寿司と平和・裏話
<自殺屋>
12:10
不意に、背中に針で刺されたような鋭い痛みを感じた。痛みを感じたところに手を回す。だが、手の平が触れたのは、いつもと何ら変わらない背中の輪郭だった。血も滲んでいない。
ふと、後ろを振り返る。だが、背後には誰もいなかった。
奇妙に感じて、辺りを見回してみる。
気のせいかな。
首をかしげて、再びコンビニへと歩き出す。
13:08
彼は、コンビニで昼食を仕入れた後、自宅のアパートに戻り、先刻買ったインスタントラーメンとサラダ、それからソーダを飲食し、再びコンビニへ向かった。
毎晩彼が夜食として飲んでいるコーンクリームスープが、自室に在庫を切らしていることに気づいたからだ。
彼がアパートの階段を降り、先ほど買い出しに行ったコンビニに向かう途中のことであった。
突然、道ばたで、彼は白目を剥いて倒れてしまった。
何の前触れもなかった。
道行く通行人が、大声で何らかの言葉を叫んだ。
13:13
「大丈夫ですかー!大丈夫ですかー!」「どなたか、手を貸してください!119番を!」
耳元で発される聞き慣れない声が、どんどん遠くなっていく。
体を揺さぶられている。そのことが、辛うじて理解できたが、反応したくても、口や体が全く言うことを聞かない。自分の体をこんなに重く感じたのは、生涯でこれが初めてだ。
自分の意識を、張った一本の白い糸のように感じた。その糸が、みるみるうちに細くなっていく。そしてあるとき、プツンと途切れた。
13:20
「辛い。辛いよ。もう死にたいよ。」
「私の言葉を、いつか二人でみた、笑っているような泣いているような、怒っているような風景のように、ときどき思い出してくれると嬉しいな。」
「わかってるよ。死ぬのは自分勝手だって。家族が悲しむんだ。だから、僕は無責任でどうしようもない人間なんだよ。だけど、どうしても、死ぬ誘惑に負けちゃうんだ。もう、正直、負担なんだ。ごめん。もう、人のために生きるのに疲れて。僕は、自分のために死にたい。」
「ねえねえ、君は、どんなときに幸せだなあって思える?君が幸せを感じられるものは何かな?」
「あなたの胸に、絶えることのない美しい音色を。」
頭の中で、複数の言葉が瞬時に過ぎっては消えていく。
声の持ち主は、過去の僕であったり、かつて僕が出会った誰か―あれは、確か、僕が18の頃、付き合っていた女の子かな。それと、通っていた病院の先生も。―の声であったりした。
どこからか、優しい音色が響いてくる。これは、ギターの音だな。何だろう。どこかで聞いたような。
―ああ、これは、いつか観にいったギター学校の演奏会で、誰かが演奏していた曲だ。あの人、特別に上手かったな。ついでに、演奏前の言葉も素敵だった。優しい音が、ホールいっぱいに響き渡ってた。
ああ、今になって思い出した。そうだ、僕の幸せは、誰かに笑顔を配ることだったんだ。だから、死ぬ前に笑える人が一人でも増えればと、自殺屋を始めた。生きてるのが辛かったけど、少しでも生きがいのある未来をと思って。
でも僕は、本当にいま、幸せだろうか。安楽死の薬を売って、僕は幸せを感じられているのか。なんだか、胸にしこりのようなものがある。その正体は定かではないけど。
脳内で、大量の画像と音声が滝のように流れていく中、彼は18の頃、誰よりも愛していた彼女のことを考えた。
彼女の笑顔が目の前に現れる。
どこかの家の中で、彼女が僕にキスをした光景。
「私は、君に、幸せになって欲しいよ。」―恋の別れを告げるとき、彼女が僕に囁いた言葉だ。幸せになってほしい…
そっか。
…約束、守れなかったね。…ごめん。
ほんとに僕って人間は、最後までどうしようもない奴だった。今までの自分に、もう何十、何百、何千回感じたかわからない怒りを覚えた。
―でも、僕は、死ぬ前に君の笑顔をみれて、幸せな気持ちだったよ。
僕は最後に、君のおかげで、笑っていられた。
13:27
救急車のサイレンが響いている。
彼は白目を剥いたまま、意識が戻ることはなかった。
救急隊員が彼のもとに駆け付け、彼をタンカーに乗せて移動する際に、彼の顔の頬には一滴の涙が伝っていた。頬から滴り落ちた涙には、笑っているような泣いているような、怒っているような、そんな街の風景が映った。
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