とは比べものにならないほどキツイよ」
という言葉だった。土日でさえ、気が狂いそうになるのに自分に堪えられるか不安しかなかった。
そして、そんな憂いを助長していたのがマスゾエさんだった。
翌日、私は意を決しマスゾエさんに話しかけた。
「マスゾエさんの裁判日っていつですか…?」
飼い犬に手を噛まれることを恐れる少年のようにそっと質問を置いた。心奥から
年末前であってくれと念じながら。
もはや、背中を向け食事をしているマスゾエさんはこちらを振り返ることなくボソっと呟いた。
二月
その一言で私の期待は粉ごなに打ち砕かれ、不安苦しみに変わった。
二月…。そんな先までこの険悪な空気のまま毎日を過ごさなくてはいけないのか…。
新人を求めていた数週間前の浅慮な己の考えを悔いたがどうにもならない。

もうすぐ訪れる六連休に絶望感しか感じられなかった───

留置場での年越し

そして、十二月三十一日
頭を掻きむしる私がいた。年末が近づくにつれ、胸中には荒涼感が広がり虚しさだけがつのっていた。
新聞や昼の十五分間ラジオからは年の瀬の趣が滲みでていて、自分の置かれた状況と照らし合わせれば、合わせるほど心の内はささくれだらけになった。
マスゾエさんはというと、背中を向け、肩肘をつき、手のひらを頬の土台にして横になっていた。無論、ため息まじりで。
更にちょっとした変化も起きていた
「チッ、キチガイが」
突然、身を起こし通路を歩いている被疑者に向かって罵声を吐くようになったのだ。なぜ?意味がわからなかった。マスゾエさんに危害を加えているわけではないのに敵意をむきだしにする理由が…。
ただ、はっきりしていたのは加速するように堕落していくマスゾエさんを前にして
私のストレスも波々、満ちていたことだった。いつ、爆発してもおかしくないほど膨れあがっていた。
必死に自分を抑える為に筋トレをしたり、ストレッチをしたり、瞑想をしたが湧き水の如く溢れでてくる苛立ちは治まらず、気付くと背にしている壁に後頭部を打つようになっていた。
マスゾエさんに対して迷惑をかけてはいけないなど他人を思いやる仁慈の心は消失し、本音を言えば飛びかかって殴りつけたいぐらいだった。

その心が通じたのか、マスゾエさんは私に牙を向けてきた
「チッ、キチガイが」
身体を半分こちらに向け、振り子時計のように頭を打っていた私に言い捨てた。
その言葉を聞いた刹那、烈火の如く怒りが沸点に達した。気付いた時には手元にあったノートを床に思いっきり叩きつけていた、
───バン!
一瞬即発の空気になった。私の全身は怒りでわななき、呼吸は乱れていた。眼も血走っていたかもしれない。
もし、あと一言続いていたら間違いなく殴りつけていたと思う。
だが、それ以上、マスゾエさんはこちらを振り向くことも言葉を発することもなかった。背中を向けいつもの体勢に戻っていた。まるで、何事もなく私の幻聴だったのかと思うほどに。

そして、再び壁に頭を打ち続ける私だった───
「おやすみー」
「おやすみなさい」
夕方の洗面時十四室のシンさんと今年最後の就寝の挨拶をして部屋に戻った。
不思議だったのが被疑者の誰もが大晦日を自覚しているのにそれを意識した発言は聞こえてこなかった。もしかしたら、口にしてしまえば正月と言う神輿が自分たちの心に重くのしかかってくるのがわかっていたからかもしれない。
私も同様の気持ちだった。特別な一日ではなく、ありきたりな留置場の一日として早く過ぎ去ってほしかった。
私たちにできることはこの台風が通過するまで、じっと布団の中で身体を丸くするだけだった。
そして、深沈とした場内はそっと新年を迎えたのであった───

深夜の騒音

この時期、被疑者の大半がある事象に悩まされていた。
ドーン、ドーン、ドーン───
深夜になると突如、どこからともなく重低音が耳を突く。ズシリとした振動が身体の芯に響くような大音量だった。よほど深い眠りに落ちている人か、神経が図太い人じゃなければ大概の被疑者が眼を覚ます。
そして、叫ぶ
「うるせーんだよ!」
怒声をあげたくなる気持ちは痛いほどわかる。しかし、無意味だった。
私はこの音が初めて鳴り響いた翌日、担当さんに尋ねた。
「おはようございます。あのー、昨日の夜中のもの凄い音なんですか?」
もしかしたら、気色ばんだ顔をしていたかもしれない。それくらい不快感を感じさせる轟音だった。
「あー、あれね。実はこの留置場の壁一つ挟んで、簡易的な保護房が三つあるんだよね」
「えっ!保護房って裏側の奥にある部屋じゃなくて外に三つもあるんですか…?」
私は眼を丸くした。保護房とは場内で暴れたり、悪さを計ったりした被疑者を強制的に収容する、いわゆるお仕置き部屋だ。
前署にも存在していたが担当さんたちの底知れぬ人情で開かずの間と化していた。
しかし、本署では事実上の十五室目の部屋として多用されていた。担当さんたちが前署よりも規律を重んじていた事も関係するがそれ以上に被疑者の粗暴が目立った。

シャブが抜けておらず喚き叫ぶ者、部屋や通路に痰を吐く者、検察庁に行くのを拒否し暴れる者、官物の服をトイレに流して詰まらす者。
多くの荒くれ者たちが担当さん達に囲まれ、倒され、馬乗りになられ、連行されていく様を見せつけられた。
最長で一人三日連続でしか収容できない規則なので三日間は姿を消す。なので、てっきり裏の保護房のことを言っているのかと思ったら、まさかの発言だった。
「そうだよ。外の保護房は基本、酔っぱらいを保護して朝まで入れておく部屋なんだけど、ほぼ全員なぜだか壁を蹴りつづけるんだよね」
担当さんは首を傾げながら言った。
「なるほど…じゃあ、あのうるさい音はひたすら我慢しないと駄目ですね」
「申し訳ないけど、そーいうことになるね」
ということで
正月の期間は毎晩のように轟音がとどろいていた
三ヶ日も過ぎ取り調べが再開され、私の心中の霧はゆっくりと晴れていった。
六連休を乗り越え、新年を迎えたことで本署での山場を切り抜けた。そう思っていた。
しかし、ここがピークではなかった。
私の心が奈落の底に落ちていくのはこれからであった。

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