追悼文

 この文章は、あえて、構成等を考えず、思いつくままに書きたいと思います。
 いまだにNさんが亡くなったことが実感できません。しかし、Nさんのことを思い出す機会が、以前より増えたように思います。「あのとき、あんなこと言ってたな」とか「こういうとき、なんて言うだろう」とか。
 そして、人が死ぬということについて、以前より考えるようになりました。本当に不思議な感じがするのです。あの日、5/18の朝、いや、講義を終えて倒れたとき、いや、救急車で搬送されているときですら、Nさんは、自分が死ぬとは思っていなかったと思うのです。たぶん、「明日の授業、どうするかな」とか「C(猫)は大丈夫かな」とか、そんな日常のたわいもない心配をしていたと思います。自分の人生が、自分の存在が、あと数日、あと数時間、あと数分で終わるなど、夢にも思っていなかったと思います。でも、Nさんの人生は終わり、存在は骨となりました。
 5/28、僕らは青森に行きました。こんな形で訪ねるとは思わなかった青森へ。Nさんはすでに骨箱になっていました。お通夜のときも、葬儀のときも、正直、僕には、Nさんが亡くなったという実感はありませんでした。しかし、マイクロバスで霊園に向かい、お墓に骨を納めるのを見たとき、つまり、骨になったNさんを見たとき、少しだけNさんが別の存在になってしまったことが実感できました。霊園は、小高い丘にあり、遠くに青森湾が見えました。春には桜が咲くと聞きました。いいところでよかったなあと思いました。
 亡くなってしまってから振り返ると、「ああ、あのとき残された時間はあと少ししかなかったんだ」ということに気づきます。僕がNさんと最も濃密に付き合っていたのは、大学3年の途中からNさんが渡米するまでの1年10ヶ月(1993年9月~1995年6月)とNさんが亡くなる前の8ヶ月(2010年10月~2011年5月)です。その間の15年ほどは、Nさんがアメリカにいたこともあり、それほど頻繁に会っていたわけではありません。
 最後の8ヶ月間、頻繁に会うようになったのは、全く偶然のきっかけによるものです。2010年10月に浜松町のインド料理店にOゼミのメンバーで集まりました。その際、Nさんも久し振りに集まりに参加しました。その帰り道、Nさんが勤務先の大学に行くというので、ちょうど通り道だった僕も同行しました。電車の中で研究法に関し、いろいろと話しました。Nさんの研究室に行ってみると、Nさんが10月から始まる学期に「心理統計法」という授業を担当することがわかりました。僕がだめもとで「Nさん、この授業出てもいいですか」と尋ねると、Nさんは、意外にもあっさり「いいよ」と言ってくれました。翌週から僕は、若い学生たちに混じって、Nさんの講義を受講し始めました。そこで教師としてのNさんを見ることができました。そこには、学習意欲が高いわけでも、理解力が高いわけでもない学生たちに、何とか意欲を持ってもらい、話を理解してもらいたいと奮闘するNさんの姿がありました。Nさんという人は、僕にとっては、ある種先生のような人で、会えばかなりの確率で小言を食らっていました。だから、先生として奮闘する姿は、僕にとってあまり違和感がありませんでした。むしろ、教師という仕事は、Nさんの天職なのかもしれないとすら思いました。
 2010年度後期の講義が終わったあと、2/12にNさんのマンションを訪ねました。ちょうど二人暮らしから一人暮しに変わった頃だったせいか、部屋は何となくガランとしていました。一緒に買い物し、鍋を作って食べ、ゲームのこととか、お笑いのこととか、他愛もない話をして過ごしました。Nさんは、僕にしきりにモンハン(モンスターハンター)を始めるようにすすめ、使わなくなったPSPを僕にくれました。それが、Nさんとゆっくり時間を過ごす最後の機会になりました。僕が忙しさにかまけて、モンハンを始められずにいる間に、Nさんは逝ってしまいました。結局、いまだにモンハンは始めていません。でも、もらったPSPは、期せずして形見になりました。
 2011年度前期も引き続き、Nさんが担当する「心理学研究法」という授業を受講しました。そして、授業後、お互いに都合が合えば、ご飯を食べに行きました。Nさんは若い頃と全く変わらず、ハンバーグとか、つけめんとか、すき焼きとか、肉と炭水化物を好み、野菜をあまり食べず、判で押したようにコーラを飲んでいました。そのときは何とも思いませんでしたが、今思えば、あまり体にいいことではなかったと思います。しかし、そういう偏りや変わらなさもまた、Nさんの魅力でした。最後に講義を受けた5/13。その日僕は、授業の後に用事があったため、Nさんとご飯を食べることができませんでした。外でたばこを吸っているNさんに「今日は帰ります」と声をかけたのが、僕が動くNさんの姿を見た最後になりました。五日後に起こることを知っていれば、そのとき、どんな用事があっても、一緒にご飯を食べたのにと思います。
 5/18の夕方、職場にいた僕に(Nさんと同期の)Mさんからメールが来ました。「Nがくも膜下出血で倒れ、病院に搬送された」と。僕は以前にくも膜下出血で倒れた人を眼前で見たことがありました。そして、そうなった人がほとんど助からないということを知っていました。とにかく、病院へ行きました。幸い、病院は職場に近く、僕はMさんより先に病院につきました。間もなく、Mさんも到着し、一緒に集中治療室に入りました。そして、生命維持装置をつけられたNさんと対面しました。Nさんは眠っていました。が、それは目覚めることのない眠りに見えました。僕はただ呆然としていました。
 その日から5/19、5/20と、僕は仕事のあと、病院に通いました。5/18の深夜から可能な限り、Nさんの知り合いに連絡した結果、病院に人が集まり始めました。大学時代、サンフランシスコ時代、テキサス時代、現在の職場の同僚、そして、Nさんのお兄さんと、いろいろな時代、いろいろな場所でNさんに出会った人たちが、集中治療室の待合室に一同に会しました。Nさんの命がもうあまり長くないことは、皆わかっていました。にもかかわらず、待合室は、暗い雰囲気にはなりませんでした。ゼミの仲間で集まったとき、Nさんがいてもいなくても、Nさんはいつも話題の中心でした。皆がNさんの生活や人生について、聞きたがり、また話したがりました。待合室の雰囲気は、そのときの雰囲気と同じでした。皆がその時代、その場所のNさんのあまりほめられたものではない行状をおもしろおかしく話しました。待合室は、不謹慎にも爆笑の渦に包まれました。文字通り、涙が出るほど、笑いました。5/20の夜、それまで下がり続けていた血圧が急に上がり出すということがありました。医者に聞いても、どうして血圧が上がるのかわからないということでした。あれは、Nさんも話に入りたかったんじゃないかなと思っています。
 5/21の昼過ぎ、Nさんのお兄さんから電話がありました。「いよいよ危ない。もし最後に会いたければ、来たほうがいい」僕はすぐに病院に向かいました。間に合いませんでした。僕が対面したとき、Nさんはすでに生命維持装置を外され、遺体として横たわっていました。それからの一連の流れは、何だか夢の中の出来事のようで、いまだに現実のこととも思えません。遺体は、集中治療室から地下の霊安室に移され、そこで簡単な儀式を済ませてから、荒川区の葬儀社に移送されました。僕とMさんは、都電荒川線に乗り、荒川区役所前に向かいました。電車の中でMさんと手分けをし、携帯メールでいろいろな人にNさんの訃報を知らせました。しかし、自分が書いているメールの内容をちっともリアルに感じませんでした。僕とMさんが葬儀社に着いたとき、Nさんはすでに身を清められ、旅装束になっていました。お兄さんとMさんとその日、偶然見舞いに来ていて立ち会うことになってしまったMさんの友達のKさんと僕で、Nさんをお棺に入れました。その後、僕たちが連絡したこともあり、続々とNさんの知り合いが弔問に訪れ始めました。最初こそ、厳粛な雰囲気でしたが、お別れが済んで、少し話をする段になると、病院の待合室同様、Nさんの不埒な行状の話で盛り上がり、遺体を目の前にして、不謹慎にも爆笑に次ぐ、爆笑の渦が生まれました。確かに不謹慎ではあったと思いますが、いつもそうだったのだから、それはそれでよかったのだと思います。そのときも、何か知らないうちに起き上がって、話に参加してくるような気がしていました。
 本当は、寝ずの番をしたかったのですが、葬儀社の決まりで、22:00には退場しなければなりませんでした。皆、去りがたい様子でしたが、何となく解散しました。その後、納棺したメンバー、お兄さん、Mさん、Kさん、僕で、適当に近所の定食屋に入りました。
 その定食屋は、絵に描いたような場末の定食屋でした。机と椅子が雑然と並び、先に来ていた常連とおぼしきおじさんたちは、臆面もなく、大声で猥談をしていました。何気なく壁を見ると、ゴキブリが這っていました。「ゴ、ゴキブリ」と声を出すと、店のおじさんは、平然とゴキブリをたたき落とし、紙に包み、何事もなかったかのようにゴミ箱に捨てました。そんな定食屋で、アジフライ定食か何かを食べながら、僕らはやっぱりNさんの話をしました。いつもと同じように「あいつ、しょうがねーな」と話し、いつもと同じように爆笑しました。Mさんは、翌日、青森に搬送されるNさんを見送るため、その日、西日暮里に泊まりました。僕は、翌日、学会発表があったため、家に帰りました。「学会発表」。それが何だか遠いことにように思えました。しかし、翌日、僕は特に変わった様子もなく、普段どおりに発表を終えました。
 先にも書いたように、僕が頻繁にNさんと会っていたのは、せいぜい2年半ほどの短い時間です。実は、出会ってから別れるまでの約18年の中で、会っていなかったり、連絡を取っていなかったりした時期のほうがずっと長いのです。そう考えれば、今もしばらく会っていないだけだと考えてもいいように思えて来ます。Nさんは、いつも話題に上る人でした。Nさんがアメリカに行っていたときも、Mさんたちと会って話す話題の大半は、Nさんのことでした。そして、それは今も変わっていないし、これからも変わらないんじゃないかと思います。また、Nさんは、僕自身の中にも確かにいます。僕はときどき「こういう自分にNさんだったらなんていうかな」と考えます。
 僕もそれなりに年を取り、なかなか面と向かって説教されることがなくなりました。しかし、僕の中にいるNさんは「古屋、おめえはよお」とすぐに説教を始めます。僕は正座をして、Nさんの話を聴き、天狗の鼻をへし折られるのです。そして、「Nさんの域に達するには、まだまだやなあ」と反省し、割と謙虚に「頑張らなあかんな」と思うのです。そんなとき、Nさんに確かに支えられている自分に気づきます。死は確かに悲しいことです。しかし、死者であるNさんに確かに支えられている自分に気づくとき、不謹慎な言い方ですが、僕は、生きているか死んでいるかは、あまり大きな問題ではないように思えてくるのです。
 最後に、Nさんに怒られそうなことを書きます。Nさんは、死の直前までずっと変わらない人でした。ある意味、少年のように純粋で単純な正義感や情熱をずっと持ち続けていました。それがNさんの魅力であり、同時にストレスの元にもなっていたように思います。正直、Nさんが話す純粋で単純な正義感や情熱に違和感を覚えることがありました。それは、良くも悪くも、僕も年を取ったということだと思います。僕の中でNさんは、年を取らず、少年のままで逝ってしまったような印象があります。僕はこれからも年を取り続け、変わり続けると思います。しかし、僕の中のNさんは、もう変わることはありません。ずっと純粋で単純な正義感や情熱で僕に説教をしてくれるはずです。その説教が、年を取り、分別がついたつもりで、間違った方向に進んでいる僕をあるべき方向に引き戻してくれます。Nさんは、僕に説教をし、僕は正座をして説教に耳を傾けます。その光景は、僕が死ぬまでずっと続くと思います。

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