Vol.4 自覚【二十歳まで生きれないと言われた兄とわたしの物語】

前話: vol.1 波乱万丈の出発まで【一緒に世界へバーチャル冒険】

家で過ごす間、兄は養護学校ではなく、一年遅れで市立の幼稚園、隣接する市立小学校、そして市立中学校に通った。この幼稚園で仲良し三家族、わたしにとっては第二第三の母達に出会えたことを思うと、入園を許してくれた当時の園長には感謝しかない。兄は知的障害がなかったことで、いずれも特別学級ではなく普通学級に通っていた。園や学校側に「YES」と言ってもらえるまで母が奮闘したのは言うまでもない。

幼稚園は1年のみの付き合いで、先生達以外は子ども達同士で兄弟のことを知る由もない。一方、小学校は6年間。わたしが入学すると、既に兄は校内のちょっとした有名人。兄弟皆んな同じ学校に通ったことで、姉やわたしが続いて入学すれば、「あー、マー君の妹さんなのね!」と声をかけられることもあった。

「お前の兄ちゃん植物人間なの?」
突然、好奇心旺盛な悠太君が悪気もなく聞いてきた。悠太君は親が離婚してから喧嘩や万引きを繰り返し、校内ではいわゆる問題児に認定されていた。調子が良い時はクラスのムードメーカでもあるけれど、喧嘩が始まると手のつけられないとっぽいグループの頭だった。わたしはなぜか彼とよくしゃべった。愛嬌のある彼がいつもそんな風に笑って過ごせれば良いのにと思っていた。そんな彼からの直球の問い掛けに、わたしが気を悪くすることはなかった。ジロジロ見るだけの大人達よりずっと良かった。

「違うよ。歩けるし(当時はまだ歩いていた)、話せるし(声帯がないので慣れればかすれた声が聞こえる)、頭も普通だし(勉強もできる)。ただ、原因不明の病気なだけ。」
「ふーん。お前も大変なんだな。」
「まぁね。」

手のかかる兄がいて大変じゃないと言えば嘘になる。ただ、わたしにとっては当たり前過ぎて、それが本当に大変なのかという感覚は麻痺していた。大喧嘩をしたり、妹をいじめたり、違う意味で世話の焼ける兄は世間に五万といるだろう。それに比べればなんてことはない。病気や障がいというフィルターの前に、わたしにとってはただの兄という存在に変わりはなかった。

そうは言っても、障がいだらけの兄を世間に見られることが嫌になる瞬間は度々あった。一歩外に出れば、まじまじともの珍しい生き物を観察するような視線を感じることもあった。エイリアンにでも出くわした様な顔を幾度となく見てきた。

そもそもわたしが兄のことをいわゆる障がい者だと気付いたのは、小学3年生の時だ。薄々感じてはいたものの、それまでわたしにとってはあまりに当然の存在すぎて、兄が世間で特別視される人間だとは気付かなかった。授業で特別養護学校の生徒達と交流した時初めて、兄は紛れも無く障がい者のひとりなのだと思い知らされた。


入学許可の壁は高かったが、入学してしまえば、幸せなことに彼の担任になったどの先生達も親身に受け入れてくれた。まだ独身だった幼稚園の先生は、毎年恒例だった仲良し三家族の旅行にも一緒に参加する程だった。第一、二、三の母達もこぞって先生を「しょうちゃん、しょうちゃん」と呼び、先生のお見合い相手まで気にしていた。園長先生は、身長は小柄だけれど、お腹周りがどっしりした見るからにビッグママ。いつも甲高い声でゆっくりと話し、子ども達への愛情が滲み出ていた。母は今でも園長先生と時々会って食事をしている。

小学低学年の時はベテランの女の先生が兄の担任を引き受けてくれた。貫禄ある風格の中に子ども達を包み込む大らかさを兼ね備えているような先生だった。小学校としても前代未聞の新入生。先生は余程の勇気が必要だったと思う。最初の頃は母が付き添うこともあったけれど、しばらくすると登下校や遠足の時だけで、あとは先生にお任せした。心から尊敬している先生のひとりだ。先生が家庭訪問で笑いながら話していたのを今でも覚えている。

「もーね、あの時程焦ったことはなかったですよ。気がついたらマー君の喉の蓋が消えていてね、どこを探しても見つからないの!どうしよう、どうしよう!具合が悪くならないかしら、お母さんにすぐ連絡した方が良いのかしらって。必死に蓋を探しているのに、マー君を見ると“先生大丈夫だよ”って平然としていたの。何がダメで何が大丈夫かは自分でちゃんとわかっているのよね。そして、ホッとしてマー君を見たら洋服に蓋がペタってついていたの。もー二人で笑っちゃいましたよ。」

この頃使っていた喉のパーツには蓋が付いていて、外出時は痰をとる時以外は付けるようにしていた。感染予防の目的と息が漏れずに声が聞き取り易くなるからだ。家の中では外していることの方が多く、兄が話す時は自分の指で穴を抑えると声が聞こえた。そんなことで、蓋がなくなったからといって兄の体調には何の変化もない。有難いことに、先生はそんなパーツの一つひとつまで気にかけてくれていた。

小学校と言えば、運動会は毎年恒例のメインイベントだった。父親は早起きして校庭にブルーシートを広げて陣取りをし、母は大きなお弁当をこしらえた。いつもの三家族の他に、兄と同じクラスのお寿司屋さんも豪華な寿司桶をもって輪に加わった。そして顔見知りや近所の人たちもそれに加わることもあった。それぞれの家族が一畳分程のシートでこじんまりとお弁当を食べているというのに、わたし達のシートは花見会場さながらの賑わいだった。

兄は入退院に合わせてこの小学校と病院内の学校を行き来して通った。学校に通っている間も、定期的な通院があったり、時には想定外の受診もあった。鍵を開けてもシーンとした家。そんな時はまるで樹海みたいに家の空気が冷たく静まりかえっていた。先に帰っているはずの兄と母がいないと、診察に時間がかかっているだけなのか、また急に入院になったかのどちらだろうかと不安にもなった。逆もしかりで、帰宅するとしばらくぶりに兄が退院していて、何事もなかったかの様に家にいることもあった。

小学校6年生の時には初めて1ヶ月の皆勤賞を取ることが出来た。途方もない達成感。クラスメイト全員が、母と登校した彼を教室で待ち構え「おめでとーう!!」と盛大に祝ってくれた。黒板のイラスト文字に教室内のデコレーション、みんなで寄せ書きまで用意してくれた。

“マー君、おめでとう!頑張ったね!”
“おめでとう!スーパーカッコいい!!”
“おめでとうございます!これからも健康に気をつけて。”
“マー君がいると明るくなります。これからも毎日来てください!”
“新記録更新し続けよう!応援してる!”

彼は先生達だけでなく、クラスメイトにも恵まれていた。

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