Vol.7 夢のマイホーム【二十歳まで生きれないと言われた兄とわたしの物語】

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中古一軒家


いくら小柄なホビット一家でも、小学校高学年になると、ずっと住み続けてきた2DKのアパートも大分手狭になってきた。そこにタイミング良く、近所の人が中古の一軒家を売りに出すと言う話が舞い込んできた。アパートからも歩いて3分。少々古いが日当たりも申し分ない二階建ての4DK。両親が内覧してみると、キッチンの床が抜ける程痛んでいたけれど、手直しすれば今よりは大分住みやすくなりそうだった。

母の従兄弟は石塚で材木屋を営んでいて、彼に頼むと二つ返事でリノベーションを引き受けてくれた。そうと決まるとおじさんは直ぐに大工チームを率いてやってきて、2階の四畳半と六畳間の壁をブチ抜いた。そこが姉とわたしの初めての二人部屋。ひとり部屋でなくても自分たちの空間に高揚した。ベッドを左端に二つ並べ、勉強机は右の壁に仲良く二つ並べた。おじさんのアイディアで、右の壁一面に3段の長い本棚も取り付けてくれた。

一階は痛んでいた床を直し、出来る限り部屋の仕切りを取り払った。キッチンと居間の間はアパートから運び込んだ大きな食器棚で仕切られた。この家の唯一の難点は、トイレが狭かった。トイレは階段下、キッチンの左端に引き戸の入り口があった。引き戸の前に少しだけスペースを作り、キッチンからは出入りしないよう大きな冷蔵庫で壁を作った。決してパーフェクトとは言えない中古一軒家で、小学校高学年から5年間ぐらいを過ごした。その間に兄も“こども”とは言えない年齢に達し、こども病院の隣にある総合病院に転院した。

突然の骨折


わたしが中学2年生になる頃、兄は突然足の痛みを訴え、歩いてトイレに行くことも難しくなった。食器棚の背につかまって何度も歩こうとするが、右足を押さえて顔をしかめる姿は、彼自身が拷問しているようで見ていられなかった。

翌日、病院でレントゲンを撮ってもらった。
「何も異常は見当たりませんね。何か炎症でも起こしているんでしょうから、様子を見ましょう。」と外科医はスタスタと診察室を出て行ってしまった。いつも寄り添ってくれたこども病院の先生達や物腰の柔らかい主治医と違って、この外科医はどうも好きになれなかった。

「本当に、おかしいねぇ...。どうしちゃったのか...。」

廊下に出された兄も母もわたしもどうすることもできなかった。きっとこうした悔しさで「将来はきっとわたしが!」と医師を目指す子どもが増えるのだろう。

数日経っても痛がる様子は変わらず、病院で再検査を受けた。今度は痛がる兄の股関節に何やら更に痛そうな注射までくらわせたが、結局原因は突き止められなかった。

しかし、かなり後になって股関節が骨折した跡が認められた。お陰で彼の右足は曲がったまま固まってしまった。

車椅子生活を余儀なくされ、畳と段差で埋め尽くされた今の家で、兄はお尻を引きずってしか移動することができなくなった。

幻のマイホーム


両親は一念発起、水戸の家から引越し、父の実家の畑にバリアフリーの新居を建てることを決心した。これまで、週末になると住宅展示場を訪れては「この間取りが素敵」「こんなキッチンがいい」と将来のマイホームを幾度となく夢見てきた。そんな輝かしい夢をやっと叶える時がやってきたのだ。人生には本当にタイミングというものがあるらしい。

また早速従兄弟のおじさんがしょっちゅう我が家にやって来るようになり、間取りについてわたし達のわがままを辛抱強く聞いてくれた。あーでもないこーでもないと家族会議を繰り返し、おじさんはいつも直ぐに手直ししてくれて、あっと言う間に図面を仕上げてくれた。決めてしまえば、遠いと思っていた夢もあっという間に形が見えてくるものだ。

「今度の家は広いぞー!まず玄関入って廊下の直ぐ左がマー君の部屋。外にスロープを付けてこの窓から車椅子で直接部屋にも入れるぞ。隣は襖で仕切った和室。ここをお父さんとお母さんの寝室にすれば、夜でも直ぐ呼べるしマー君も安心だろ。

玄関上がって右はリビングダイニング。希望通り敢えて仕切らずにずどーんと広くしたからな。ただ、居間の和室の一角は収納式の襖を入れるから、ここだけ仕切って使うことも出来る。

キッチンはシステムキッチンを入れて、食器棚も全て取り付けるから、今のはいらなくなるな。水回りはここ。トイレも今の倍以上の広さだ。車椅子でもゆったり入れる。トイレとお風呂には手すりも付けよう。

二階は姉妹で別々の個室。ウォークインクローゼットもあるし、服はいくらでも取っ替え引っ替え出来るぞー。わっはっはっ」

完成した図面を家族みんなで食い入るように眺めた。おじさんも満足気だった。


家族の修羅場


仕事の早いおじさんは早速図面に合わせて材木も切りはじめた。そして基礎工事を始めようとしたある日、思わぬところからストップがかかった。

それは、土地を譲ってくれると言うダンプじいちゃんからだった。ダンプじいちゃんは、土地持ちで田舎の家の周りにいくつも田畑や山を持っていた。本家から一段下がった畑の土地を次男の父が引き継ぎ、そこに新居を建てる手筈を整えていた。

「長男より先に本家に家を建てることはできん。」今更感満載の申し出。黙って引き下がるわけにはいかず、週末には家族全員でダンプじいちゃんに異議申し立てに押しかけた。鼻息荒く挑む母の姿がある一方、平和主義の父は家族の板挟みで小さくなっていた。

「以前あの土地はいつでも自由に使って良いって言ってたじゃありませんか。」

母が意見すると祖母は「義父に口ごたえするとは何事だ!」と嫁姑戦争も勃発しそうな勢い。

二進も三進も行かない討論の末、感情が昂った姉は、兄を尻目に
「早く建てないとダメなの!お兄ちゃんの為の家なのに、家が建つ前にお兄ちゃん死んじゃうでしょうよー。ウワーン」と泣き出す始末。

これには流石の母も「お兄ちゃんは死なないわよ。」と苦笑い。

話し合いは数時間続いたが、結局ダンプじいちゃんとばあちゃんの決心は頑なだった。夢のマイホームは振り出しに戻ってしまった。

夢のマイホーム


しかし、今度は仕事の早い材木屋のおじちゃんからストップのストップがかかった。
「もう木材も切ってしまったし、後戻りはできないぞ。」おじちゃんや父と仲の良い同級生仲間までもが父への説得を繰り返し、結局は作った図面が入る土地を探して改めてマイホーム計画を決行することになった。

それから母とわたしは暇があれば色んな候補地を見に行った。「ここは砂埃が全部家に入ってきそうだわ。」「日当たりが悪そう。」「ここの土地は地盤が良くないらしい...。」

そしてやっと出会った運命の土地は、石塚の家から10分程の静かな住宅街だった。200坪程の土地は既に完成していた南向きの図面もスッポリ入り、駐車場も家庭菜園をするスペースも十分にあった。

こうして夢の実現には思いがけない壁がいくつもあったが、最終的には家族全員にとってベストな家が出来上がった。マイナスイオンに包まれる木の香り、爽やかなスパイスとなる井草の香り、リビングの隅々にまで燦燦と差し込む陽の光、どっしりと構えた大黒柱と男前な梁、整然と並んだシステムキッチン。どの部屋にもゆったりとした余裕が感じられた。

水戸までは少し遠くなってしまったけれど、朝は出勤する父に学校まで送ってもらい、帰りはバスで帰宅するようになった。地域の介護サービスも利用するようになり、週に2回ほどヘルパーさんが兄の入浴も手伝ってくれた。

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