Vol.12 旅立ち【二十歳まで生きれないと言われた兄とわたしの物語】

20歳まで生きれないと言われた兄にまつわる数々のストーリ。幼少期から順に連載しています。

最期の思い出

姉が来てからは、交代で兄の容態を見守った。たとえ代わると言っても、結局母はうとうとするだけで兄のそばを離れることはなかった。

兄は時折体を左右に激しく揺さぶり、頭をベッドの柵に打ち付けて発作を起こした。発作の間、わたし達は彼の肩をベッドに力いっぱい押さえ付けた。どこにそんな力を蓄えていたのか不思議なくらい、彼は抵抗する。

そんな殺伐とした発作の最中、医師が部屋にやってきて母を呼び出した。ガタガタ揺れるベッドに目もくれず、こんな時にだ。今日はたまたま主治医が外出していて、以前からわたしが好かない先生が診てくれていた。股関節の骨折を見抜けず、いつも横柄な物言いをするところも気に入らなかった。それでも、今は彼を頼るしかない。

しばらくして、廊下に呼び出された母が戻ってきた。先生によると、脳に血液が溜まり、いつ逝ってもおかしくない限界が来ていると言う。いくら今日が山だと言われても、未だに何の実感もない。これまで幾度となく窮地を乗り越えてきた兄と、また家で一緒に暮らせることをただただ信じていた。


「先生!先生!助けて!」

兄は発作に苦しみながら、主治医を探して叫んでいた。彼は渾身の力で必死に生きようとしている。これまで笑って話してきた武勇伝の裏には、こうしてもがいて生き抜いてきた兄の姿があったのだ。

しばらくして発作が治まり、また束の間の穏やかな時間が流れ始めた。

「ゾウがいる...。」「女の子がやってくる...。」
幻覚が見えている時も多くなった。

彼の額を撫でて心の中で呟いてみる。
“もう十分頑張ったよ。楽になっていいんだよ。”

“僕はまだ生きたいんだ...。”
彼の返事が聞こえた気がした。

“わかった。悔いなく生きて。そばにいるよ。”
彼の手をギュッと握った。


この看病中、他にも今まで知らなかった兄の一面に驚いたことがあった。
お世話になった婦長さんが彼の様子を見に来てくれたあの日。それまで辛そうだった彼が、見違えた外面の顔になっていた。「寝てていいわよ。」と言う婦長さんに「せっかく来てくれたんだから!」と起き上がって肩を組み、笑顔を見せた。

社会に出られず世間知らずだと思っていた彼にも、そんな一面があったのがとても意外だった。そして、強くて優しい彼を心から尊敬した。


旅立ち

良く晴れたその日の午後、わたしは車を走らせ家に洗濯物を取りに帰った。久しぶりにシャワーも浴びてすっきりしたかった。

「運転、気をつけてね!」

ここでわたしが事故でも起こしてしまっては元も子もないが、母の忠告とは裏腹に田舎道を思い切り飛ばしたい気分だった。

ささっとシャワーを浴びてスッキリすると、今すぐ兄の元に戻りたくなった。何だか、彼がこの間にいなくなってしまうのではないかという不安が押し寄せてきたのだ。


急いで病院に戻り車を停めると、見舞いに来ていた第二の母がわたしを見つけて叫んだ。

「早く、お兄ちゃんのところへ!」

悪い予感が的中した。

家から持ってきた洗濯物を置き去りにして階段を駆け上がると、病室で母と姉が兄に懸命に呼びかけている。いつも笑わせてくれる父は既に肩を落としていた。家族以外、医師や看護師達で彼の個室は賑わっていた。わたしも急いで彼の頭に駆け寄って何度も呼び続けた。

「お兄ちゃん、行かないで!

   お兄ちゃん、帰ってきて!

     お兄ちゃん、まだ生きて!!」

彼は三途の川への道も帰り道も知っているはずだ。呼び続ければきっとまた戻ってこれると信じて呼び続けた。目の前で起こっている現実に必死になる一方で、わたし達が幻覚の中にいるくらい非現実とも思えた。


兄はついに逝ってしまった。幼い頃からいつかと思っていた日は、2003年5月31日の今日だった。


お世話になった看護師さん達も涙を流しながら、旅立った彼の身体を綺麗にしてくれた。

わたし達が一頻り落ち着きを取り戻した頃、叔母も駆けつけてくれた。叔母はついさっきまでわたし達がした様に兄を見て泣き崩れたけれど、その頃には、悲しみよりも最期まで頑張った彼を称えたい気持ちが生まれていた。看病をこれ以上続けさせないように逝った兄の優しさも感じていた。いつしか死にかけた彼を暗闇から引き揚げた誰かに、そろそろ良いのだと認められてしまったのかもしれない。

兄の帰宅

兄が家に帰る手続きをする間、父は車のハンドルに額をつけて俯いたままだった。父のワゴン車にも兄との思い出が詰まっている。まだ暖かい兄の身体を母が支え、家まで最期のドライブ。

出発しかけた時、主治医が駆けつけてくれた。

「助けられなくて、申し訳ない。」先生は頭を下げた。

「兄は、これまで先生に診てもらえて幸せだったと思います。助けて!って必死に先生を探していました。先生のことを心から信頼していました。これまで本当にありがとうございました。」

これまで幾つもの荒波を一緒に乗り越えてきた主治医に、兄が感謝している気がして、わたしはとっさに口走り深々と一礼した。


兄を乗せた父の車を見送り、自分の車に乗り込むと、しばらくその静けさに包まれたかった。この数時間に起きたことが未だに信じられないでいる。少し前に車をここに停めたところから、ひとつひとつ記憶を追いかけてみた。全て夢であって欲しい。

じわじわと現実味と哀しみが波打って、それはやがて大きな津波となって押し寄せた。襲いかかる真っ暗な闇に飲み込まれてしまう前に、エンジンをかけてそれを振り払った。ステレオからはHYのモノクロが流れていた。

今日も見つけた君の姿 つい見とれて前も見えない
この想いを胸に秘めたまま 君をそばで感じていよう

恋愛の歌詞でさえ、兄への想いに変換されて胸に刺さった。

「そばにいてよ!もっとそばにいさせてよ!!」

HYの大音量に、泣き叫ぶ声さえもかき消してもらいながら車を走らせた。何度も往復して見慣れた田舎道。街路樹は新緑を纏い、青空に向かって逞しく幹を伸ばしている。苗が真っ直ぐに整列した田んぼは初々しく、水面が眩しい程に輝いていた。外はこんなにも気持ち良く晴れているのに...。


その日は土曜日で、ちょうど家の近くの体育館ではバス同の仲間達が集まって練習していた。家から近いという理由で数週間前にわたしが体育館を予約したのだった。予約した張本人が居なくても問題なく鍵を開けてもらえたようだったけれど、何となくの感情がわたしを体育館へと向かわせた。誰かに会ったら涙が溢れ出てしまうかもしれないけれど、心配も同情もされたいわけじゃない。ただ家族以外の誰かに会って、ふと平凡な日常を感じたいだけだった。


しばらく現実逃避して家に帰ると、兄は先に帰宅し真っ直ぐベッドに横たわっていた。曲がった股関節を伸ばされても、もう痛がることもない。顔も穏やかなのに、目を開けてくれることも、ゼコゼコした呼吸を聞かせてくれることも、もう二度とない。怒ることもない彼をギュッと抱きしめて額にキスした。

今までお疲れ様、ありがとう。

Vol.13 お別れ 

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