Vol.3 わたしの分身【二十歳まで生きれないと言われた兄とわたしの物語】

わたしが幼稚園に入って半年が過ぎた頃、自宅近くのこども病院に兄が転院できることになった。我が家の生活が大きく変わるビッグイベントだ。入院中も家から20~30分程でいつでも兄に会うことができる。ただ、規則は厳重で、親でさえ面会時間が限られているし、両親以外は兄弟でさえ病室に入ることは許されない。


病室は二階の階段を上がり、横に伸びた廊下越しの正面に入り口がある。こども病院らしく、入り口のガラス戸にはいつも丸々としたゾウや太陽みたいなライオンの絵が描かれていた。右と左にひとつずつユニットがあり、兄がいるのはほとんど右側だった。面会時は、入り口の隣にある更衣室で手を洗い、専用のガウンに着替え、靴もスリッパに履き替える。ガウン姿になった母がドア1枚を挟んだ入り口に現れ、外から覗くわたし達に軽く手を振り、また1枚ドアを開けてユニットの中へと入っていく。ドアを2枚挟んだ奥では、点滴台を押しながら歩く子や母親に車椅子を押してもらっている子、感じの良い看護師さん達が足早に歩くユニット内の様子が見えた。母は毎日、父もできる限り面会時間内に兄との時間を過ごした。時折彼を連れてドア越しに出て来ることもあった。わたしと姉はドアの外から彼をひと目見て、廊下のベンチで何時間も暇を持て余していた。塗り絵にも絵本にも飽きていた。左右のユニットをつなぐ長い廊下には二本の真っ直ぐな線が引かれていて、それを平均台に見立てて歩いたり、「グリコ」「チヨコレイト」「パイナツプル」と何度も往復してみたりした。


転院後、更にビッグイベントは続き、兄が骨髄移植をすることになった。ウィキペディアによると、骨髄移植は「白血病や再生不良性貧血などの血液難病の患者に、提供者(ドナー)の正常な骨髄細胞を静脈内に注入して移植する治療」だ。骨を削るわけではなく、腰骨の中にある骨髄を注射器で吸い取って患者に注入する。説明を聞く度に、テールスープに入っているあの固い骨と中のゼラチンを想像してしまう。子ども病院ではちょうど移植手術の成功が認められたところで、兄も試してみてはどうかと白羽の矢が立ったのだ。当時はまだ事例も少なく、上手くいけば長く生きられるが、移植したところで身体が拒否反応を起こす可能性も大いにあった。病院の研究の為ではなく、兄の命の為の移植なのか。信用、信頼。ぐるぐるぐるぐる。「骨髄移植」という希望の光にも複雑な問題が絡み合った。


それをやるかやらないかの判断も難しいが、まず大切なのは白血球の型がピッタリ合うドナーを見つけること。白血球の型は数百から数万通りもあると言われているらしい。日本には当時まだ骨髄バンクがなく、わたし達家族に加え、有難いことに親戚や多くの友人達も集まって採血検査に協力してくれた。



数日後、数十人のドナー候補者の中から、わたしの白血球がピッタリ合うという驚きの結果となった。骨髄移植のコの字もよくわからない幼稚園児のわたしが、いきなり「救世主」として矢面に立たされたのだ。先生は、成人であれば脊髄側の手術で足りるけれど、わたしは身体が小さすぎて腰回り一周から針を入れる必要があり、傷の跡も将来は消えてなくなる等、母とわたしに詳しく説明してくれた。難しいことは良くわからないが、兄を助けられる役目を得たことは何だか誇らしかった。母からドナーになるかと聞かれて、断る理由など1ミリもなかった。今思えば、幼かったが故に余計な恐怖を感じなかったのかもしれない。もしかしたら、「大したことない」と無意識に自分自身に思い込ませていたのかもしれない。今も昔も健康優良児のわたしは、人生でこの時が唯一の入院経験となっている。


入院初日、看護師さんに連れられて初めて兄のいる病室に入った。待合室や廊下とは違う初めての匂い。温度も生暖かかった。外から想像するしかなかった病室の中を、遠慮しがちにまじまじと見回した。こども病院の中には、同じくらいの年齢で様々な治療を受けている人たちがいる。薬で髪が抜けている子、頭が大きく膨らんだ子、見た目では何の病気かわからない子達もいた。兄には当たり前でもわたしには新しい世界。彼が生きてきた世界を覗けた気がして嬉しかった。


兄と二人きりで話すのはなんだかとても照れくさい。部屋の外に出た看護師さんと母が話す声が漏れてくる。

「兄弟で会うのは久しぶりですよね?」

「そうですね。下の子と話したのは3ヶ月ぶりですかね。」


ガラス越しに自分達のことを話題にされて、どこを見ていて良いのか分からなかった。「久しぶり!」と言ったあと、恥ずかしさで兄との会話も続かなかった。けれど、彼はわたしが来るのを心待ちにしてくれていて、色画用紙に折り紙を貼った手紙を用意してくれていた。「ありがとう。一緒にがんばろうね!」というメッセージに更に照れくささが増したけれど、入院生活の大先輩からの言葉はとても心強かった。


それから数日間は検査や手術の準備が続き、採血の注射にもだいぶ慣れた。子ども病院だけあって、看護師さんは近所の優しいお姉さんのようだった。いつも人気キャラクターのペンを身につけていて、子ども達の気を惹くのも上手かった。


毎日夕方に母が面会に来ると、広いプレイルームでテニスのテレビゲームをするのが楽しみだった。新入りのわたしは、誰かがゲームを使っていると「貸して」とは言えずに遠くからずっと見ているだけだった。夜は例のごとく面会時間が決められていて、母は後ろ髪を引かれるように帰るのだけれど、「帰らないで」と泣いたのは一回だけだった。兄もそうして泣いたことはあったのだろうか。


病院ではたったひとりだけ友達ができた。プレイルームでわたしより先にテニスゲームをしていた男の子だ。病院の中では引っ込み思案だったわたしに「仲良くしてね。」と母が代わって声をかけたのが始まりで、それから何度かお互いのベッドを行き来した。車椅子でもない、点滴もない彼が何の病気で入院していたのかはわからない。バイバイを言われることもなく、数日後に彼は病棟からいなくなってしまった。院内の友達関係はなんともセンシティブなものだった。退院したのか、転院したのか、はたまた...彼のその後を聞いてはいけない気がした。


手術当日。渡された服に着替え、手術室近くでストレッチャーに横になる。

「行ってきます。」

心配そうに見送る父と母。わたしに向けられたふたりの強い眼差しと緊張感を躱し、いたって冷静を装って事を進めた。わたしの顔は明らかに強張っていた。


しかしいざ手術室の入り口に差し掛かると、怖いというより、なかなか入ることのできない場所に入る好奇心の方が優っていた。手術室の中には何があるのだろう...。隈なく眺めたい期待とは裏腹に、白いライトが眩し過ぎて何も見えない。看護師さんに「どの味がいい?」と聞かれてリクエストしておいたチョコレート風味の麻酔をされ、教えられた通り羊の数を3つくらい数えたところから記憶がない。ちなみに、麻酔はチョコレートの他に、イチゴとバナナの香りが選べた。実際にチョコレートの香りがしたのかさえ分からない。ただ、手術は上手くいった。


麻酔が切れて目が覚めたわたしの第一声は「103」だった。目を開けるとベッドの横には安堵した母の笑顔があった。

「よく頑張ったねー。いきなり数を言うもんだから、まだ羊を数えているのかと思ったよ。」


今でも鮮明に覚えている目覚める直前の映像。一匹ずつ漫画チックな羊が現れては、軽いおもちゃみたいに遠くへポーンと飛んでいく。そしてまた次の羊が現れてはそれを繰り返す。わたしの頭の中は素直に羊を数え続けていた。


幸運にも、その後兄への移植も全て成功した。ひとつ問題があったとすれば、術後からしばらくわたしの腰が90度折れ曲がったことくらいだ。元に戻るまでの1ヶ月は歩くのに苦労したけれど、その格好で元気に走り回るわたしを見て看護師さんが笑ってくれるのをわたしも面白がった。老人のような格好でも中身は元気いっぱいの幼稚園児。退院まで毎日院内をあちこち歩き回き、ビニール越しにしか会えない兄の無菌室にも度々お邪魔した。兄は横になりながらパックマンやマリオのファミコンで遊んでいて少し羨ましかった。


                *


退院して数週間の自宅療養を終え、久しぶりに幼稚園に登園した初日。楽しみにしていた縄跳び大会が催された。園長先生も担任の先生も心配して見学するように勧めたけれど、わたしは有り余るエネルギーで優勝した。わたしの健康体は以前と何も変わらなかった。


かなり健康な骨髄を移植したことで、兄の調子は安定した。わたしの一部が今や兄の一部になった。家族、兄妹以上、一心同体未満の感覚。それからは不思議なことに、たまにわたしが風邪を引くと兄も決まって熱を出した。わたしが遠くに出かけると、絶好調だったはずの兄が病院に引き戻されてしまうことが度々起こった。わたしと兄は見えない何かで繋がった。


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