生まれも育ちも東京生まれな都会っ子が農業に目覚めた瞬間

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事実、戦争が無い世界というのも宿題を早く終わらすために考えたが、上記の理由で却下した。
では、なについて書いたのか。
平和と言っても、漠然とし過ぎているので、「自分にとっての平和とはなにか」について考えた。
少し幼少期に話が戻るが、「食」に対して貪欲だったと先にも書いたと思う。
それは14歳になっても変わらずだった。
1年間の目標で「良く食べる」と書いて、「おまえ、それ以上食べるのかよ・・・」と周りの保護者様から痛い目で見られていた。(母親が)
そんな自分が行き着いた、自分にとっての平和は食べているとき。
食べているときは幸せであった。
幸せと感じられる時のことが平和なのでないかと思った。
私にとっての平和は食べているときだ!!
このとき、何故か連鎖的に
「これは日本に生まれ、日本で育ったから感じられるんだ」
と思ってしまった。
世界に目を向ければ、今日食べるものが無いという状況が当たり前に広がっている。
なのに、自分はなんの苦労も無く、3食食べ、肥えている。
「こんなのおかしいんじゃないか。」
「食が足りていないなら、その背景にある農業の問題を解決すれば良いんじゃないか。」
なんてことを漠然と思った。
これがきっかけだ。
そこから農業を通して国際貢献するのはどうすればいいのかということを調べていくと
東京農業大学の国際農業開発学科というところがヒットした。
「じゃあココ行こう。」
これが東京都目黒区出身の都会っ子が農業を学ぶことになったきっかけである。






蛇足だが、13歳の時に長らく闘病生活を送っていた父親が亡くなった。
日本の最高位と言われる東京大学に入院、手術を繰り返し、私が10歳のときには母親と移植手術までして、生きようとした。
たぶん、私がまだ幼かったからかもしれない。
私を残して死ねなかったのかもしれない。
成長をもっと見ていたかったのかも知れない。
なにせ、父子の時間など皆無に等しかったからね。
ただ、「食」に対する異常な貪欲さは父親に似ているらしい。
食味もそっくりだと、いつも母親から聞かされる。
つまり、この自分のベースとなっているものは父親が残してくれたものだと、そう信じている。
幼かったということと、野球が忙しかったということを言い訳にしていいのであれば、させて頂くが、私はほとんどお見舞いに行かなかった。
むしろ、病弱だった父親を忌み嫌っていたかもしれない。
いまは後悔しかない。
望むのであれば、これを読んでくれた皆さんが、親に対して後悔を残してほしくないということ。
親孝行してあげて下さい。
父親の死は、私に人生で最も大切なことを身を持って教えてくれたのかもしれません。

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