医者になれなきゃ死んだ方が良いと本気で思っていた高校時代のお話

◆落ちこぼれだった高校時代

高校時代、私はおちこぼれでした。どれくらいおちこぼれだったかと言うと、全国模試で数学の偏差値が38、おまけに足首を捻挫しているのがクセになっているので運動もまともにできない、彼女はいない、青春の思い出はゲーセンでのメダルゲームだけという素晴らしい灰色オレンジ・デイズを送っていたわけです。
とはいえ、最初から落ちこぼれだったわけではありません。高校受験をしていた時は第一志望にこそ落ちてしまいましたが、学力は受験期の貯金があったので入学当初は学年でもトップの成績でした(というか、滑り止めの高校のレベルが低すぎたw)。三流高校とは言え一応学年トップ、バスケ部で新入生で一番の俊足を誇り、おまけに文化祭実行委員とバンドでボーカルまでやっていました。必然的に、当時はモテました。あえて謙遜しませんが、人生で最もモテた時期だったと思います。他のクラスの教室に入って女の子にキャーキャー騒がれたのは、おそらく過去にもこの先にもないでしょう(笑)
しかし、バスケ部で捻挫をしてしまい、そこから全ての高校ライフが変わってしまいました。運動ができなくなったことで自暴自棄になり、全てのモチベーションが下がってしまいました。勉強も手に付かない、彼女にはふられる、バンドは解散(というか、追い出されました)、文化祭実行委員では委員の中の政治に負け、窓際族においやられていました。
当時、高校二年生。子供ながらに『ああ、自分って本当に価値がないんだなぁ』と本気で思っていました。とりたてて何のとりえもなく、平均以下でこのまま人生過ごしていくんだと全てを諦めてしまっていました。今思うとそれくらい、私にとってバスケットボールができないということは辛かったのです。私の青春はすべて、吐きそうになりながらも駆け抜けたバスケットボールと一緒にあったのです。私の青春は中心にある大きな歯車が欠けてしまったため、全てが機能しなくなってしまいました。
何もかも無気力になり、毎日ゲーセンにいりびたる中で、自分の中のエネルギーがくすぶり続けていました。いつも何か変わるきっかけが欲しかった。何かがあれば、またバスケットボールと同じくらい熱くなれるかもしれない。自分はこんなもんじゃないはずだという思いだけがから回っていました。何かが自分の人生を変えてくれる、そんなサインをただひたすら待っていました。
そんな中、ふと思い出すことがありました。実は私には、小さい頃からの夢がありまして、それが医者になることでした。しかし、数学の偏差値が38になってしまっていた私にとって、医学部に入学するということはとてつもなく高いハードルに見えました。学力もなけりゃ努力もできない、おまけに才能もない。こんな状況だったので、半ば諦めてしまっていました。心のどこかで、自分には無理だろうと思うようになっていました。
そんな日々が変わったのが、身近な女性の死でした。その人の死に対して、自分は何もできませんでした。病死でした。無力感に襲われ、無気力な自分がさらに無気力になり、しばらく学校にすら行きませんでした。毎日悲しくてどうしようもなかった。行き場のない感情だけがくすぶって、どうしたら良いのか当時の私には分かりませんでした。
そしてある日、いてもたってもいられなくなり、突然猛勉強を始めました。今思うと、悲しみやフラストレーションというマイナスのエネルギーが鬱屈していて、とにかく発散せずにはいられなかったのでしょう。とにかく何かにエネルギーをぶつけないといけないような気がしたんです。それからというもの、人生でかつてないほど猛烈に勉強しはじめました。高校2年の冬でした。
それから約半年、昔から得意だった英語だけは順調に成績が伸び(むしろ英語が好きだったので英語しか勉強してませんでしたが)、ひょんなことからセンター試験模試で英語満点を獲得、おちこぼれ高校生が一気に学年でも話題の人物になりました。というのも、私のいた高校は決して学力の高い学校ではなかったので、模試でめぼしい結果を出せれば誰でも有名人になれるくらいだっただけなのですが...
しかし、苦手な数学は相変わらず偏差値50以下、トータルの学力で医学部合格には程遠く、当然の結果として浪人することになりました。しかし、私には希望が満ちていました。なぜなら、人生に目標ができたから。医学部に入るという明確な目標ができてから、私の人生は少しずつ正常に歯車が噛み合ってきたように感じました。

◆1浪目の失敗と挫折

浪人時代を駿台予備校の市ヶ谷校舎で過ごすことを決意しました。市ヶ谷校舎は医学部専門校舎ということもあり、医学部受験で素晴らしい実績のあるところでした。生徒数も1000人ほどいる、いわゆる"マンモス予備校"です。私は期待に胸を躍らせて市ヶ谷校舎の門を叩きました。
しかし、待っていたのは思っていたのと違う浪人生活でした。苦手だった数学と物理をやるものの、自分は集団授業のスタイルは苦手だということを痛感し、思うように結果は伸びませんでした。というのも、レベル別に一応クラスは分けられているものの、英数国の総合点で判断されるので私のような英語は超得意だけど数学は絶望的、という生徒は下手をしたら上のクラスに入れてしまうんです。それが全ての失敗の元凶で、私は当然のごとく落ちこぼれました。
クラスにいても周りは自分よりも頭の良い連中ばかり。自分がとんでもなく才能のない、どうしようもないグズのように思えました。英語の授業は毎回余裕でしたが、数学や物理、化学の授業はいつも苦痛でしかたがなく、いつの間にか授業に出席しなくなっていきました。
結局、最後まで頑張ったものの理系科目の基礎学力不足のためセンター試験で失敗、国立医学部受験は絶望的になりました。
それからというもの、私は引きこもりました。悔しいやら情けないやらで、毎日ドラクエと漫画喫茶マンボーに通う毎日。人生で初めて本気で死にたくなりました。山手線のホームから本気で飛び降りようと考えたのは生まれて初めてでした。あれって本当に冷静じゃなくて、後先考えず飛び込みたくなる心境ってあるんだなぁと今更ながら振り返ってぞっとします…
この時期の生活リズムは、
6:00就寝→13:00起床、ゲーム開始→17:00漫画喫茶へ行く→23:00帰宅→ゲーム開始→朝になる→最初から繰り返し
これを一ヶ月ほど繰り返してました。人生で最も不毛な時間であり、しかし今思うと必要な、無駄な時間でした。廃人生活を繰り返していくうちに、やはりどうしても医学部に入りたい、もう一回チャレンジしたいという気力が戻ってきました。そして両親の反対を押し切り、2浪目に入ることを決意しました。

◆2浪目へ突入、3度目の医学部への挑戦

そして、2浪目は徹底的に数学と物理をやることを決意しました。2浪目は1浪目の失敗から学び、独学できる塾を探すことにしました。自宅では全く勉強できない人間なので、自習室だけ使えて授業に出る必要のない塾を選ぼうと決意。そして大宮予備校という予備校の特待生制度を利用し、幸いなことに1郎目の学力の貯金があったこともあり、特待生として無料で予備校に通うことができるようになりました(というか、今思い返すと試験が簡単すぎただろうと思いますw)
2浪目は朝6:00〜夜22:00まで勉強。この時私の頭にあったのは、
『ここで結果を出せなきゃ、一生ゴミのような人生のままだ』
『今勝たなきゃ、一生負け続けるんだ』
『もう高校2年の時のような無気力な毎日なんてまっぴらだ』
これだけを考え、とにかく勉強しまくりました。基本的に授業は取らず、自習室でもそもそ勉強し続けました。ご飯を食べながら勉強し、友達を一切作らず誰ともしゃべらず、一心不乱に勉強しました。
今ここで頑張らないと、たぶん一生頑張れない人生になる。根拠はありませんが、そんな気がしたんです。とにかく必死に、鬼の形相で勉強していたと思います。
この勉強スタイルが性にあっていたのか、夏の模試では東大理Ⅲ以外はだいたいA判定が出るようになりました。順調に学力も伸び、これはいけるだろうと予備校の先生にも言われました。
そして迎えたセンター試験では2年連続失敗の雪辱をはらすべく対策し、結果として93%と医学部受験生としてはまずまずの成果を残すことができました。昔から志望していた千葉大医学部ではなく横浜市立大学医学部を受けることに決定、そこからはひたすら過去問を解き続けていました。
合格すると周りの人にも思われていたし、自分も合格を疑いませんでした。しかし運の悪いことに、私が受験した年から数学の問題が激しく難化し、生来の数学センスのなさを露呈してしまいました。
数学の試験が終わった後はまさに茫然自失、何が起きたのか現実を受け止めることができませんでした。英語など他の教科で若干巻き返すものの、合格には至らず。結局、3度目の医学部受験も失敗で終わりました。
悔しかった。
悲しかった。
辛かった。
死にたいと心から思った。
この時ほど、神様を恨んだことはありません。私は経済的な理由から、私立の医学部には入学できませんでした。そのことで両親を恨んだこともありました。自分の数学センスのなさを呪いました。いや、これまでの人生全てを捨て去りたかった。私の頭にあったのは、『3回もやったのに失敗したクズ野郎な自分』という劣等感でした。
そして、当時2年ほど付き合っていた恋人と別れることになりました。その元恋人は1浪目の時に出会い、ずっと交際していました。彼女は私と違って才能があったので、1浪で国立医学部に合格、私の医学部合格をずっと応援してくれていました。しかし、当時の私にはプライドやメンツが全てでした。彼女の優しさを受け入れられず、一方的に別れを切り出しました。この時のことは、今までの人生の中での最大の後悔の1つです。別れたことに未練があるということではなく、なぜ自分勝手でひとりよがりになり、周りの人の優しさと向き合えなかったのか、ということにです。当時の私には、目の前の失敗で全ての思考が奪われてしまっていました。浪人時代は友達がいなかったので、本当の意味で1人っきりになりました。
全てを失ったと思いました。夢は途絶え、恋人と友人を失いました。
しかし、こんな私をいつでも暖かく受け入れてくれたのは、家族でした。これだけやって失敗した私に、
『お前はよく頑張った。本当にえらい!』
と言い続けてくれたのは、両親と姉だけでした。周りの友人は私が失敗すると同時に離れていきました。それが当然だと思ってました。しかし、家族は私の挑戦をそれでも価値があったと褒めてくれました。よく頑張ったと、お前を誇りに思うと、言ってくれました。
そして少しずつ少しずつ、悲しみや悔しさと同時に、2年間勉強し続けたという矜持と達成感を持てるようになりました。頑張った自分を、少しだけ認めてあげてもいいのかもしれない。そう思えるようになりました。
そして、いよいよ3浪するか滑り止めの大学に入るか選ぶ時期になり、私は浪人をしないで、私立文系の大学に入ることに決めました。医者という夢に未練がなかったわけではないのですが、むしろ未練タラタラでしたが、もう自分の120%の努力をしたと思ったので、これでダメなら神様が行くなと言っているんだ、と思うことにしました。自分には医者は向いてなかったのだと、新しい道で頑張ろうと思うようになりました。
もともと英語が好きだったので、医学を学べないなら英語を極めようと決意し、英語教育が日本で最も充実している国際基督教大学に入学することにしました(国際基督教大学はセンター試験利用入試で合格してました)

◆3度の失敗から見えたこと

結果として、私は医学部受験を失敗したまま終えました。当時はそれがどうしても悔しくてたまらず、大学に入ってからも何度か医学部へ再チャレンジすることを真剣に検討したくらいです。しかし、今こうやって振り返ってみて思うことがあります。
それは、『人生にムダなことなんてない』ということです。医学部には入ることはできませんでしたが、私には得たものがたくさんありました。自分はここまで頑張ることができるんだという自信。情熱を持って努力することの尊さ。そして、夢を追い続ける冒険の楽しさを知りました。これは、今でも私のアイデンティティを形成したと思える貴重な経験です。
スティーブ・ジョブズが言っていたように、『点と点がつながる』というやつでしょう。一見無関係なことが、振り返ってみるとつながっている。それが未来の力になることもあるのだと実感しました。とは言え、やはりその渦中にいるときはそうは思えないものなのですけどね。振り返ってみて、改めてムダなことなんてないのだと思いました。
3度の挑戦を通じて、いつの間にか無気力でエネルギーを持て余した青年は、努力することの楽しさを学んだ大人になっていました。そして気付きました。私が本当に求めていたのは、『医者になること』ではなかったのだと。私は、『医者になるために頑張っている自分』を求めていたのだと。自分だって夢に向かって頑張れるのだと、生きている意味があるのだと、そう信じたかっただけだったのです。私はただ、死んだように生きることが怖かったのだと気付きました。
だからこそ、夢に破れた今でも胸を張って言えます。この2年間を、私は誇りに思うと。これから先どんな辛いことが起きようとも、この2年の浪人時代の経験が、私を奮い立たせてくれるだろうと。
誰が何と言おうと、私は夢に向かってケンカを売り続けた浪人時代を誇りに思っています。これから先の私の人生の続きは、これを凌ぐ喜劇にしてやろうと思ってますので、どうぞよろしくお願いします。

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