日本語教師は職業か

1.「日本語教師は職業か」という問い

 日本語教師は職業ではない。生き方だ。

 私の恩師である細川英雄(注1)先生のことばである。日本語教師とは、生計を維持するために従事する仕事ではなく、ことばにより他者と関わりながら生きていくという構えであるというような意味であろう。けだし、名言である。

 さて、このことばには、「一般的には、日本語教師は生計を維持するために従事する仕事だと思われているけど、実は・・・」という含意がある。が、果たして、日本語教師は、一般に思われているように生計を維持するために従事する仕事として成立しているのだろうか。ぶっちゃけ、日本語教師で食えているやつはいるのか。細川先生の名言に比べ、ぐっと卑近な話になりそうだが、以下、「日本語教師は職業か」に関し、論じてみたい。

 この文章を書くにあたり、どのような書き方をしようかと考えた。いろいろ考えた結果、データに基づいて、客観的な事実を述べるのではなく、あくまで私がこれまでに日本語教師として経験したこと、そして、経験から考えたことを主観的に書いていくことにした。

2.私が日本語教師になるまで

 初めに私が日本語教師を志すに至った経緯を書く。

 1994年、大学4年生のとき、私は就職活動を全くしなかった。しなければならないということはわかっていたが、自分が働くということがどういうことなのかがよくわからなかった。その当時、私は次のようなことを考えていた。

例えば、製鉄会社に入って鉄を作る仕事をするというのはわかる。しかし、実際には、製鉄会社に入ったからといって、鉄を作るわけではないだろう。何かの会社に入って、何かをする。その何かがよくわからない。

もちろんこんなことは、私が単に怠惰だっただけで、よく調べようとすれば、わかったことなのかもしれない。しかし、当時の私には、自分が会社員となって働くということが具体的にイメージできなかった。結局、就職活動らしきことを何もしないまま、大学4年の夏休みを迎え、その後、やや現実逃避気味にインドに行き、帰ってきたら、新卒の求人はほぼ終了していた。

 大学卒業後の1995年9月、これもやや現実逃避気味に中国の上海に留学した。私は中国語をほとんど知らない状態で留学した。留学当初知っていた中国語といえば、冗談のようだが、「ニーハオ」と「シエシエ」だけだった。そんな状態だったので、中国語の授業が始まった頃は、先生が言っていることが全くわからなかった。先生はそんな私を心配して、何度も何度も「わかりますか」ときいてくれたが、私にはその「わかりますか」もわからず、ただ空しく微笑むよりほかなかった。

先生
古屋,你听得懂吗?
・・・(微笑)

 先生方は皆とてもいい方だったが、わかっていない私に配慮して授業を展開することはほとんどなかった。今にして思えば、当時、外国人に対する中国語教育の歴史がまだ浅く、方法なども確立していなかったため、配慮しようにもできなかったのだろう。文法などは、普通に文法用語(例えば、副詞とか連体修飾とか)を使って(もちろん中国語で)説明するので、皆目わからなかった。私が授業を理解する手がかりは、とりあえず教科書しかなかったので、教科書に出ている単語は覚えるようにした。文法的にわからないところがあれば、日本の辞書と文法書で理解した。また、発音は教えてもらってもどうにもわからなかったので、同じ日本人留学生で中国語の専門学校を出ている人に習った。そして、授業中は、わからなくても、とにかく先生の話を集中して聞くようにした。そして、先生がよく言うことば(例えば、「何ページを開いてください」とか「読んでください」などの指示、「だから~」「しかし~」などの接続詞等)をカタカナでメモしておき、そのことばを授業後、先生に漢字で書いてもらい、辞書で調べて意味を確認するということを繰り返した。

 そんなことをしているうちに、3か月ぐらいすると、先生が言っていることが大体わかるようになってきた。また、流暢ではなかったが、とりあえず自分が言いたいことは、何となく表現できるようになった。私はそのようにして中国語を習得していったので、先生に中国語を習ったという感じはあまりない。私にとって教室は、中国語を使って何らかの活動が行われていればそれでよく、正直に言って、授業の内容はどうでもよかった。2年間、中国語の授業を受けていて、今でもよく覚えているのは、ある先生が話してくれた文革時代の苦労話で、文法のことなど全く覚えていない。私はとにかく先生が、そしてクラスメイトが話していることをわかりたかった。だから、じっと人の話を聞いていた。人の話がわかるようになったら、今度はそれに対して、自分でも話したいと思うようになった。このように私にとって中国語を学ぶことは、非常に個人的な作業であり、個人的な経験だった。

 1997年6月に留学を終え、その後約4か月にわたり、アジア諸国を旅行した。全て列車かバスで、中国、モンゴル、パキスタン、インド、イラン、トルコ、ギリシアと巡った。最後は、ギリシアのアテネから香港に飛び、いったん上海に戻った後、1997年11月に船で大阪港に帰着した。西へ西へと移動しながら、自分の中では「この旅行は、東、つまり、日本という現実に帰還するための過程だ」と思っていた。だから、異国を巡りながらも、心の中では日本に帰ったら何をするかをずっと考えていた。そうして、日本語教師を目指すという決意を徐々に固めていった。日本語教師を目指そうと思うようになったきっかけは、留学中に留学先の大学で日本語の授業を見たことだった。が、やはり自分が曲がりなりにも外国語を習得したという経験がその決意に大きく影響していたように思う。

3.私の日本語教師経験

3-1 日本語学校の日本語教師

 帰国後、私は1998年4月から約1年間、日本語教師養成講座を受講した。そして、1999年4月に東京都内にある某日本語学校に非常勤講師として採用された。当時は、日本語学校に留学する学生数が低迷していた時期の最後のほうであったため、日本語教師の求人があまりなかった。少ない求人に片っ端から応募したものの、養成講座を終えたばかりの未経験者であったため、なかなか採用されなかった。だから、採用されただけでうれしかった。

 コマ給は、1コマ(45分)1,500円だった。(どこの日本語学校でも、1コマ1,500~2,000円ぐらいであった。おそらくこれは現在でもあまり変わらない。)一人の教師が同じクラスを1日4コマ担当するため、感覚的には、1回授業を担当すると、6,000円もらえるという感じだった。授業を行っているのは3時間だが、教材コピー等の授業前の準備、採点等の授業後の処理、そして、自宅での授業準備と授業時間以外にもかなりの時間を費やしていた。

 非常勤講師を始めた当初は、あまり授業を担当させてもらえず、週2回(8コマ)の担当だった。私は、当時、蒲田の家賃2万3千円のアパートに住んでいた。また、もともとあまりお金を使うほうではなかった。が、それでも生活費に事欠いたため、授業のない日に日雇いをすることで何とかしのいでいた。その後、担当コマ数は、少しずつ増えていった。それでも、日雇いはやめられなかった。

 その年の12月に理事長から「専任にならないか」と誘われた。私は、専任になりさえすれば、一人前の生活ができると思っていたので、二つ返事で誘いに応じた。あとでわかったことだが、私が専任に誘われた背景には、学校の事情があった。その学校は、仲介手数料を払って、韓国の留学エージェントに学生を斡旋してもらっていた。そのため、在籍生のほとんどが韓国人学生だった。ところが、その年、仲介手数料が高騰した。そのため、仲介手数料が払えなくなり、留学エージェントから学生を紹介してもらうのが困難になった。そこで、次年度から中国で学生募集を行うことになった。中国への留学経験があった私は、中国要員として、専任に誘われたのであった。

 2000年1月から専任になった。月給は額面で22万円、手取りで16万5千円ぐらい、ボーナスはなしだった。(というか、これまでボーナスというものをもらったことがない[笑]。)確かに非常勤講師のときに比べ、収入は安定し、日雇いをする必要もなくなった。だが、相変わらず蒲田のアパートに住んでいた。一人前の生活とは、言い難かった。

 専任になった私は、中国人学生関係の事務を任されるようになった。具体的には、ビザ申請に関わる書類の作成や手続きと在学生の管理である。在学生の管理とは、要するにオーバーステイを出さないようにするということである。東京入管には何度となく、足を運んだ。警察にもときどき行った。学校に来なくなった学生のうちを訪ね、登校、あるいは帰国を促したり、いなくなってしまった学生を捜索したりした。時には、捜索している学生がいるという情報を得て、アパートの前で張り込みをしたりもした。

 気がつくと、私はほとんど授業を担当しなくなっていた。今にして思えば、私の給料は、日本語教師としての私に支払われていたわけではなく、対中国人学生担当者としての、より端的に言えば、中小企業の社員としての私に支払われていた。私は日本語教師としての自分を見失いかけていた。

 私は、日本語教師としての自分を見失いつつも、日々の業務をこなしていた。その結果、入管関係の書類の作り方や申請の通し方には習熟していった。

 専任になって3年目になった頃、中国からの学生募集がより一層厳しくなってきた。これまで提携していた留学エージェントから斡旋される学生が少なくなり、このままでは学校の経営が危ういという状況に陥った。そこで、学校の理事(経営者)が北京や大連の留学エージェントを回り、学生を集めることになった。当然のように私も理事に同行し、中国に行くことになった。

 昼間の仕事は、まだ耐えられた。私が耐え難かったのは、夜である。夜は、ほぼ必ず留学エージェントの人と一緒におねえさんがたくさんいるようなお店に行った。(理事の趣味だったのか、あるいは中国でビジネスする上では必要不可欠であったのかはよくわからない。)私はお酒が全く飲めないこともあり、そういう場が非常に苦手であった。また、適切に気遣いをすることもできなかった。私は心底疲れ果て、あらためて自分は何をしているのか、そして、これを続けることにどんな意味があるのかと考え始めた。

これは、日本語教師として生計が立てられるようになるためのステップなのだろうか。このステップを重ねたその先に、日本語教師として生計が立てられるような未来が訪れるのだろうか。

どう考えてもそうではないような気がした。どうすれば日本語教師として生計が立てられるようになるかはよくわからなかった。しかし、とにかくここにいてもどこにも進めないと思った。

 私は日本語学校を辞めることにした。かなり引き留められたが、最終的には辞めることができた。結局、全部で3年3か月勤めたが、最後まで給料が上がることはなかった。勤務最終日に理事から現金で10万円をもらった。もちろん、お金をもらったこと自体はうれしかった。だが、その10万円に給与明細はついていなかった。つまりそれは給料ではなく、「お小遣い」であった。

 さて、話は少しさかのぼる。日本語学校を辞めることを決めた私は、辞めるための理由を探した。もちろん真の理由は、「ここにいてもどこにも進めない」と思ったからだったが、何か説明しやすい表向きの理由が欲しかった。当時は、日本語教育を研究する大学院がぼつぼつでき始めた頃だった。私が勤務していた日本語学校にもそれらの大学院の案内が届いていた。それを見て私は「これを理由にしよう」と決めた。そして、「大学院に進学したいので、辞めます」と理事に伝えた。

 私が大学院に進学することにしたのは、あくまで辞めるための口実であった。しかし、実のところ、もう一つぼんやりとした期待があった。それは、「修士を取ったら、もしかして食えるようになるのでは」という期待であった。単なる期待であって、何の根拠もなかったが。

3-2 大学の日本語教師

 2003年の9月に、私は大学院に進学した。修士課程に在籍して、1年もすると、だんだん「修士を取ったからといって、食えるようにはならない」ということがわかってきた。修士を取得すれば、とりあえず大学で日本語クラスを担当する道は開かれる。しかし、日本語クラスを担当する人のほとんどは、非常勤であり、それだけで生計を立てるのは、難しい。それならば、大学の専任を目指せばいいのか。(修士を取得しただけで、大学の専任職に就けることはほぼない。また、Ph.D+相当な研究業績があっても、なることが難しい狭き門であるが、それはさておき)大学の専任になれば、確かに生計は立てられるであろう。しかし、その給料は、大学教員としての研究・教育成果や様々な事務仕事、あるいは、営業活動等に対し、支払われるのである。日本語教師としての能力なり、成果なりに対し、対価が払われるわけではない。どうすれば、日本語教師を職業にできるのか。私はまたわからなくなってしまった。

 私は、2005年9月に大学院の修士課程を修了した。しかし、当然ながら、修了したからと言って、食えるようになったわけではない。

 当時、修士課程を修了した者は、インターンシッププログラムを受け、合格判定を得ることにより、同大学日本語センターの契約講師になれるということになっていた。私は、大学院修了後、自分のキャリアをどのように形成するかに関し、正直、あまり深く考えていなかった。しかし、大学で日本語を教えれば、何か道が開けるのではないかと考え、とにかくインターンシッププログラムを受け、契約講師になった。

 契約講師のコマ給は、1コマ(90分)4,000円から始まった。私が大学院に通いながら、非常勤講師として勤めていた日本語学校のコマ給が1コマ(45分)1,850円だった。それよりもほんの少しいいという程度のコマ給である。ちなみに、コマ給は、2学期ごとに1,000円ずつ上がり、4年目に7,000円になるということになっていた。ただし、7,000円が最高でそれ以上は上がらない。これは、おそらく契約講師のコマ給を非常勤講師のコマ給を上回らない水準に留めるためである。契約講師には、人件費を削減するための制度という側面があった。しかし、当時の私は、そのような背景を知ることなく(また知ろうとも思わず)、大学で日本語が教えられるということに喜びを感じていた。今となっては、浅はかだったと思うが、自分がステップアップしたような心持であった。

 大学の日本語センターで6コマ、日本語学校で2~4コマ授業を担当した。それで、大体1か月に13~14万円ぐらいの収入だった。休み中は、当然、無給になった。日本語教師で食っているとは言い難い状況に変わりはなかった。

 2008年4月、私は日本語センターの常勤契約講師になった。常勤契約講師とは、常時勤務する契約講師、つまり、会社でいえば社員である。と、今、例えとして「会社でいえば」と書いたが、実は、常勤契約講師は本当に会社員であった。どういうことかを説明する。この年、日本語センターは、プログラムの一部を大学グループに属する株式会社に委託することになった。私がなった常勤契約講師とは、この委託されたプログラムをコーディネートする役職であった。そのため、日本語センターに勤務し、日本語センターが提供するプログラムを運営していながら、大学ではなく、会社に所属しているという複雑な立場だった。

 そのような複雑な立場ではあったものの、私としては、単純に月々決まった給料がもらえることがうれしかった。月給は、額面で28万円ぐらい、ボーナスはなしだった。

 常勤契約講師になって間もなく、会社の担当社員の方から業務に関する説明があった。最後に質疑応答の時間になったとき、誰かが(常勤契約講師は、私も含め6人いた)と尋ねた。

同僚
ところで、任期はあるんでしょうか。

この時点でそういうことを質問しているのもどうかと思うが、私も含め、皆この役職には、当然、任期があると思っていた。

担当社員
いえ、特に任期はありません、希望されるのであれば、何年でもできます。
(え、任期がない、ということは勤めようと思えば、ずっと勤められるってこと。おお、ついにあがった。)

収入も一般的には、十分ではないかもしれないが、私にとっては十分である。ついに日本語教師として食えるようになったと思った。その身分は会社員であったが、私にとっては、食えるようになったということが重要であって、食えるのであれば、その身分が会社員であろうが、教員であろうが、そんなことは問題ではなかった。しかし、それは長くは続かなかった。

 すでに説明したように、常勤契約講師は、日本語センターが大学グループに属する株式会社に委託したプログラムをコーディネートする役職であった。ところが、この業務委託が同一労働同一賃金の観点から見て問題があるということが明らかになった。その結果、業務委託は、1年間で解消され、当該プログラムは、再び日本語センターにより、管理・運営されることになった。業務委託の解消そのものは、適切な措置であったと思う。日本語センターが提供するプログラムは日本語センターによって管理・運営されるのが正常な状態であり、むしろ業務委託している状態が普通ではなかったのである。

 この正常化は、私の状態に変化をもたらした。プログラムが日本語センターによる管理・運営に移行したことにともない、常勤契約講師は、会社員から大学の教員となった。ちなみに月給も、大学の規定にしたがい、5万円ほど上がった。相変わらず、ボーナスはなかったが。しかし、常勤契約講師は、任期付教員だった。任期は最長3年で、再任はなし。つまり、3年後には、確実に職を失う。やっと恒常的、かつ安定的な職を得たかと思ったのもつかの間、私はわずか1年でその職を失うこととなった。

 結局、私は、常勤契約講師(社員)として1年間、常勤インストラクター(教員)として3年間、合計4年間、常勤として日本語センターに勤めた。その4年間で日本語プログラムの立ち上げと運営、留学生のための日本語学習支援室である「わせだ日本語サポート」の立ち上げと運営、日本語センターの紀要の創刊、等々、様々な仕事に携わった。これらは、いずれもそれまでに経験したことがない仕事だった。そして、何もないところにゼロから構築していくような、それゆえ、充実感や達成感のある仕事だった。また、これらの仕事に携わった経験は、私の日本語教育観に大きな影響を与えた。例えば、「わせだ日本語サポート」に携わった経験は、日本語教育実践のフィールドは教室しかないという考え方、つまり、教室中心主義から私を解放した。(ちなみに「わせだ日本語サポート」には、現在も継続的に携わっている。)

 しかし、時は過ぎ、任期は確実に訪れる。2012年3月、私は常勤インストラクターの任期を満了し、定収入のある職を失った。同時に進む方向性も見失った。そして、またしても、どうすれば日本語教師として生計が立てられるようになるのかという問いと向き合わざるを得なくなった。

ここまで来たら・・・
(「ここまで」ってどこまでやねん。)
ここまで来たら、大学の先生を目指そう。

大学の先生になろうと思ったら、Ph.Dが必要となる。そこで、博士課程に進学した。

 大学院に進学してから現在まで、曲がりなりにも、研究活動に携わり、問いを設定したり、探求したりする面白さを知った。今では、自身で探求したいテーマもあるし、どのように探求すればいいかも大体わかっている。日本語教育をめぐる諸問題に関し、議論する楽しさも知った。そのおかげで、日本語教育という営みを多面的に見られるようになった。

 しかし、それでもぬぐい難い違和感はずーっとある。

俺は日本語の先生になりたかっただけなんやけどなあ。大学院とか、研究とか、そういうのどこの国の話やねんって感じやってんけどなあ。

4.日本語教師で生計を立てるには

 さて、ここまで、私が日本語教師として経験したこと、そして、経験から考えたことを可能な限り正直に描いてきた。ここで、最初に掲げた問いである日本語教師は、一般に思われているように生計を維持するために従事する仕事として成立しているのか(ぶっちゃけ、日本語教師で食えているやつはいるのか)に関し、あらためて考えてみたいと思う。

 私は、日本語教師として恒常的に定収入を得られるようにはなれないまま、現在に至っている。このような自身が経てきたプロセスから私は上記の問いに関し、現在、次のように考えている。

 日本語教師には(割と簡単に)なれるが、日本語教師で生計を立てることは難しい。
 (というか、ほぼ不可能)

 一般に技術系の職業は、必要な資格を取得し、下積みを重ねた先にその技術によって生計が立てられるようになるという段階が訪れる。(例えば、バス・タクシーの運転手は、必要な運転免許を取得し、運転という技術により生計を立てている。)ところが、日本語教師の場合、必要な資格を取得し、いくら下積みを重ねたところでその技術によって生計が立てられるようになるという段階は訪れない。仮に、ある技術を提供することにより、対価を得、その対価により生計を立てられるような営みを職業であるとするならば、日本語教師は職業ではない。日本語教師になるというのは、職業を選択しているようで、その実、職業を選択しているのではない(結構、衝撃的なことに)。ゆえに、日本語教師になろうとする者は、日本語教師として研鑽することとは別にどうやって生計を立てるかを考えなければならない。

 どうやって生計を立てるかに関しては、次のようないくつかの方法が考えられる。

1)日本語教育に比較的近い仕事で生計を立てる。
 例:大学、専門学校、日本語学校等で専任になる。
 ←私の場合は、この路線で行くつもりです。

2)日本語教育とは全然関係ない仕事で生計を立てる。
 例:以前、看護師をしながら、日本語教師をしているという方に出会ったことがあります。

3)生計を立てるのは誰か(親なり、配偶者なり)に任せる。

 が、どうやって生計を立てたとしても、自身を日本語教師としてアイデンティファイしていた場合、この状態はなかなかきつい。なぜなら、日本語教師が永遠に本業にはなり得ないことに感づきつつも、自身を日本語教師としてアイデンティファイし続けなければならないからである。職業として日本語教師を選択した(と思ってしまった)人は、このような無限の苦しみを不可避的に強いられることになる。

上述した意見には、次のような反論もあるかもしれない。

1)日本語教師に限ったことではない

 本業になり得ない苦しみを抱えているのは、日本語教師だけではないという意見である。例えば、歌手、バイオリニスト、作家、漫画家、アロマテラピスト、アニメーター等も同じような苦しみを抱えているのではないか。

2)好きでやっていることなのだから

 そもそも日本語教師は、本人が好きでやっていることなのだから、たとえ永遠に本業になり得ないとしても、日本語教師をやることにより喜びが得られるのであれば、それでいいのではないか。

 1)のような意見に関し、私は次のように考える。確かに日本語教師以外にも本業になり得ない苦しみを抱えざるを得ない多くの職業(と思われている営み)がある。しかし、それらの職業と日本語教師で大きく異なる点がある。それらの職業においては、たとえ0%に近い可能性であっても、本業にするに至る道筋が見えている。例えば、漫画家であれば、アシスタントをしながら、賞への応募や持込を繰り返し、プロデビューを目指すという道筋がある。そして、そういう道筋が見えているからこそ、いくら賞への応募や持込を繰り返しても、デビューできない場合は、あきらめるという選択もできる。一方、日本語教師には、そういった本業にするに至る道筋が見えない。そのため、何をすればいいのか、何を目指せばいいのかがわからない。もちろん0%に近い可能性にかけて、研鑽を積むのは、非常に大変なことである。しかし、何を目指しているかがわからない状態で、研鑽を積むのはよりつらいのではないか。

 また2)のような意見に関し、私は次のように考える。好きなことをやっているのだから、貧しくても仕方がないという論理は、搾取の温床になる。待遇が悪かろうと、労働条件が過酷だろうと、本人が「好きでやっているんだから」と勝手に正当化してくれる。これほど便利な労働力はない。(詳しくは知らないが、1)で例に挙げたアニメーターが働くアニメ業界などは、各アニメーターの「好き」を利用し、搾取することで成り立っているのではないか。)もちろん、好きなことだけやって生計を立てている人は少ない。しかし、だからといって、好きなことをやっているのだから、貧しくても仕方がないと自虐的になる必要は全くない。まず、自分は何が嫌で何ならあまりストレスなくできるのかを考える必要がある。その上で、嫌ではない何かをやりつつ、生計が立てられたほうがいい。

5.職業としての日本語教師

 最後に、これまで書いてきた内容を踏まえ、職業としての日本語教師というテーマに関し、次の三つの観点で論じることで本文のまとめとしたい。

1)日本語教師になるとはどういうことか

2)日本語教師はどうすれば苦しみから逃れられるか

3)職業としての日本語教師とは何か

1)日本語教師になるとはどういうことか

 現状、日本語教師には、モデルとなるキャリアプランが存在しない。そのため、個々の日本語教師は、どうやって生計を立てるかも含め、自分のキャリアプランを自分で描かなければならない。それは、自身の未来像がイメージしにくいという意味で苦しみである。

2)日本語教師はどうすれば苦しみから逃れられるか

(1)キャリアプランの共有

 モデルとなるキャリアプランが存在しない以上、個々の日本語教師のキャリアプランをケースとして共有することが重要になる。キャリアプランの多様なケースを知ることができれば、その中から自分に最も合いそうなケースを参考に自身のキャリアプランを描くことができる。そのためには、お互いのキャリアプランを共有する場、およびシステムが必要である。具体的には、次のような方法が考えられる。

・日本語教師としてのキャリアを語り合う場を創る。

・個々の日本語教師に自身のキャリアを語ってもらう。
 (本人の同意を得た上で)語りをデータ化し、保存、公開する。

(2)日本語教師の労働条件を改善する運動の推進

 (1)は、とりあえず、現状を受け入れた上で現状の中で日本語教師としてどのようにしのいでいくかを共有しようとする方向性である。一方、日本語教師は、生業とするにはあまりにも貧弱な労働条件のもとに働いている。(2)は、そうした現状を変えるための運動を進めるという方向性である。こちらに関しては、今のところ、具体的な方法はわからない。しかし、例えば、自分を安売りして、不当に安い賃金、および劣悪な条件では働かないようにしたり、労働条件に関する情報を交換したりすることも、運動の一つのあり方ではないかと思う。

3)職業としての日本語教師とは何か

 (1)で述べたように、日本語教師に確立されたキャリアプランは存在しない。そして、それは確かに苦しみである。しかし、私は、批判を覚悟の上で、その苦しみを自身の選んだ職業を自分で好きなようにデザインできる自由であると肯定的に捉えたい。

 何の因果か、私はあまり深く考えず、日本語教師を選んだ。私は、日本語教師の経験をとおし、人にとってのことばやコミュニケーションの意味について、考えざるを得なくなった。どうせモデルとなるキャリアプランのない職業ならば、私は人にとってのことばやコミュニケーションの意味を考え続け、考えたことを一種の教育実践として実現することを私の職業としたいと思う。

6.終わりのない問いとしての「日本語教師は職業か」

 私は、日本語教師になって以来、「職業としての日本語教師」について、ずっと考えてきた。だから、今回、自分が考えてきたプロセスを書き表せたことに満足している。書き表すことは、日本語教師になってから現在までの自身の振り返りとなり、同時に自身の今後を考える機会ともなった。

 このように本文は、私個人にとって非常に意義深い営みとなったが、読者(注2)にとってもいろいろなことを考えさせる内容であったらしく、私の予想以上に読者から様々な反応があった。読者からの反応は、大きく次の2種類に分けられる。

 一つは、次のような「好きで日本語教師をやっているということを咎めることは誰にもできない」という反応である。

「どのような営みを仕事とするか」は個人の自由である。日本語教師が職業であろうとなかろうと(つまり、社会的、経済的に成り立っていようがいまいが)日本語教師を仕事とすることを咎めることは誰にもできないのではないか。

確かに好きでやっていることを咎めることは、誰にもできない。ただ、好きでやっていること=日本語教師が、現状、職業として成立していないということは、知らなければならないし、これから日本語教師になろうと考えている人には、はっきり伝える必要がある。今考えれば、私自身は、職業と仕事の区別があまりついていなかった。本文は、そういう愚かな人間が自分にとって仕事/職業とは何かを、いろいろと愚かな経験をしながら考え続けた記録としても読めるかもしれない。

 もう一つは、上述した内容と関連するが、「人にとやかく言う前にお前(古屋)が自分のキャリアパスをよく考えろ」というような反応である。

 これに対しては、「全くそのとおりです」と平伏するほかない。確かに私は、自分がどうなりたいのか、そして、どうすればそうなれるかをもっと真剣に考えるべきだろう。しかし、自身の将来像は一度決めれば、一直線にそれに向かって進んでいくというものでもない。実際、10年前、いや5年前でも、当時、ぼんやりと描いていた将来像と今描いている将来像は異なっている。その変化は、いろいろな人と出会い、予想外の経験をすることによりもたらされる。私は今後も、暫定的な将来像を持ちつつも、偶然の出会いやそれにともなう経験により、将来像を変化させながら、(広い意味での)日本語教師として何とかやっていく。私がどのような人と出会い、何を経験し、どのように将来像を変化させていくかに関しては、また折に触れ、伝えていければと思う。

1 細川英雄氏に関しては、次の「言語文化教育研究所」Webサイト内「主宰・細川英雄の研究活動」< http://www.gbki.org/works.html >を参照。

2 読者とは、本稿の元になった記事が掲載されていたメールマガジン『週刊「日本語教育」批評』< http://www.mag2.com/m/0001573661.html >の読者のことである。

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