普通の人生

TVBrosの『ネット探偵団』でこのサイトを知りました。
皆さんの投稿を読むと
『ビジネスで成功した!』とか
『元極道との・・・』というパッと見、目を引くような記事が多くあって驚きます。
極道屋さんの話はやっぱり非日常な感じがするのか人気みたいですね。
あいにく自分は身内や知り合いにその手の人が多かったので敢えて

非日常的な感じもしないのでそこを重点的に書くことは避けます。
まぁなんというか平凡な人生です。


なんらかのビジネスで成功してるわけでもないし、
めちゃくちゃモテてもいないし、
まぁそれなりに働いてはきましたが
目立って友人が多いわけでもなく、言ってみれば平凡より若干下、
『下の中』くらいのライフスタイルっていうのがふさわしいかなと思います。

学生生活

まぁ凄く田舎なところで平凡な少年期を過ごし、
中学まではそれなりにゆかいな仲間に恵まれて楽しかったのですが
どういう運命のいたずらか
小学校入学からの9年間、家に帰っての
総勉強時間をひいきめにトータルしてみても3時間弱も勉強してなかったし
もちろん授業もろくすっぽ聞いてなかった自分に奇跡が起きて
英語の長文はスラスラ読めるわ、数学の問題は解けるわで
どういう訳かその高校受験の時期だけ成績が妙に上がってしまい
調子こいて自分のレベルより若干偏差値の高い高校に進学してみたら
案の定周りと打ち解けられず
3年間誰ともお話をすることなく卒業しました。
そんな感じなので確か3年間のうちトータルすると1年分しか登校してない気がします。
大体登校しても途中で仮病で早退するかもしくは5限目くらいから遅れて登校するか
そんな感じ。今考えてもなんで卒業できたのか自分でも不思議です。
校外に学校以外の友人がいるわけでもなく、やってたことはといえば


ダメ元で『ジャニーズ』に履歴書を送ったり
わざわざ上京して『芸能プロダクション(俳優養成所)』のオーディションに行く
とか雲を掴むような訳の分からない行動をして気分を紛らわしていました。
たぶん後者は松田優作の影響です。


関西へ

高校を卒業すると唯一の趣味だったのが『映画鑑賞』という理由だけで関西の
映像系の専門学校に入学。入学して早々に実はデザインの方が勉強したかったのに気づいたのと関西人とのコミニュケーションの取れなさに挫折感を覚え、学校にはほとんど行かなかったです。はたまたこれはどうして卒業出来たのか不思議です。
で、学校行かずに何やってたかといえばたまたま知り合った雑誌のライターさんと遊んだりAV見たりしてたくらいでしょうか。親の仕送りの大半を好きな映画やAVをしこたま見るのに使う。もう典型的なダメ人間です。

チャンスを逃す天才

そんな私ですが何だか変な特技と言いますか全然特技でも何でもないんですが
ピンポイントに『良いお話』が舞い込み、それをいとも簡単に『逃す』ということに
かけては多分秀でているのかもしれません。
例を挙げれば、
たまたま登校した時、CMの授業で教鞭をとっていた先生に見せたアイデアが
気に入られて
「新しいアイデアで15秒のCMを撮ってきて面白かったら
電通関係の制作会社に就職の斡旋をしよう」
という好条件を提示されたのを

「めんどくさい」。
たったそれだけの理由で無下にしたり
知り合いのライターさんが当時私が好きだった映画監督の制作会社とコネがあり
「1本短編を作る」という条件で紹介してもらえるところをやはり
「めんどくさい」ということで逆にお断りしたりといった感じ。

まぁ紹介してくれた人にしてみれば
「せっかくのチャンスをもったいない」という感じのことをことごとくしてたたわけです。
まぁ単純にめんどくさいという訳ではなかったのですが

今になって過去の自分を分析するならば


「変に認められるのが怖かった」

「俺のセンスをイイなんて言う奴は頭がオカしい」
という自信の無さからくる相手への疑いみたいなものが根底にあったのでしょう。

まぁ後から後悔してもしょうがないので別に後悔すらしてないのですが
この「チャンスが来て逃す」ってことが
もしかすると自分の人生のテーマなのかもと思わずにはいられない日々が
この先も続くことになります。


上京


という感じでろくに学校も行かなかったのですが何故だか東京にある写真スタジオの募集がたまたまあって上京することになり、六本木という土地柄か芸能人がやたら来るスタジオでSMAPやらダウンタウンやら好きだった女優やアイドル、女子アナとか見れてミーハーな自分には目の肥やしにはなりました。が見てばっかいるのもつまらんと思い、仕事の片手間に東京NSCを受験してみました。

あそこは大概の人間は入学できるのですが入学資金と授業料が調達できず結局行かなかったのですが行ってたら行ってたで幅が広がって楽しかっただろうなと今振り返ると思います。(ちなみに1000人受験で500人入学、いま活躍してるのはたった3人)

で、結局10ヶ月ほどスタジオで働いたのですがもともと写真に対する情熱もないので飽きてしまい、既に『写真新世紀』で入賞してた同期の子と一緒のタイミングで辞めました。

まぁそのあと彼はいろんな媒体(雑誌、CDジャケットなど)で活躍していくのですが、それとは対照的に自分はマスコミ的な世界から徐々に遠のいていき、すぐあとに入社したチラシ広告の制作会社からのドロップアウトを経験して「サラリーマンは無理」とフリーターへの道を邁進、バイトで稼いだ金をバイト仲間と惜しげもなく飲みに使い、最終的に住んでいたアパートを2件夜逃げし、気がつくとホームレスになっていました。
あっという間に過ぎた21歳の時間。

今でも西村賢太さんの著作を読むと懐かしさを感じます。まさにあんな感じでした。

SOD

そんなホームレスの私は寝床にしていたファミレスで客が置いていったバイト雑誌に
『CDジャケットの制作』
という見出しを発見してその会社を受けてみることにしました。
何故かホームレスのくせに彼女がいた私は彼女から電車代を借りてその会社へ。
渋谷にあったその会社のオフィスに足を踏み入れるとデスクに半裸の男が座っていました。面接に来たことを半裸に伝えると奥からいかにも怪しい風体のおじさんが出てきて

面接が始まりました。
「へぇ、映像の専門学校行ってたの?明日から来て」

2秒くらいで採用が決まりました。

「CDのジャケット制作は・・・」
という質問もできないまま
「これうちの作品、見といて」
とアダルトビデオを3本渡され、ここで初めてここがAVの制作会社だと気づきました。

「SOD ソフトオンデマンド」
今でこそ大手AV会社として名を君臨するSODですがこの頃はまだ

『全裸で集団登山』とか
『地上20mで空中FUCK』
とかやってた時代で
「抜けんのか、それで!」
と思ってる自分の気持ちを察したのか
面接をしてくれたカタカナと漢字の組み合わさった名前の監督は
「うちは抜けるか抜けないかじゃなくて面白いか面白くないかでやってるから」
と妙に納得がいく説明をしてくださいました。
渡された3本のアダルトビデオを手にいつものファミレスへと帰った私は

電話で彼女を呼び出し相談することに。

「なんかね、AVの会社なんだって」
「やめなよ、そんなとこ」

という答えを期待してた私でしたが
あいにくその彼女は性に対してアグレッシブな方で
「面白そうじゃん、やってみなよ」
と無責任にも提案してきました。
しかしAVが好きな割に意外にも保守的な自分は
「親バレ」した時のことなどを思い悩み、
入社を決意するまでに1週間の時間を有しました。やっとの思いでした返事の電話。
しかし掛けた電話の回答は
「一週間も迷う奴いらないとボスが言ってるから今回はなかったことに」
なんだかホッとするやら残念やらで複雑な気持ちになった記憶があります。

後からそのボスが高橋がなりという名で「マネーの虎」に出資者として参加し、
SODが年商60億を稼ぐ会社になったのを知った時は少しだけ損した気持ちになりました。
これもまたチャンスといえばチャンスだったのかもしれません。

都落ち

まぁそんなこんなでSODには入社せず日雇い労働をしながらファミレスで生活していたある日、ひょんなことから彼女とお金絡みで言い争いの喧嘩になり私は訪ねていた彼女の住んでいる団地で彼女のお母さんに「警察呼びますよ」と言われ泣く泣く立ち去り、友人の元に相談に行くことに。
「家がないんだ、貸した金(確か1万円くらい)も返って来やしない」
そんな泣き言に友人は8000円を手渡し
「これで田舎帰れ」と冷たくあしらってくれました。
それが良かったのか悪かったのかは今もわかりません。
とりあえず私は実家へと帰ることにしました。
確かその頃体重は45キロくらいまで痩せこけていました。


引きこもり

で、田舎へと帰った私は親戚の紹介で土木作業の現場で働くことに。
そこで一緒に働いていた子はどうやら京都から来たらしいのですが
18なのに重機は運転するわ、トラックは運転するはでとってもバイタリティのある子で
なんでもここに来る前はバイクで授業中の学校をガラスを割りながら走り回り、気に食わない先生をリンチするという尾崎豊も真っ青なアグレッシブな行動で退学になったそうで。
私の地元に来てからも休日は暴力行動に明け暮れた生活を送り、
僕の地元ではヤンチャで有名だった同級生ですら歳は4つも下なその子に完全にシめられてしまって脅されて恐喝やらなにやらいろいろされていたらしいのですが何故か自分に対しては礼儀正しくものすごくいい子でした。

あとで聞いた話によると私の身内と彼が上納金を納める、納められるの関係だったらしく、あの妙な礼儀正しさもあとから考えると納得できつつも、もしそうじゃなくて赤の他人だったらと考えると薄ら寒くなったのを覚えています。
まぁそんなこんなで何ヶ月か働いているといい感じで筋肉も付き始め、マッチョの仲間入りかなと思っていた頃、休みの日に実家で足を怪我してしまいました。
すぐにその怪我は治ったのですが従来のめんどくさがりが幸いして仕事に行くのが嫌になり、食欲だけは肉体労働時と同じに旺盛だったため、一気に体重が100キロまで増量し、気がついたら中学卒業後に相撲部屋に入ることが決まっていた従兄弟よりも体重が重くなっていました。

最初のうちでこそ人数合わせに呼ばれた合コンなんかにも参加していましたがそのうちあまりの引き立たせ役ぶりに業を煮やし、合コンはおろか外に出ることもなくなっていきました。今考えると一種の醜悪恐怖みたいなもんでしょうか。
たまに遊びに来た友達には被害妄想で
「見下しやがって」と悪態を付き、やがて遊びに来る友達もいなくなって
テレビを見るだけの日々があっという間に3年ほど経過していました。

軟禁生活


そんな状況を知ってか知らずか東京時代に私に8000円を渡して田舎に帰した友人がなんでもアメリカ留学の費用を貯めるために私の実家からほど近い地方都市に出稼ぎに来るから一緒に働けと誘ってくれたことでやっと私の「引きこもりライフ」はどうにか終止符をうつことになりました。
まぁそこでどうにか従来の社交性を取り戻した自分はたくさん友人を作り、休日は飲み屋に繰り出し稼いだ金で酒を煽る生活が始まったのでした。
まぁそんなことをしていたら仕事に身が入るわけもなく派遣会社からクビを言い渡された私は職場の寮から出るべく一緒に辞めた職場の友人と共同で部屋を借りることになりました。無職の状態で職探しをしながら過ごす日々が2週間ほど過ぎた頃、同じマンションの上の階のおっさんに私は呼び止められ
「仕事探してんの?」と聞かれました。
が、しかし野生の勘が働いたのでしょうか、並々ならぬ怪しさを感じて
「結構です」と丁重にお断りしました。
ですが同じ部屋の友人も同じように仕事を探していたので無責任にも
「なんか上の階のおっさんが仕事紹介してくれるって」と
軽い調子で教えてしまったのでした。
そこからがもう地獄。
おっさんの部屋に行った友人がかなりベロンベロンに飲まされて
酔っ払って帰ってきたので
「どうすんの?」
と聞くと
「(おっさんのところで)働く」と言っていたのですが、
その友人が「彼女に相談してくる」と家を出たまま一向に帰ってきません。
で、電話してみると
どうやらその仕事が鳶の仕事と言う事で彼女が心配して首を縦に振らないので
説得しているようでした。
そうこうしているうちに1時間ほど過ぎた頃、マンションのドアを猛烈に長渕剛のような勢いで蹴る音が聞こえて来ました。
「何事か!」とドアを開けるとそこには上の階のおっさんがいました。
悪い予感は的中しました。
「あいつどこ行った!」
「いや、わかんないです」
「殺す!」
よく分かんない論理でおっさんが怒鳴っている中、友人がタイミングよく(悪く?)
帰宅しました。

「すいません、仕事の件はなかったことに・・」

そう友人が言うとおっさんは待ってましたとばかりの勢いで
手に持ったセコいセカンドバックで
友人の頭をパコーンパコーンと鈍い音で殴打しはじめました。

ただ事ではありません。
こんな感じになったのも元は俺のせいかも・・・・
そんな変な責任感で間に割って入り、おっさんを説得しながらおっさんを部屋へと連れ帰ったまでは良かったのですがここから約1ヶ月間私はおっさんの部屋に軟禁されることになりました。

PTSD、そして・・・

それから数日、自分の部屋に私が帰ろうとするとおっさんは
「待て待て、このやろう」
と引き止めて一向に帰してくれません。
帰ったところですぐ下の階なのでまた呼び戻しに来るのが容易に分かり
めんどくささも相まっておっさんが飽きてくれるまで部屋にいることにしました。

おっさんは年の頃なら50近くで見た目は「稲垣潤一」風。
自称元暴力団員。
小指はなく刺青があり、過去に服役していたようで
広島刑務所宛の友人からの手紙を宝物のように持っていました。
もっとおっかないおっさん達を見てきてる自分としては別に怖くはなかったのですが
怖さはもっと深いところにありました。
おっさんはどうやら「統合失調症」の陽性症状が出ているらしいのです。
一日に二度ほど鳴ってない電話に出ては
「何?揉め事か?ワシが行ってやる」
とおっさんは若い衆の揉め事の電話(実際はかかってきてない)が来るたびに
毎回包丁を持って出かけようとするのです。
それを止めるのも大変なのですがもっとタチが悪いのは本人が時々
自分を今だに現役暴力団員だと錯覚する時があるらしく
刺青禁止の銭湯にわざわざ行って番台を脅して入り、
周りの客に刺青を見せびらかしたり、タクシーの運転手に因縁をつけて暴行したりラーメン屋でタダで食わせろと叫んだりとやりたい放題。

それに付き合わされている自分もそのうち
「君とはもうやってられんわ!」といった心境になってきまして
たまらず「部屋帰ります」というと
「わしはガンでもうあと先短いんじゃ、一人にせんといてくれ」
と泣き出して引き止められたり・・・
かと思えば
「逃げたら追い込みかけてお前と家族殺すぞ」と専門用語を駆使して脅されるわで・・・。

ですが、もうほどほど嫌になって
「知るかい!どうにでもなれ」と思って隙を見て自分の部屋に帰ったのですが
しばらくするとおっさんが怒鳴り込んできたのですがそのまま無視して
覗き穴から見ていると
おっさんが手に持ったポリタンクに入った灯油に火をつけようとして
るので慌ててまたおっさんの部屋に戻ったりなんかを繰り返してるうちに
拘禁症状のようなノイローゼになってきた自分は意を決して友人と一緒に
アパートごと引き払い夜逃げすることにしました。

しかし実家に帰ってはみたものの後から後から妙な恐怖感

「下手したらおっさんの妄想が原因で殺されてたかも」
という気持ちが湧き上がってきて私は見事にPTSDを患ってしまい
「クリスマスキャロルが流れる頃には」が流れる頃には
稲垣潤一のせいで今だに恐怖に苛まれています。

そしてまた外の世界に対する恐怖感に苛まれた私は1年ほど引きこもったのでした。





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