毎年5月31日、私は決まっておすしを食べている。

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おばあちゃんは、兄より先に自分が死ぬと思っていただろうか。祖母である以上、それが世の常ではあるけれど...。兄はおばあちゃんの死をどんな風に受け止めているのだろう。出来る限り「死」から兄を遠ざけてきた母はどんな心持ちなのだろう。涙を拭きながらそんなことがふと頭を過った。


祖母の強力サポートを失い、母の負担はより大きくなった。それでも、わたしが小学校高学年になる頃には兄も体力がついてきたのか、自宅と病院で過ごすサイクルは3ヶ月おきくらいになろうとしていた。母も少しだけ兄から離れた時間も楽しみ始め、わたしや姉と出かける機会も多くなっていた。これまでの母の苦労を考えると、兄を置いてしばし普通の生活を楽しんだとしてもバチは当たるまい。


しかし、神様はまたも試練を与えに降りてきた。

「ふざけないで、ちゃんと着替えて!」
パジャマに着替えられないでいる兄に母が動揺していた。彼はボタンの掛け方が分からないと言うのだ。そんなこと、あるハズが無い。何かがおかしい...。今度は彼に何が起こっているというのか、まるで想像もつかなかった。週末はしばらく家族揃って外出し、彼が元に戻ることをただただ願った。


2週間後、仕方なく彼は病院に戻った。また限られた面会だけ許されて、わたしも姉も鍵っ子の生活に戻った。毎日、学校から自宅に帰るとテーブルには夕飯が置かれていて、母は夜8時過ぎに帰宅した。

母の話によると、兄の記憶喪失はますます進行し、わたしの名前も忘れてしまったようだ。顔を覚えていてくれるかも分からない。感情のコントロールも出来ず、面会に行くと赤ん坊の様に一日中泣いている日もあると言う。またしても出口の見えない摩訶不思議なことが起きてしまった。


それから1年以上が経っただろうか。ある日突然、彼の脳は奇跡的に蘇った。記憶を無くしていた間のことは覚えていないが、記憶が戻る瞬間のことは事細かに教えてくれた。突然頭の中に分厚いデスクトップコンピューターの画面が映し出され、ゆっくりと「し の ぶ」とタイプされたのだと言う。そして次の瞬間、「しのぶちゃん!」と頭の中でスパークし、元の世界に戻ってきたらしい。

しのぶちゃんとは、彼の初恋相手だ。幼稚園で出会ってから、小中学校と事あるごとに兄を気にかけてくれる女の子。いつも礼儀正しく、目を細めて笑う顔から優しさが滲み出ている。とは言っても、幼い頃から警察官の父親に柔道で鍛えられている彼女は、見た目は男勝りで兄よりも骨格のがっしりした女の子だった。彼はしのぶちゃんに会うといつもご機嫌だった。

そんな淡い恋心が、1年以上も続いた謎の記憶喪失から彼を呼び起こさせた。初恋が何よりの治療だったとは驚いたが、元の彼に戻ったことに安堵した。

兄はそれ以外にも度々不思議な体験をしていた。何度も死にかけて、三途の川から帰ってきた経験だってある。意識が遠くなって、底無しの真っ暗な闇に押し沈められた時、誰かに「まだあなたが来る所では無い」と引き揚げられたとも教えてくれた。一見ゾッとする世にも奇妙な物話だけれど、兄から聞くと不思議と温かささえ感じられた。


Vol.7 夢のマイホーム

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いくら小柄なホビット一家でも、小学校高学年になると、ずっと住み続けてきた2DKのアパートも大分手狭になってきた。そこにタイミング良く、近所の人が中古の一軒家を売りに出すと言う話が舞い込んできた。アパートからも歩いて3分。少々古いが日当たりも申し分ない二階建ての4DK。両親が内覧してみると、キッチンの床が抜ける程痛んでいたけれど、手直しすれば今よりは大分住みやすくなりそうだった。

母の従兄弟は石塚で材木屋を営んでいて、彼に頼むと二つ返事でリノベーションを引き受けてくれた。そうと決まるとおじさんは直ぐに大工チームを率いてやってきて、2階の四畳半と六畳間の壁をブチ抜いた。そこが姉とわたしの初めての二人部屋。ひとり部屋でなくても自分たちの空間に高揚した。ベッドを左端に二つ並べ、勉強机は右の壁に仲良く二つ並べた。おじさんのアイディアで、右の壁一面に3段の長い本棚も取り付けてくれた。

一階は痛んでいた床を直し、出来る限り部屋の仕切りを取り払った。キッチンと居間の間はアパートから運び込んだ大きな食器棚で仕切られた。この家の唯一の難点は、トイレが狭かった。トイレは階段下、キッチンの左端に引き戸の入り口があった。引き戸の前に少しだけスペースを作り、キッチンからは出入りしないよう大きな冷蔵庫で壁を作った。決してパーフェクトとは言えない中古一軒家で、小学校高学年から5年間ぐらいを過ごした。その間に兄も“こども”とは言えない年齢に達し、こども病院の隣にある総合病院に転院した。


わたしが中学2年生になる頃、兄は突然足の痛みを訴え、歩いてトイレに行くことも難しくなった。食器棚の背につかまって何度も歩こうとするが、右足を押さえて顔をしかめる姿は、彼自身が拷問しているようで見ていられなかった。

翌日、病院でレントゲンを撮ってもらった。
「何も異常は見当たりませんね。何か炎症でも起こしているんでしょうから、様子を見ましょう。」と外科医はスタスタと診察室を出て行ってしまった。いつも寄り添ってくれたこども病院の先生達や物腰の柔らかい主治医と違って、この外科医はどうも好きになれなかった。

「本当に、おかしいねぇ...。どうしちゃったのか...。」

廊下に出された兄も母もわたしもどうすることもできなかった。きっとこうした悔しさで「将来はきっとわたしが!」と医師を目指す子どもが増えるのだろう。


数日経っても痛がる様子は変わらず、病院で再検査を受けた。今度は痛がる兄の股関節に何やら更に痛そうな注射までくらわせたが、結局原因は突き止められなかった。

しかし、かなり後になって股関節が骨折した跡が認められた。お陰で彼の右足は曲がったまま固まってしまった。

車椅子生活を余儀なくされ、畳と段差で埋め尽くされた今の家で、兄はお尻を引きずってしか移動することができなくなった。


両親は一念発起、水戸の家から引越し、父の実家の畑にバリアフリーの新居を建てることを決心した。これまで、週末になると住宅展示場を訪れては「この間取りが素敵」「こんなキッチンがいい」と将来のマイホームを幾度となく夢見てきた。そんな輝かしい夢をやっと叶える時がやってきたのだ。人生には本当にタイミングというものがあるらしい。

また早速従兄弟のおじさんがしょっちゅう我が家にやって来るようになり、間取りについてわたし達のわがままを辛抱強く聞いてくれた。あーでもないこーでもないと家族会議を繰り返し、おじさんはいつも直ぐに手直ししてくれて、あっと言う間に図面を仕上げてくれた。決めてしまえば、遠いと思っていた夢もあっという間に形が見えてくるものだ。

「今度の家は広いぞー!まず玄関入って廊下の直ぐ左がマー君の部屋。外にスロープを付けてこの窓から車椅子で直接部屋にも入れるぞ。隣は襖で仕切った和室。ここをお父さんとお母さんの寝室にすれば、夜でも直ぐ呼べるしマー君も安心だろ。

玄関上がって右はリビングダイニング。希望通り敢えて仕切らずにずどーんと広くしたからな。ただ、居間の和室の一角は収納式の襖を入れるから、ここだけ仕切って使うことも出来る。

キッチンはシステムキッチンを入れて、食器棚も全て取り付けるから、今のはいらなくなるな。水回りはここ。トイレも今の倍以上の広さだ。車椅子でもゆったり入れる。トイレとお風呂には手すりも付けよう。

二階は姉妹で別々の個室。ウォークインクローゼットもあるし、服はいくらでも取っ替え引っ替え出来るぞー。わっはっはっ」

完成した図面を家族みんなで食い入るように眺めた。おじさんも満足気だった。


仕事の早いおじさんは早速図面に合わせて材木も切りはじめた。そして基礎工事を始めようとしたある日、思わぬところからストップがかかった。

それは、土地を譲ってくれると言うダンプじいちゃんからだった。ダンプじいちゃんは、土地持ちで田舎の家の周りにいくつも田畑や山を持っていた。本家から一段下がった畑の土地を次男の父が引き継ぎ、そこに新居を建てる手筈を整えていた。

「長男より先に本家に家を建てることはできん。」今更感満載の申し出。黙って引き下がるわけにはいかず、週末には家族全員でダンプじいちゃんに異議申し立てに押しかけた。鼻息荒く挑む母の姿がある一方、平和主義の父は家族の板挟みで小さくなっていた。

「以前あの土地はいつでも自由に使って良いって言ってたじゃありませんか。」

母が意見すると祖母は「義父に口ごたえするとは何事だ!」と嫁姑戦争も勃発しそうな勢い。

二進も三進も行かない討論の末、感情が昂った姉は、兄を尻目に
「早く建てないとダメなの!お兄ちゃんの為の家なのに、家が建つ前にお兄ちゃん死んじゃうでしょうよー。ウワーン」と泣き出す始末。

これには流石の母も「お兄ちゃんは死なないわよ。」と苦笑い。

話し合いは数時間続いたが、結局ダンプじいちゃんとばあちゃんの決心は頑なだった。夢のマイホームは振り出しに戻ってしまった。

しかし、今度は仕事の早い材木屋のおじちゃんからストップのストップがかかった。
「もう木材も切ってしまったし、後戻りはできないぞ。」おじちゃんや父と仲の良い同級生仲間までもが父への説得を繰り返し、結局は作った図面が入る土地を探して改めてマイホーム計画を決行することになった。

それから母とわたしは暇があれば色んな候補地を見に行った。「ここは砂埃が全部家に入ってきそうだわ。」「日当たりが悪そう。」「ここの土地は地盤が良くないらしい...。」

そしてやっと出会った運命の土地は、石塚の家から10分程の静かな住宅街だった。200坪程の土地は既に完成していた南向きの図面もスッポリ入り、駐車場も家庭菜園をするスペースも十分にあった。

こうして夢の実現には思いがけない壁がいくつもあったが、最終的には家族全員にとってベストな家が出来上がった。マイナスイオンに包まれる木の香り、爽やかなスパイスとなる井草の香り、リビングの隅々にまで燦燦と差し込む陽の光、どっしりと構えた大黒柱と男前な梁、整然と並んだシステムキッチン。どの部屋にもゆったりとした余裕が感じられた。

水戸までは少し遠くなってしまったけれど、朝は出勤する父に学校まで送ってもらい、帰りはバスで帰宅するようになった。地域の介護サービスも利用するようになり、週に2回ほどヘルパーさんが兄の入浴も手伝ってくれた。


Vol.8 兄の部屋

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中学を卒業したわたしは、姉を追って水戸の高校に進学した。伝統ある女子校で、制服はダサくて有名だったけれど、わたしは密かにその制服に憧れていた。パンツが見えないギリギリまでスカートを引き上げてベルトで留め、腰のところで折り返す。上からダボダボのラルフセーターを着てスカートのヒダを整える。ローファーにスーパールーズソックスを履いて、脚が一番細く見えるポイントまで伸ばし、ソックタッチで留める。ひと口にルーズソックスと言っても、水戸が発祥と言われるだけあって、長さ、素材、ボリュームまでバラエティに富んでいた。高校3年間で、ルーズソックス→スーパールーズソックス→紺色ルーズソックスブームと変遷し、卒業前には紺色ハイソックスに落ち着いた。バッグは中学校のボストンバックを肩に掛けて歩くのが人気だった。皆んながあまりに同じ格好をしていたので、ラルフではなくラコステ、ローファーではなく紐付きの革靴を履き、パンチの効いたリュックを背負ってアレンジするのがわたしの拘りだった。

男子の居ない校舎内は女の楽園そのものだった。暑くなるとブラが見えるギリギリまでシャツのボタンを開け、寒くなると短いスカートの下にハーフパンツを履き、ジッパー付きのジャージを羽織る。先生達はそれを埴輪スタイルと非難したけれど、これぞ女子高生の醍醐味のひとつだと思っていた。


文化祭は女子校に男子が堂々と入れる唯一のチャンス。近くの男子高生がこぞってやってきた。

「あの人カッコよくない?」
「うん!わたしタイプー!!」
「あの人、ケイの兄貴らしいよ。」
「えーうそ!あんなカッコいいお兄ちゃんがいるの?!うらやましい!」

「そんなことないよー。」と照れながらもちょっと自慢気に近づいて行くケイ。どんなにカッコいい彼氏を紹介されるよりも正直嫉妬した。

この学校でわたしに兄がいることを知る友人はほとんどいなかった。もしわたしの兄が病に侵されることなく、違う人生を歩んでいたならば、身長は何センチでどんな顔になっていたのだろう。ホビット家系だから高身長は期待できないかもしれない。けれど、祖父の隔世遺伝でもしかするともしかしていたかもしれない。きっと男前になってモテていたかもしれない。これまでの治療や薬によって、骨格もパーツも彼の原型からはほど遠い。“本当はきっと誰よりもカッコよかった”と今でも信じている。


高校の部活は中学校に引き続きバレーボール部に入部した。先輩達が伝統に伝統を重ねてきた部活は、誰が決めたのかもわからない幾つものしきたりがあった。“このベンチに下級生が触れてはいけない”“先輩を見つけたらバレー部特有のイントネーションで挨拶をしなければいけない”“先輩がジャージを脱いだらすぐに気付いて畳まなければいけない” この畳み方でさえ細かく決められていた。

3年の先輩達は1年のわたし達にとやかく言う事はなく、憧れの格好良い先輩やいつも優しい先輩、場を和ませてくれる先輩など好きな先輩が多かった。しかし2年の先輩達はいつもわたし達を監視していて、何かあれば直ぐにお説教の時間が設けられた。

顧問はザ・スポ根アニメ世代の男性教師で、バレーボール歴は無いものの、見様見真似で精神を鍛えようと追い込んでくる。例えば、レシーブ練習の時には先生の掌に「先生お願いします。」と早口で言いながらボールをひとつひとつ両手で置く“ボール出し”という役がある。このボール出しの息が合わないと、至近距離でも構わずボールが顔面に飛んできた。昨今の体罰問題なんてお構い無しの時代だった。練習中にやる気が伝わらないものならば、千本ノックならぬ千本レシーブのしごきが始まる。いつも冷静と言われていたわたしは無論この標的になることが少なくなかった。

それでもわたしがこの部活を3年間続けてこれたのは、同級生12人の仲間達のお陰だと思う。共に先輩や顧問に小さな抵抗を続け、カラオケで発散し、マックで空腹を満たせばまた新たな明日がやって来た。鬼の合宿も嫌だ嫌だと言いながらみんなで乗り越えた。自分達が3年生になってからは、変なしきたりをなくし、先輩後輩の関係はもっとフランクなものになった。13人ひとりも辞めることなく3年間やり切った。

もうひとつ、この部活をやり切れた理由があるとすれば、兄の部屋の存在があったからだと思う。彼の部屋は玄関を上がってすぐ左手にある。わたしは家に帰ると決まってまず彼の部屋を覗きに行った。彼はベッドに横になって脚を組み、愛読書のコロコロコミックを読んでいることもあれば、車椅子に座って野球中継を観ていることもあった。読売ジャイアンツファンの彼は、ナイターがあるとメガホンを持ちながらテレビに向かって応援した。長嶋監督を筆頭に、3番松井、4番清原、5番高橋のラインナップは誰が見ても豪華だった。しっかり仕事をこなす仁志と川相、いやらしく攻める元木、安心感のある村田、ここぞの一髪が期待できる清水がしっかりと脇を固めていた。ピッチャーには外国人助っ人のガルベス、ベテランの桑田と斎藤にルーキーの上原とゴールデンメンバーが揃っていた。一緒になって応援する時もあれば、“GLAYのライブが世界記録だった”とか“池袋で通り魔殺人があった”とか、お昼のワイドショーを賑わせたニュースを彼から聞くのが日課だった。

「今日は何してた?」と聞くと「何もしてないよ。」と返ってくる。「すごいフケ!」とからかうと、嫌がるわたしにわざとフケだらけの頭をスリスリ押しつけてくる。
平凡なこの部屋には、激しい部活の練習や厳しい先輩とのいざこざも浄化してくれる空気が流れていた。どんな悩みもちっぽけなものにしてくれて、外の世界から切り離された安心感があった。


真夜中に家族が寝静まると、二階のわたしの部屋には、階段下からゼコゼコと彼の呼吸が聞こえてくる。しばらく耳を澄ませて様子を伺うのだけれど、結局は駆け下りて吸引に向かうことが日常だった。彼は目を開けて「ありがとう」と言うこともあれば、寝ぼけたまま吸引後にはいつも安心した笑顔を見せてくれた。彼にとって痰が固まることが一番の脅威なのだ。安心した顔を見ると、もっと早く二階から降りてくればよかったと毎回後悔した。そして、一善施した自分にも花丸をあげてまた二階に上がるのだった。


しばらくそんな平和な日々が続いていたのに、兄は微熱が続いてまた病院に引き戻されてしまった。入院してからも熱は上がり、42度が2週間も続いていた。もちろん例のごとく原因はわからない。

「びっくりしないでね。」
面会の前に、母が姉とわたしを構えさせた。

久しぶりに見る兄の姿は、目は虚で息も早く、見ているこっちも苦しくなる程だった。2週間もこんな状態で生きていたなんて想像しただけで辛くなった。思わず涙がこぼれ、慌てて兄から目を背けた。

夕方の6時になると病室の前に夕食の入った配膳車が到着する。配膳車の中には、お盆の上に患者に合わせた献立が並んでいる。ご飯、お味噌汁、魚の餡掛け、ほうれん草の胡麻和え、フルーツサラダ。まずくはなさそうだけれど、プラスチックの容器がいかにも病院食を強調させた。虚な目をしている彼が食べられるとも思わなかったけれど、薄緑の盆の上に兄の名前を見つけ、とりあえずベッドまで運んだ。

彼は渾身の力で起き上がってベッドの端に腰掛けた。倒れないようわたしが隣に座って支えになった。手は震え、とても自力で食べられる様子ではない。代わりにご飯を一口すくって彼に食べさせようとしたその時、

「これは、僕がやるんだから!食べれなくなったら終わりなんだから!」
と信じられない力で押し倒された。

彼の力加減は麻痺していて、わたしを本気で押し倒そうとしたのか、ちょと押した程度だったのかはわからない。げっそりと窪んだ目の中は鋭く、怒っているのか泣いているのかも良くわからなかった。ただ、良かれと思ってしたことの代償としてはあまりにショックだった。これには見ていた母も驚いた様子だったけれど、彼は自分で食べることを生きるバロメーターにしているのだと言う。ほとんど食べているとは言えなかったけれど、その姿は「執念」という言葉がピッタリだった。

兄が夕食に満足した頃、わたしは母に呼ばれて廊下に出た。

「実は、先生に2回目の骨髄移植をしてみないかって言われているの。」

母はまたドナーとなるわたしの反応を気にしている様だった。もちろん二つ返事で引き受け、わたしの骨髄で治るのならば、こんな彼を一刻も早く楽にしてあげたかった。

翌日高校に登校するなり、わたしはバレー部のキャプテンのところに行った。
「あのさ、わたしに病気の兄がいるって前に話したと思うんだけど、覚えてる?今大分弱ってて...。それでね、骨髄移植しなくちゃいけなくなりそうなの。」
「骨髄移植って、よく分からないけど...。」
「簡単に言うと、わたしがドナーになって脊髄にある髄液っていうのを兄に移植するの。幼稚園の時にも一度やったんだけどね、またやらないといけないかもしれなくて。だから、もう部活はできなくなるかもしれない...。」
堂々と部活を休む口実ができて嬉しいはずなのに、急に泣き出してしまった自分に驚いた。急に聞かされたキャプテンも、何のことやらの展開に言葉が見つからない様子だった。

結局、2度目の骨髄移植は実現しなかった。移植したところで今回も成功するとは限らない。本当に必要な骨髄移植かも分からない…。

その後、彼は徐々に回復しまた我が家に平凡な兄の部屋が戻った。


Vol.9 花火

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姉は進みたい道を見つけ、大学は家を出て一人暮らしを始めた。翌年はわたしの大学受験。迷ったあげく、家から通える大学で地域福祉を学ぶことにした。弾けた大学生活を夢みて上京する友人も多かったけれど、時折介護ストレスが現れていた母をひとりにすることは考えられなかった。大学に入ったら早速車の免許を取って、兄を色んなところに連れて行ってあげたいと、密かな計画に胸も高鳴っていた。

しかし、大学生活は想像以上に楽しい毎日だった。高校ではスポ根部活の毎日で縁がなかった恋愛も、お遊び程度に楽しめるサークルも、大学には全てがあった。

嫌程続けてきたバレーボールを卒業し、何か違うスポーツも初めてみたかった。適度に汗をかく、程良いサークル。テニスひとつをとってみても、テニス部、テニス愛好会、テニス同好会など、テニスへの本気度合いと飲み会の気質にそれぞれのカラーがあった。中にはテニスとは名ばかりでほぼ飲みサークルのところもあった。

ラクロス、バスケットボールなどいくつかのサークルを見学した中で、何となく気に入ったサークルは、バスケットボール同好会、通称バス同だった。バスケットの練習も週2回そこそこ本気で、練習後の飲み会もあり、程良く楽しめそうなサークルだった。中高バレー部の隣ではいつもバスケットボール部が練習していて、泥臭いバレーと対照的なバスケのクールさにちょっとした憧れも抱いていた。そんな理由で、バス同に入会した。

バス同の練習に参加すると、モップ掛けは1年生が率先してやって欲しいという雰囲気はあるものの、厳しい上下関係は無に等しかった。車を持っている先輩達が1年生を乗せて練習場まで送り迎えもしてくれれば、練習後に先輩達のおごりで飲みに連れて行ってもらうこともあった。就職活動を終えてたまに顔を出す4年生達は遥に大人びて見えた。兄も通常であればこの先輩達と同じ学年のはずだった。

何度か先輩達と顔を合わせるうちに、わたしは4年生のひとりと彼氏彼女の関係になったのだった。

「俺の誕生日は5月30日。ゴミゼロの日。覚えやすいだろ。」
「ゴミゼロの日ね。覚えておきます。」



大学の長い夏休みが始まる頃、ふとテーブルに置いてある“ヘルパー3級講座”というチラシが目に飛び込んできた。わたしの通う大学の地域福祉ゼミは、卒業しても何かの資格が付いてくるわけではない。
「お母さん、わたしこれ受けてみようかな。」
テストもない気軽さと静かに湧いてくる興味がわたしをヘルパー3級講座へと向かわせた。

ヘルパー3級講座初日、20名程集まった教室のほとんどは母世代かそれ以上で、「親の介護が必要になったからきちんと学んでみようと思って。」とか「近々介護施設で働くことになったので資格を取りにきました。」という主婦層だった。19歳の女子大生であるわたしと、40代前半で唯一の男性受講者は明らかに浮いていた。

食事介助、着替えの介助、移動介助、洗髪の介助など、実践練習はいつもそのおじさんとペアだった。おじさんは緊張しているのか、プリンを食べさせる練習ではスプーンを口に運ぶのが早すぎて息苦しかったし、ベッドの上で洗髪の練習をした時はわたしの背中までビショビショにしてくれた。介護にはまるで不向きだったけれど、全員が無事にヘルパー3級の称号を手に入れた。

せっかくのヘルパー3級を活用できないまま、デート、サークル、飲み会、バイト、ゼミのメンバーや教授との出会いにも恵まれ過ぎて、思い描いていた兄との時間をすっかりなおざりにしてしまった。家に帰って兄に「今日は何してた?」と聞くと、相変わらず「何もしてない。」と返ってくる。一日中家で過ごすには限界がある。同級生達の就職や外で遊び呆けている妹達とのギャップに複雑な想いだったに違いない。彼の生活を気にしつつも、わたしは新しい世界に完全に引っ張られていた。あの頃YouTubeやNetflixやzoomがあったなら、彼の日常は忙しくなっていたかもしれない。

「新宿の母」ばりに兄の部屋が何でも相談できる空間になっていたわたしでも、彼氏とのことについてはあまり話をしなかった。それは、兄の恋愛や性についてどう向き合って良いのか分からなかったからだ。古風な我が家は性教育についてはとても消極的で、冗談でさえキスやセックスが話題にあがることはなかった。一般社会と少し距離のある兄でも、世間一般の男性と同じように悶々とすることはあったのだろうか。嫌な顔をする母を尻目に、父は兄にこっそりプレイボーイを買ってくることもあった。母は、彼の排泄介助をわたしに手伝わせることはなかった。わたしは覚えてきたケアを実践してみたかったけれど、彼の自尊心がそれを許さなかったのかもしれない。


夏休みのある日、彼氏とその友人達が我が家に遊びに来た。一緒にご飯を食べて、庭で花火を楽しむところだった。3つ年上の彼氏は、一年遅れて学校に通った兄と学年ではタメだった。彼氏には兄のことを話していたし、友人達も受け入れてくれる人達だということは間違いなかった。

しかし、わたしは自分でも信じられない行動をとってしまった。外から見えない様に兄の部屋のカーテンをさり気なく閉めてしまったのである。自分の正直な気持ちがそうさせた様でハッとした。


庭では花火の準備が整った。わたしはみんなに兄を紹介するタイミングを伺っていた。知られたくないような、知って欲しいようなわたしの一部。

「お兄ちゃんも一緒に花火誘っていいかな?」

彼らの答えはもちろんYESだ。とは言え、実際に兄を見て彼らはどんな顔をするのだろう。他人の反応には強気になれるわたしでも、仲間内で拒絶されたら立ち直れる自信がなかった。

そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、家ではいつもジャージ姿の兄がちょっとキメてジーンズを履いていた。見た目は普通だが脱ぎ着がし易い様に母がジッパーをアレンジしたお手製ジーンズだ。

ヨシ!と小さな覚悟を決め、車椅子に乗った兄を庭に連れ出すと、そこにはもう何の心配もなかった。人懐こい笑顔と人を惹きつける彼の魅力はいつの間にかみんなの輪に溶け込んでいた。次々と花火に火が付けられ、みんなの笑い声が湧き上がっていた。大きな打ち上げ花火を見上げ、わたしの目が涙ぐんだのは庭中に広がった煙のせいじゃない。兄も久しぶりの花火を見上げて満足そうだった。


兄と部屋に戻り、ヘルパー講習で習ったばかりの移動介助をやってみた。二人で息を合わせて車椅子からベッドに移る練習だ。練習相手のおじさんとは違い、曲がってしまっている股関節のせいで兄を上手く支えられないのが想定外。テコの原理が全く働かなかった。

「いち、にの、さん!」

結局は技も何もない力任せの移乗に終わった。勢い余って兄をベッドに投げ飛ばし、わたしも一緒にベッドに倒れ込んだ。二人で天井を見上げてしばらく笑いが止まらなかった。なんて楽しい夜なんだ。


Vol.10 インド

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わたしは大学で地域福祉を専攻したものの、高校時代にタイタニック主演のレオナルド・ディカプリオにドハマりして以来、海外への興味も膨らんでいた。海外プログラムを見つけては参加し、オーストラリア、カナダ、バングラデシュに行かせてもらった。そして、ゼミでは途上国開発に名のある教授に出会い、ユネスコ派遣の一員としてインドに行くチャンスを手に入れた。

日本全国から10名の個性豊かな大学生が集まり、3週間インドで識字教育の現場を視察したり、農村でホームステイしたり、現地の大学生と交流する。北から南インドへと移動も多く、ハードながら刺激的な毎日が続いた。

プログラム残り一週間程となり、一行はインド滞在中で最も郊外の農村に滞在していた。しばらく過酷なザ・アジアの生活が続いたことで、数日後からアグラで観光したり、バンガロールの都市に出て大学生と交流したりする楽しみがようやく見えてきた頃だった。

1日のプログラムを終え宿に戻ると、わたし宛に母から電話があったとフロントに呼び出された。こんな海外までわざわざ電話をかけてくるなんて、余程の急用だろう。家族の誰かが交通事故にでもあったのか、父が心筋梗塞にでもなったのか、兄に何かあったのか...。考えると震えが止まらなかったが、意を決してコレクトコールをかけた。

「こんなところまで追いかけてごめんね。伝えるべきかお父さんとも迷ったのだけど...。 もしもの時に後悔して欲しくないから電話することにしたの。」

「うん...。何かあった?」

「明後日の午後、お兄ちゃんが緊急手術することになったの。難しい手術だから、そのまま会えなくなる可能性もあるって。先生は、家族に集まってもらった方が良いって...。」

その言葉はとても鋭い牙のようにわたしの耳をすり抜けて胸に突き刺さった。わたしは受話器を持ったまま人目を憚からず泣き崩れた。

「そ...それ...で、お兄ちゃんはいつまで...生きられるの?」

「今回の手術次第。明後日の昼までに帰って来られれば、麻酔前のお兄ちゃんに会えると思う...。」

「わかった。絶対帰るから。」

出発前にそんな兆候は全くなかったのに、いつかと思っていた日が急に迫ってきたことが信じられなかった。わたしの分身は、遠くに離れた時にやっぱり不調を来すのだ。

驚き、悲しみ、不安、悔しさがグルグル入り乱れてしばらく涙が止まらなかった。


しかし、そうしてもいられない。明後日までにこんな辺鄙な所からどうやって帰ろうか。
団長の教授とインド人ガイドと早速の作戦会議。この時ばかりは、適当に見えた現地ガイドが頼もしく思えた。

明後日の昼から逆算すると、わたしは今すぐ出発するしかなかった。文字通り同じ釜の飯を食ったメンバー達に旅のリタイヤを告げ、早々に荷物をまとめた。

帰国プランはこうだ。夜通しで車を走らせ、最寄りの空港へ向かう。早朝には国内線で主要都市に飛び、夜の国際線で日本に向かう。約9時間のフライトで翌日の早朝には成田に到着。成田からはお昼までに茨城の病院に到着できるかギリギリの賭けだった。

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