毎年5月31日、私は決まっておすしを食べている。

3 / 3 ページ

そうと決まると、地元の青年が車を出してくれた。見るからに頼りない新米の運転手だったけれど、彼が無事に送り届けてくれることを信じるしかない。副団長に一行を任せ、団長だったゼミの担当教授自らわたしに付いてきてくれた。普段であればみんなに迷惑をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいになるところだけれど、迷惑を省みる余裕さえなかった。

真っ暗な田舎道に土埃をあげて車はどんどん進んでゆく。どこを走っているのかさえわからない。この時代にスマホとGoogle Mapがあったならば...。

しばらくすると、何やら雲行きが怪しくなってきた。運転手の彼に英語は通じないが、しきりにUターンを繰り返し明らかに迷っている。やはり新米運転手には荷が重すぎる任務だったようだ。目的地に辿り着くのか、予定のフライトに間に合うのか、予想だにしなかった真夜中の大冒険。

しかし、青年は見た目によらず良いヤツだった。夜中に庭先にいるローカルの人を見つけては窓を開け、ひたすら道を聞いてまわった。

真面目に任務を果たしてくれた彼のお陰で、わたし達は空港が開く前に到着した。彼と別れ、教授とふたり外のベンチでドアが開くのを待つ。中でスタッフが寛いでいるのを見ると、少しくらい早く開けてくれても良いものを...。わたしは我慢できずに中でトイレだけ借りて、また外に出された。

ようやく空港が稼働し始めると、昨夜予約したチケット情報が反映されていなかったのか、チェックインにもだいぶ手こずった。インドはIT大国だと聞いていたのに、大分アナログな対応に思わず教授と顔を見合わせた。


無事に国際線の空港まで到着すると、チェックインまで時間に余裕ができた。教授はわたしを近くのホテルに連れて行き、自分はロビーで待っているからと、出発までゆっくり過ごすようお風呂のお湯も溜めてくれた。数週間ぶりのバスタブは、体も心の凝りも一気に溶かしてくれるようだった。教授の粋な計らいで全てをリセットして日本に帰国することができた。

今回のインド派遣にわたしが選ばれたのは、“健康ポイント”が大きな要因だった。前回のバングラデシュ派遣でも、教授とわたし以外、派遣メンバーは一度は皆病院送りを経験した。例えどんなに優秀でも健康でなければインドで何も学べない。そんなわたしの超健康体が認められ、今回の切符を手に入れたのだった。

しかし、まさかわたしが家族の健康トラブルで帰国することになるとは、誰が予想できただろうか。わたしでさえ、兄のまさかが現実になるとは夢にも思わなかった。


成田までの機内は熟睡できたとは言えなかった。帰国後、方向音痴のわたしは駅員にしつこく聞きながら、空港から最短の電車を乗り継いだ。少しでも早く到着できるとなれば、ぎゅうぎゅうの通勤電車にも大きなスーツケースで乗り込んだ。

病院の最寄り駅に到着し、そこからはタクシーで病院に向かった。時計はギリギリお昼前、変な緊張が張りつめて冷たい汗が背中を伝った。

息を切らして手術室前に到着すると、兄はストレッチャーに横たわりちょうど戦場に入るところだった。間に合った!!

手術するくらい深刻な容体だとわかっていても、一見元気そうな様子にこちらが拍子抜けするくらいだった。


手術は危険が高いという理由で、結局は途中で続けられなくなった。術後も彼の見た目は変わらず元気だったけれど、応急処置ができたにすぎなかった。

彼の命のカウントダウンが始まった。


Vol.11 太陽

画像11

応急処置の手術をしてから約2年。あの手術は本当に必要だったのかと疑問さえも消えた頃、兄の容体は急変した。それでも、いくつもの危機を乗り越えてきた彼だから、当然また過去の武勇伝のひとつになるだろうと信じていた。

母とわたしが泊まり込みの看病を始めてからもう10日が経とうとしている。

ゴミゼロの日。それは付き合っていた彼氏の誕生日で、友人達とみんなで、お気に入りのインディーズバンドのライブに行くはずだった。

「お誕生日おめでとう。」
「ありがとう。そっちはどう?」
「うん、あまり良くない...。一緒にお祝いできなくてごめん。でも、ライブ楽しんできて。みんなにもよろしくね。」
「そっか...。今も病院?」
「うん。今日もここに泊まる。」
「少しだけ会える?駐車場に行くから。」
「こっちに構わずライブ行ってきて!」
「病院着いたらまた電話するから。来れたら駐車場で待ってるよ。」
「うん....わかった。じゃあ、またあとで。」

彼氏が就職先の横浜から会いに来てくれたその夜、千葉で暮らしていた姉も病室に現れた。

「ただいまー!」

静まりかえった個室には完全に不釣り合いな姉の声。彼女の眩しい笑顔とエネルギーは、シリアスな空気を一気に吹き消してくれた。

メールでは伝えていても、姉も到着してやっとことの重大さに気づいたようだった。わたしも離れて生活していたら、「いつものことだ」と高を括っていたと思う。


石橋を叩いて渡るわたしと正反対の姉は、やりたいことに猪突猛進するタイプ。152cmと小柄な体格では諦める人も多いスポーツの道も、持ち前の根性で大学まで駆け上がった。在学中も気がつくとアメリカへ、ある時はカナダにスノボ留学まで行ってしまった。就職後はラクロスに魅了され、毎月ちびっこラクロス教室を開いている。家族でさえ彼女が何を目指しているのかわからないけれど、いつも後先考えずにやりたい道へと突き進む。最近では、里帰り出産中に父の家庭菜園に感化され、突然脱サラしてイチゴ農家に転身してしまった。そんな姉の性格を羨ましいと思うこともあった。

こうして並べると自由奔放な人間に見える姉だが、一方では幼い頃から人一倍わたしの面倒もみてくれた。


話は遡ってわたしがまだ小学校一年生の頃。今でも忘れない嵐の日。母は兄の面会に行き、姉とわたしは家でふたりきり。遠くに見えていた雷の光と音がだんだん近づいてきた。外を見ると、目の前の材木置き場には絵に描いたようなジグザグの稲妻がはっきりと見えた。眩しい光と雷音もほぼ同時。真っ暗にして潜んでいたわたし達の部屋は完全に雷に包囲され、今にも落とすぞと脅されていた。

ゴロゴロゴロゴロ、ドッシャーン!聞いたこともない地響きと共に、遂に我が家に雷が落ちた。わたしはもう我慢の限界だった。泣きじゃくり、一刻も早くどこか安全な場所に逃げたかった。携帯電話もポケベルもない時代、病院にいる母へわたしの声は届かない。姉は黒電話で第二の母の番号を回し始めた。

「おばちゃん、助けて!迎えに来て!」

受話器越しに援護射撃でただただ泣きじゃくるわたし。

「おばちゃんも迎えに行きたいけれど、生憎今日は車がないの...。でも、もう少し頑張って待ってて。必ず迎えに行くから!」

しばらくして、第二、第三の母の連携プレーでわたし達は無事に保護された。それまでわたしをなだめていた姉は、おばちゃんの顔を見るなりわたし以上に泣きじゃくった。溜めに溜めた涙が一気に噴き出たようだった。

以来わたしは小学校高学年まで、雷がこの世で一番恐ろしいものになった。遠くでピカピカ光る空を見つけようものなら、襲ってくる前に寝てしまうという術も覚えた。気持ち良く寝ているうちに、雷の襲来をやり過ごすのだ。


わたしが就職後に都内で一人暮らしをしてからは、姉が家に入り浸るようになり、しまいにはふたりでシェア生活を始めた。朝には素敵女子的なお弁当まで持たせてくれる時も度々あった。毎週水曜か金曜にはふたりでお疲れさま会を楽しんだ。会社帰りに駅近の安い焼鳥屋で集合する。安い割には美味しくて、焼酎も並々注いでくれる店がふたりのお気に入りだった。そこでたらふく飲み、帰りにコンビニで二次会用のスイーツとお酒を買って家に着く。決まって最後にはふたりとも寝落ちしてしまうのだけれど、翌朝には身に覚えのないテーブルの残骸を見て後悔するのだった。


そんな面倒見の良い姉だけれど、大学生活はわたし以上に自分の時間を満喫していた。久しぶりに家族の現実に引き戻され、彼女は少なからず罪悪感を抱いている様だった。

「家に居なくてごめん。」

そんなことはない。外にいたからこそ場違いな程に明るく現れてくれた姉は、わたしたちには眩しい太陽に見えた。それまでの空気にリセットボタンを押して、また頑張れると思わせてくれた。

姉は家族の中でそんな役割を果たしてくれる太陽みたいな存在なのだ。


Vol.12 旅立ち

画像12

姉が来てからは、交代で兄の容態を見守った。たとえ代わると言っても、結局母はうとうとするだけで兄のそばを離れることはなかった。

兄は時折体を左右に激しく揺さぶり、頭をベッドの柵に打ち付けて発作を起こした。発作の間、わたし達は彼の肩をベッドに力いっぱい押さえ付けた。どこにそんな力を蓄えていたのか不思議なくらい、彼は抵抗する。

そんな殺伐とした発作の最中、医師が部屋にやってきて母を呼び出した。ガタガタ揺れるベッドに目もくれず、こんな時にだ。今日はたまたま主治医が外出していて、以前からわたしが好かない先生が診てくれていた。股関節の骨折を見抜けず、いつも横柄な物言いをするところも気に入らなかった。それでも、今は彼を頼るしかない。

しばらくして、廊下に呼び出された母が戻ってきた。先生によると、脳に血液が溜まり、いつ逝ってもおかしくない限界が来ていると言う。いくら今日が山だと言われても、未だに何の実感もない。これまで幾度となく窮地を乗り越えてきた兄と、また家で一緒に暮らせることをただただ信じていた。

「先生!先生!助けて!」

兄は発作に苦しみながら、主治医を探して叫んでいた。彼は渾身の力で必死に生きようとしている。これまで笑って話してきた武勇伝の裏には、こうしてもがいて生き抜いてきた兄の姿があったのだ。

しばらくして発作が治まり、また束の間の穏やかな時間が流れ始めた。

「ゾウがいる...。」「女の子がやってくる...。」
幻覚が見えている時も多くなった。

彼の額を撫でて心の中で呟いてみる。
“もう十分頑張ったよ。楽になっていいんだよ。”

“僕はまだ生きたいんだ...。”
彼の返事が聞こえた気がした。

“わかった。悔いなく生きて。そばにいるよ。”
彼の手をギュッと握った。


この看病中、他にも今まで知らなかった兄の一面に驚いたことがあった。
お世話になった婦長さんが彼の様子を見に来てくれたあの日。それまで辛そうだった彼が、見違えた外面の顔になっていた。「寝てていいわよ。」と言う婦長さんに「せっかく来てくれたんだから!」と起き上がって肩を組み、笑顔を見せた。

社会に出られず世間知らずだと思っていた彼にも、そんな一面があったのがとても意外だった。そして、強くて優しい彼を心から尊敬した。


良く晴れたその日の午後、わたしは車を走らせ家に洗濯物を取りに帰った。久しぶりにシャワーも浴びてすっきりしたかった。

「運転、気をつけてね!」

ここでわたしが事故でも起こしてしまっては元も子もないが、母の忠告とは裏腹に田舎道を思い切り飛ばしたい気分だった。

ささっとシャワーを浴びてスッキリすると、今すぐ兄の元に戻りたくなった。何だか、彼がこの間にいなくなってしまうのではないかという不安が押し寄せてきたのだ。

急いで病院に戻り車を停めると、見舞いに来ていた第二の母がわたしを見つけて叫んだ。

「早く、お兄ちゃんのところへ!」

悪い予感が的中した。

家から持ってきた洗濯物を置き去りにして階段を駆け上がると、病室で母と姉が兄に懸命に呼びかけている。いつも笑わせてくれる父は既に肩を落としていた。家族以外、医師や看護師達で彼の個室は賑わっていた。わたしも急いで彼の頭に駆け寄って何度も呼び続けた。

「お兄ちゃん、行かないで!

   お兄ちゃん、帰ってきて!

     お兄ちゃん、まだ生きて!!」

彼は三途の川への道も帰り道も知っているはずだ。呼び続ければきっとまた戻ってこれると信じて呼び続けた。目の前で起こっている現実に必死になる一方で、わたし達が幻覚の中にいるくらい非現実とも思えた。

兄はついに逝ってしまった。幼い頃からいつかと思っていた日は、2003年5月31日の今日だった。


お世話になった看護師さん達も涙を流しながら、旅立った彼の身体を綺麗にしてくれた。

わたし達が一頻り落ち着きを取り戻した頃、叔母も駆けつけてくれた。叔母はついさっきまでわたし達がした様に兄を見て泣き崩れたけれど、その頃には、悲しみよりも最期まで頑張った彼を称えたい気持ちが生まれていた。看病をこれ以上続けさせないように逝った兄の優しさも感じていた。いつしか死にかけた彼を暗闇から引き揚げた誰かに、そろそろ良いのだと認められてしまったのかもしれない。


兄が家に帰る手続きをする間、父は車のハンドルに額をつけて俯いたままだった。父のワゴン車にも兄との思い出が詰まっている。まだ暖かい兄の身体を母が支え、家まで最期のドライブ。

出発しかけた時、主治医が駆けつけてくれた。

「助けられなくて、申し訳ない。」先生は頭を下げた。

「兄は、これまで先生に診てもらえて幸せだったと思います。助けて!って必死に先生を探していました。先生のことを心から信頼していました。これまで本当にありがとうございました。」

これまで幾つもの荒波を一緒に乗り越えてきた主治医に、兄が感謝している気がして、わたしはとっさに口走り深々と一礼した。

兄を乗せた父の車を見送り、自分の車に乗り込むと、しばらくその静けさに包まれたかった。この数時間に起きたことが未だに信じられないでいる。少し前に車をここに停めたところから、ひとつひとつ記憶を追いかけてみた。全て夢であって欲しい。

じわじわと現実味と哀しみが波打って、それはやがて大きな津波となって押し寄せた。襲いかかる真っ暗な闇に飲み込まれてしまう前に、エンジンをかけてそれを振り払った。ステレオからはHYのモノクロが流れていた。

今日も見つけた君の姿 つい見とれて前も見えない
この想いを胸に秘めたまま 君をそばで感じていよう

恋愛の歌詞でさえ、兄への想いに変換されて胸に刺さった。

「そばにいてよ!もっとそばにいさせてよ!!」

HYの大音量に、泣き叫ぶ声さえもかき消してもらいながら車を走らせた。何度も往復して見慣れた田舎道。街路樹は新緑を纏い、青空に向かって逞しく幹を伸ばしている。苗が真っ直ぐに整列した田んぼは初々しく、水面が眩しい程に輝いていた。外はこんなにも気持ち良く晴れているのに...。


その日は土曜日で、ちょうど家の近くの体育館ではバス同の仲間達が集まって練習していた。家から近いという理由で数週間前にわたしが体育館を予約したのだった。予約した張本人が居なくても問題なく鍵を開けてもらえたようだったけれど、何となくの感情がわたしを体育館へと向かわせた。誰かに会ったら涙が溢れ出てしまうかもしれないけれど、心配も同情もされたいわけじゃない。ただ家族以外の誰かに会って、ふと平凡な日常を感じたいだけだった。


しばらく現実逃避して家に帰ると、兄は先に帰宅し真っ直ぐベッドに横たわっていた。曲がった股関節を伸ばされても、もう痛がることもない。顔も穏やかなのに、目を開けてくれることも、ゼコゼコした呼吸を聞かせてくれることも、もう二度とない。怒ることもない彼をギュッと抱きしめて額にキスした。

今までお疲れ様、ありがとう。


Vol.13 お別れ

画像13

父と母がリビングでお通夜やお葬式について話している間、わたしは兄の頭を撫でたり、顔を摩ったりしていた。けれど、やっぱり彼はずっと穏やかに眠ったままだった。

少し経ってから彼氏やサークルの親友が様子を見に家まで来てくれた。その時は悲しくて泣くというより、心の中が空っぽになってしまった様で、むしろ何の感情もなく笑顔が作れた。

どこからともなく葬儀屋も現れ、「早速ですが...」とお通夜やお葬式のプランを広げていた。棺桶は、お花は、と決めることが多すぎて、家族が哀しみに浸る余裕さえ与えてくれなかった。「今はそっとしておいてください。10日後にまた来てください。」 できるものならそう言いたかった。けれど言われるがままに準備は進み、居間には着々とお通夜の用意が運ばれた。

続いて町内会の会長さんが近所の人達を引き連れてやってきた。石塚では、お葬式を町内会で仕切るのが古くからの慣しだった。決めることだけ決めたら、家族は無闇に手を出してはいけない。朝早くから夜まで色んな人が代わる代わる家に上がり込み、お茶出しやら会場設営やらを手伝ってくれる。

石塚の町内会はだいぶ高齢化していて、引越してきたわたし達が一番若い家族だった。近所の人達が、毎日手持ち無沙汰な様子で家に居るのは、正直心地良いものではかった。家主は「湯呑みはどこですか?」「お茶菓子ありますか?」と聞かれることに指示だけ出す。有難い一方、お年寄り達にやってもらうのも気が引ける。そして、手伝ってもらう人達に毎食お礼の仕出しを用意するのにむしろ手がかかる。伝統、風習とは概してそういうものだ。

お葬式の準備を進めていくと、父がはじめに「家族葬が良い」といった気持ちも少し理解できた。けれど、やっぱり兄は多くの人に見送られた方が喜ぶに違いない。

遺影には、同級生だった寿司屋の息子とツーショットで撮影した時の写真が使われた。寿司屋の息子は名前も同じく"まー君"で、幼稚園の頃から事あるごとに兄に会いに来てくれた。常に一緒にいる訳でもない付かず離れずの男の友情は傍から見ると不思議なもので、学校を卒業した後もずっと続いていた。写真の中の兄は自然体そのままの笑顔を見せ、男同士で少しだけ格好つけた凛々しさも漂う素敵な写真だった。


お葬式当日。お経をあげてくれたお坊さんは父の同級生だった。親戚、第二第三の母達、兄の友人達、初恋のしのぶちゃん、園長先生、学校の先生達、寿司屋の一家、兄の折り紙ファン、引越し前に住んでいた近所のおばさまグループなど多くの人たちが、兄の旅立ちに集まってくれた。

園長先生は、会うなり涙を堪えきれず母と抱き合った。
「ちょうど久しぶりに、家に飾っているマー君のおりがみ作品を何気なく眺めていたところだったの。そしたら訃報が届いて...。マー君が知らせてくれたみたいだったわ。」


一階は居間もダイニングも親戚や町内の人たちに占拠され、二階の姉の部屋が家族の休憩所となった。父は合間を縫って時々タバコを吸いにやって来た。


「お父さん、大丈夫?お水飲んで少し休んだら?」
「あぁ、大丈夫。」
「喪主の挨拶も大丈夫?」
「あー、そうだな。少し考えておいた方がいいな。」


タバコをボールペンに持ち替えて言葉を並べようとした時、一階から誰かが父を呼んだ。その後も何度か二階にあがって来ては父が呼び出され、挨拶文は一向に完成しなかった。


「お父さん、挨拶は私が書いてあげるよ。」見かねた姉が買って出た。
「そうか。そうしてもらえると安心だ。」
いつも宴会隊長の父は、人前で話すことは得意だったけれど、今回ばかりは心の整理が必要のようだった。


「本日は、雅之の為にお集まり頂き誠にありがとうございました。故人も皆様に見送られ、喜んでいることと思います。生前お世話になった皆様に心より感謝申し上げます。
 
 3歳で原因不明の病に冒され...20歳まで生きられないと言われましたがっ、彼は...... 彼は...24年の人生を、精一杯...、精一杯生き抜きました!
 どうか、雅之がこの世で生きたことを忘れないでやってください。」

父は皺苦茶の泣き面で深々と頭を下げた。俳優顔負けのスピーチに多くの参列者が目頭を抑えていた。父が久しぶりに格好良く見えた。

           *


お葬式がひと段落し、埋め尽くされていた居間にぽつりぽつりとスペースが空き始めた。最後まで残っていたのは、母を囲んでいた第二第三の母達だった。

玄関で見送るわたしにみんな口々に「お母さんのことよろしくね。」と託して帰っていった。

「うん。わかってる。」

“わたしも辛い” とは言えなかった。支えになってくれる彼氏や友人達にさえ、話を聞いてもらうより、ただただ独りで泣きたかった。


Vol.14 兄のいないセカイ

画像14

大学を卒業し、わたしは初めて実家を出て上京することにした。医療や介護にどっぷり浸かっていたこれまでの環境から脱し、キラキラとしたOLへ羽ばたくことを夢見ていた。

しかし、結局はこれまでの人生に導かれるように、介護の道へ舵を切っている自分がいた。兄の様に障がいがあっても、どんな人でも外出することを諦めない世の中を創りたい。就職活動を進める程にその想いは膨らんだ。

就職後は、社会の荒波に溺れながらも必死に浮上する毎日だった。就職三年目になってようやく大役が回って来た時は、石の上にも三年とは良く言ったものだと実感した。わたしは、高齢者施設に入居した人達の夢を叶える「輝きプラン」を任されていた。今思えばもっとマシな名前があったハズだと恥ずかしくなるけれど、当時はそれがピッタリのネーミングだと自負していた。たとえ高齢で寝たきりでも、どんな人にも夢がある。その夢を叶えて、本人も家族もそれを支えるスタッフさえも元気にしてしまおうという一石三鳥ものプロジェクトだった。

95歳の紳士が念願のダンスパーティで車椅子から立ち上がった時、夢はどんな治療やリハビリより生きる力になることを教えてくれた。兄にとって生きる力は何だったのだろう...。それから83歳認知症の方との高尾山登頂、92歳の家族と鎌倉旅行、100歳でも舞台で主役になれるコンサートと、数々の夢が実現した。正にわたしの天職と思えたが、兄にしてあげられなかった沢山のことを、他の誰かで償っていたのかもしれない。


プロジェクトが全国32箇所の施設で軌道に乗ってきた頃、わたしは素敵な90歳のご夫婦に出会った。

「改めて叶えたい夢を教えていただけますか?」
「そーだなぁ。私はまた海外を旅したいなぁ。」

若い頃に世界を股にかけてビジネスをしてきたその紳士は、車椅子に乗ったご婦人を見つめながら答えた。

「皆さんにお世話になりながら旅には行けても、この身体では無茶できないからね。君も、何でも出来る若い時にどんどん旅に出ると良いよ。」

"お金も地位も名誉もある人達が人生の最終章にしたいこと...。今のわたしには出来る!"

その紳士の言葉に背中をおされ、わたしは世界を見てまわる決心をした。いつか見てみたかった広い世界、兄も行きたかったであろう外の世界を一年かけて周ってみることにした。

この世に生を受けて以来、医療介護のセカイで生きてきたわたしが、この時初めて本当の自由を手に入れたのかもしれない。誰に押し付けられたわけでもないけれど、勝手に担いだ十字架の呪縛は、解き放たれた。この世界一周をきっかけに、人生のシナリオは全く新しいストーリーに書き換えられた。


それから7回の命日が過ぎ、2011年に東北で未曾有の大震災が起こった。わたしは今でも被災した子ども達の自立支援活動を続けている。そこで出会う多くの子ども達からは、様々な被災体験を聞かせてもらう。「初めて人に自分の体験を話した。」「みんな大変な中で自分だけ辛いなんて言えなかった。」と言って泣き崩れる子も少なくない。わたしもあのお葬式以来、家族の前で泣くことはなかった。彼ら彼女達の経験は簡単に受け止められるものではないけれど、そんな気持ちだけは分かり合えるものがある。

           *

兄を失ってからはじめの5年間、夢か現実かの境目も分からず毎晩の様に涙が溢れた。その後の5年間は、彼を忘れてしまうことの方が怖かった。わたしの分身でもある彼は今でも何かで繋がっていて、体調を崩す日には決まって夢に現れる。

17年経った今、彼と過ごした日々は、確実にわたしの中に温かいものを残してくれた。今でもはっきりと思い出せるのは、彼のくしゃくしゃの笑顔と懸命に生きようと必死だったあの顔、穏やかに眠るあの顔と、彼と過ごしたいつくかのストーリー。彼がどんな声で話していたのかは、もうおぼろげだ。

毎年やってくる5月31日、わたしは決まっておすしを食べている。

The End


あとがき

これは、兄とわたしと家族の事実に基づく物語。あの日から幾度となく兄との様々なストーリーを書き留めようとしてきた。彼が居なくなってから初めの5年は、感情が高ぶりすぎて書けなかった。次の5年は思い出が鮮明すぎて、どこから書いて良いのか整理できなかった。そして17回忌を迎えた今、微かな記憶を辿りながら、薄れゆく兄との思い出を書き留めておきたいと思った。

予想だにしなかった世界的なパンデミック。5月になっても帰省できずにstay homeを余儀なくされたわたしには、その余裕を与えられているようだった。ロックダウン真っ只中のセブにいる間、燦燦と降り注ぐ太陽の下を毎日散歩しながら、次の章を考えるのが日課となった。

書き上げてから手直しを繰り返し、沢山の人たちのサポートでようやく最終章までお披露目することができた。特にIsooさんには毎回的確なアドバイスと素敵なビジュアルを制作頂き、この場を借りて心から感謝を申し上げたい。

イメージ.001


印象に残っているひとつひとつのストーリーを振り返ってみると、それぞれのシーンで家族が各々の役割を果たしていた。まさに持ちつ持たれつやってきた。そして、ひとつひとつの経験が、否応無しに今のわたしの人格として染みついていることにも気付かされた。

実話に基づいていることもあり、色んな方に読んで頂けるのは、少し恥ずかしくもある。今回、幼少期から順を追って小説にしたことで、幼なじみ、小学校・中学校・高校・大学の同級生、先輩や後輩、社会人になってから出会った友人達、今まで仕事上でしか話す機会がなかった方々からも、嬉しいことに多くのメッセージを頂いた。

読んでくださった方々には、幼少期からずっと見守ってくれていた親戚のような感覚さえ覚えた。温かく包まれる安心感というのだろうか...。何とも言えない不思議な感覚が芽生えた。今度対面で会う時には、勝手ながら、お互いの距離が近くなっているような気がして楽しみでならない。


頂いたメッセージの多くは、有難いことにあの時わたしをどう見てくれていたかも教えてくれた。周りにいる人達が、実は同じ様な経験の持ち主だということにも気付くことができた。この小説を書かなければ、なかなか知る機会は得られなかったと思う。

実際に病気の子どもがいる親達や医療福祉関係の方々からも毎回貴重なコメントを頂いた。今を生きて闘っている人たちの励みになれば嬉しい。

読んで頂いた方々と、この小説で取りあげたテーマを基にいくつかの対談もさせて頂いた。


久しぶりに連絡をくれた人たちがいたのも、また嬉しい驚きだった。人それぞれ誰の人生にも素敵なストーリーがある。そんな人のストーリーを聴くのが、わたしは好きだ。近況報告から悩み相談まで、小説を通してまた色んな人たちと繋がっていける様な気がする。

出版&映画化を目指す挑戦はまだまだスタートしたばかり。これからも多くの人との出会いを楽しみながら、一歩一歩進んでいきたいと思う。
そして、今後も世界一周の小説「世界教室」や他のテーマも書いていきたい。

          *


20歳まで生きられないと宣告された兄は、多くの人に愛されながら24歳までの生涯を精一杯生き抜いた。それでも彼はもっともっと生きたかったと思う。

今の医療技術でも尚、何百万人もの人達が原因不明の病で苦しんでいる。命ある限り、希望をもって一日一日を精一杯生きて欲しい。どんなに短い命でも、太く貪欲に生きて欲しい。そして、その家族の献身的なサポートには心から敬意をお伝えしたい。

この世に生きたいと願う沢山の命が救われます様に。

最後までお読み頂きありがとうございます。よろしければ⭐️やフォロー頂けると嬉しいです。感想やメッセージなどもお気軽にお寄せください☺︎

ストーリーをお読みいただき、ありがとうございます。ご覧いただいているサイト「STORYS.JP」は、誰もが自分らしいストーリーを歩めるきっかけ作りを目指しています。もし今のあなたが人生でうまくいかないことがあれば、STORYS.JP編集部に相談してみませんか? 次のバナーから人生相談を無料でお申し込みいただけます。

著者のSatoko Kotsuchiさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。