スペインのマヨルカ島でエクアドル人と一緒に社会保障施設に入って仕事を探していたところ自由の女神に出会って生きる力をもらったという話
hola! 孫悟空!
昔、旅をしていた頃、スペインのマヨルカ島に行きました。どういう経緯でそこに行ったのかは別の所で書きますが、簡単に言うとカナダ人のアランに薦められたからです。
詳しく聞いてみるとマヨルカにはヨーロッパ中のヨットが集まるヨットハーバーがあり、そこにはヨットの修理や清掃の仕事がたんまりあるとのこと。時給10ドルくらい。ワインは安い。オネェちゃんはキレイ!
早速そのボスの名前や会社の名前、ユースホステルの名前やマネージャーの名前を教えてもらいました。
いろいろありましたがなんとかマヨルカへ
当時金のなかった私はヨーロッパで仕事を探していました。ボルドーでワイン用のぶどうを摘む「フルーツピッキング」の仕事やマルタ島でインドの物産を販売するお手伝いとか。しかし、ことごとく断られ、最後の望みをかけてバルセロナからパルマ・デ・マヨルカ行きの船に乗りました。
その船のデッキで風に吹かれながら不安そうな顔をしていたのでしょう。ふと、痩せて背の低い中南米人に声をかけられたのです。
こんな感じで会話が始まりました。ところが私は余りスペイン語が得意ではなく、というかスペイン滞在1週間程度なので全く喋れません。一方の彼は英語が得意ではなく、というかほとんど英語が通じません。
それでもお互いに「トラバッホ(スペイン語で仕事)」を探していることだけは分かりました。
マヨルカの厳しい現実
マヨルカについてまずはアランから聞いていた宿に向かいました。エクアドル人も不安そうに「付いて行っていいか」と聞くので、
なんて、ドヤ顔で言っていたことでしょう。
パルマ・デ・マヨルカはそれほど大きな街ではありません。特に観光客の集まるような中心部は歩いて回れる広さです。そのため、お目当ての宿はすぐに見つかりました。名前を聞いていたマネージャーにも合うことが出来ました。
しかし、
そこには30人ほどの名前がかかれたレポート用紙のような紙がありました。ちょっと想定していない状況です。月500ドルで泊まれる宿泊施設があるからこそわざわざマヨルカまで来たのです。それなのに。今思い出してもあの時の落ち込みは人生でもベスト5には入るでしょう。どうすんのよ。これから。。。。
気落ちして
とにかくその晩に泊まるところを探さねばなりません。幸い同じタイミングで宿を探していたカナダ人(アランとは別人)とエクアドル人と私の3人で近くの部屋をシェアする事になりました。なんでこんなチームが結成されたのかはあまり良く覚えていませんが、とにかく気落ちした勢いだったのでしょう。
ベッドが2つしかないツインの部屋に素性のしれない3人の男が泊まるということでフロントと若干の交渉はあったようです。よく覚えていませんが、件のカナダ人(アランとは別人)とエクアドル人がおしきり、なんとか入り込むことができました。私はとにかく気落ちしていました。
部屋ではスペイン語の全く話せないカナダ人と英語がほとんど通じないエクアドル人の間で英語・スペイン語ともに心もとない日本人の私が通訳をするという不思議な光景が展開されました。
こんな会話をした以外に何を話したかほとんど覚えていませんが、カナダ人が「何でこんなところで仕事を探しているんだ?」と無垢に質問してきたのは覚えています。
マヨルカの厳しい現実2
翌日、カナダ人(アランとは別人)と別れた私とエクアドル人はヨットハーバーへ向かいましたあ。予定していた宿に泊まれないことは痛手ですが、仕事も決めなければなりません。ひょっとすると仕事の関係から宿泊施設も紹介してもらえるかもしれません。
そんなことを考えながらヨットハーバーに着きました。
痛恨でした。これは痛恨でした。別にカナダ人のアランに全幅の信頼を置いていたわけではないのですが、ここまで空振るとは思いませんでした。エクアドル人がスペイン語でボスと何やら話していたようですが、彼の顔からここでの仕事は望み薄ということが読み取れました。
その後二人で、ヨットハーバーを歩きながらオーナーのいるヨットに声をかけて仕事はないかと聞いて回りましたが仕事は見つかりませんでした。
そして、日が暮れました。
冷たい石の夜
その日は野宿することにしました。公園のベンチで眠るのです。旅の途中で野宿したことは何度かあったのですが、これほど先の見えない野宿は初めてでした。辛かった。
そのとき、中南米の顔つきのカップルが通りかかりました。エクアドル人が話をしたところ二人はペルー人でマヨルカに住んでいるとのこと。そして、仕事を探している人間用に社会保障施設があることを教えてくれました。毎日10時に開所するそうです。
何という助けでしょうか。ちなみに僕は日本人なのだが大丈夫なのか聞くと、多分大丈夫だろいうといいます。ただ、非常に混むところで入所できるのは先着順だから朝早く行ったほうが良いと言われました。
彼らと分かれ、もらったマクドナルドのチーズバーガーを食べながら翌日の出発予定などをエクアドル人と相談しました。なんとかこの糸につかまりたい。頭のなかでいろいろな思いがぐるぐる渦巻いている時、昨日一緒だったカナダ人(アランとは別人)が通りかかりました。今日の次第を話したところ自分のタバコをパックのままくれました。夜は冷えるから、と言いながら。
寝袋にくるまっていましたが、夏冬兼用の寝袋はクッションが薄く、横になると石の上に直に寝ているのと変わりません。そして、夜の石は冷たすぎて眠りにおちることはできませんでした。
社会保障施設にて
朝、早いうちに野宿した公園を出て教わった社会保障施設に向かいました。社会保障施設は街の外れにあるので結構な距離を歩いたと思います。
8時ころに着いたでしょうか。既に玄関前には何人か並んでいます。挨拶をしたり、場所の確認などをして列に並びました。不安でしたね。社会保障施設だって収容人数は限られているだろうし、毎日空きが出るとは思えません。それなのにこれだけ先着がいると私達まで順番が回ってこないかもしれないのです。
10時になりました。
玄関が開いて、所員の人が順番に人を中に誘導します。一人、一人入っていきます。祈るような気持ちで列の前を見ていました。頼む!入れてくれ!!私の番になりました。
なんて会話をしながら、社会保障施設の人はいろいろと聞いてきました。そして、最後にパスポートを確認してから中に入れてくれたのです。私が最後の一人でした。
助かった。
これで今日からベッドで寝られる。シャワーも浴びられる。そして、昼夜の2食もついてくる。ただし、滞在可能なのは7日で、その間に職を見つければ1ヶ月延長できる。見つけないと放逐されるというルールがあった。タイムリミットは1週間。
エクアドル人仕事を見つける
翌日、すこし気分も軽やかにエクアドル人と二人で出発しました。ヨットハーバを周り、長期滞在用の宿泊施設にウェイティングの状況を確認に行き、またヨットハーバーを周るというものです。残念ながら仕事はありませんでした。
昼食の炊き出しランチを受け取ってから職業斡旋所にも行ってみました。しかし、スペイン語の話せない私に出来る仕事はありません。スペイン語が話せて母国では銀行に務めていた(!)というエクアドル人でも仕事はありませんでした。クタクタになって社会保障施設に戻る頃にはふたりとも口を利く気力もなくなっていました。
と、そのとき
工事現場の脇を通っているとエクアドル人が現場監督のようなおっさんと話しを始めました。仕事を探しているということのようです。クタクタになりながらも最後の気力を振り絞って、明るく親しげに話をしています。
そしてとうとう、彼は仕事をゲットしました。土方の仕事ですが明日から働けるということです。
彼は私も一緒に仕事を探していることを説明してくれましたが雇えるのは一人だけだと現場監督は申し訳なさそうに言っていました。エクアドル人も自分一人が仕事を見つけたことで済まなそうな顔をしていました。私は残念ですがどういう反応をしてよいのか分かりませんでした。それほどクタクタだったのです。
マヨルカでの生活
次の日から一人で仕事探しを始めました。朝、身支度を整えると自分の荷物から最低限の必要なものだけ取り、バックパックは厳重に封印してベッドに括りつけます。9時になるとロックアウトといって外に出され16時まで建物に入ることはできません。強制的に職探しをしなければならない仕組みなのです。
私は毎日街の中心まで歩いて行き、そのままヨットハーバーで片っ端から仕事がないか聞いて回ることを日課としました。ポール・アレンの要塞のようなクルーザーを見ながら仕事を探しました。
12時になると社会保障施設とは別の方角にある「炊き出し場」に向かいそこでランチセットをもらいます。パン、バター、ハム、ゆで卵、水のボトルそしてバナナ。こんなものをビニール袋に入れてもらってくるのです。近くの公園で食べました。
午後も同じくヨットハーバーを歩くのですが、気力は長く続きません。中心の広場でベンチに座りながら、自由の女神のふりをする芸人をぼうっと眺めて時間をつぶしました。夕食の時間まで長かった。そして常にお腹をすかせていました。
夕食は炊き出し場で食べます。双子の男性や老人、シエラレオネ人やルーマニア人など多種多様な「求職者」がクタクタになりながら夕食を食べていました。私は翌日の朝食のために少しでも残しておこうとしましたが、あまりに腹が空いていたのでとても足りませんでした。それを見て多くの人がパンをくれました。
気付き、そして放逐
そんなある日、いつもの様に長い午後を広場のベンチで潰していると自由の女神が帰り支度を始めました。ちょうど観光客や通行人が途絶えたタイミングだったので、誰もそれを気にしていません。
彼女は乗っていた台の裏からスーツケースを取り出すとその中に白いコートと頭の月桂冠をしまいました。そして、台の上に鏡を置くと顔のおしろいをきれいに拭き取っていきます。最後に髪型を整え、鏡と台を折りたたんでスーツケースにしまうと街の雑踏にまぎれていきました。
うまいもんだな。。。
というのがその時の感想です。しかし、翌日も同じ光景を目にした時、興味がわきました。彼女はどこに帰るのだろうか。後をつけてみることにしました。彼女は中心街を抜けた先にある古い住宅街に入って行きました。
特に驚くできごとはありません。ただ、彼女は古い住宅街の1軒に入っていっただけです。住んでいるところでしょう。一人で住んでいるのかもしれないし、誰かとシェアしているかもしれません。自由の女神も本業なのか、バイトなのか、分かりません。
ただこの時私の中で何かが弾けました。
自分のできることを、求められているところで、やる。ただそれだけなのになんと偉大なことなのか。自分のように甘い夢をみて、現実は社会保障施設で厄介になりながら炊き出しの食事をあてがわれる生活者となんと違うことか。生きるとはこういうことか、と見せつけられた気がしました。
約束の7日が経ち、私は社会保障施設を出ることになりました。短い間でしたが親しくなった所員のスペイン人や同じ部屋のナニジン(忘れました)、当初行動を共にしたエクアドル人が別れを惜しんでくれました。そして皆私の先行きを心配してくれました。
私はその晩のフェリーでバルセロナに戻るのですが、なんとか生きて旅を続けることができました。その後、紆余曲折はありましたが「自分のできることを、求められているところで、やる」という考え方はいつでも自分の指針となっております。
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