アンドロイド・人間・日本語教育・コラボレーション

 実は、「アンドロイドと日本語教育」には、単に「ロボットが好き」という興味本位で参加した。(『PLUTO』 を愛読していたので)しかし、その際に聴いたロボット研究者の石黒浩先生のお話は『PLUTO』以上に刺激的であった。
 石黒先生は、人と関わるロボットの開発に携わっている方である。これまで主に開発されてきた工業用ロボットは、人といっしょに生活するわけではないので、ロボットと人との関わりをあまり考慮する必要がなかった。しかし、人と関わるロボットを開発するには、人が違和感なく接することができるロボットとは、どのようなロボットか、ひいては、人はどのようにして、違和感なく他の人と接しているかを考慮することが必要不可欠になる。この点に関し、石黒先生は、次のように述べている。
人と関わるロボットを作るには、人を知らなければいけないということ。ロボットが人間とうまくやっていくには、人と人がどう関わっているのか、人とは何かを解明することが必要です。(石黒、2011、p.77)
「人と関わるロボットを作る」ことが、「人とは何かを解明する」ことにつながるという理路が私にとっては目からうろこであった。
 「人とは何か」に関する石黒先生のお話の中で、私が最も注目した発言は、心に関する石黒先生のお考えである。石黒先生は、接する人が人間らしいと思えるようなロボットを開発する過程で人間らしさの中核を成すと思われている心に注目する。そして、心に関し、次のような仮説を立てるに至る。
常に心っていうのが、相互作用というか、人との関係の中で表出し続けているようなものだとすれば、常に見えているというほうが、自然な考えですよね。だから、客観的なメカニズムとして心があるわけじゃなくて、相互作用に現れる視覚的な現象として、心とか意識とか感情というものがある。(石黒、2011、p.134)
そして、「人の表現や振る舞いを見て、自分で学習する機能を実装した」「ロボットに人が心を感じるとすれば、心は社会的な関係で作られるという、僕の仮説をできるかもしれない」と述べている。心理学からのアプローチとは全く異なるアプローチからの社会構成主義の実践と言えるであろう。
 以上のように石黒先生は、「人と関わるロボットを作る」ことを通して、「人とは何かを解明する」ことに取り組んでいる。(というか、「人と関わるロボットを作る」過程で「人とは何かを解明」せざるを得なくなったというか。)私がお話を聞いて、興味を持ったのは、「人とは何か」という問いを媒介に石黒先生が様々な専門家とコラボレーションされていることであった。
 石黒先生は、「人と関わるロボットを作る」にあたり、認知心理学、脳科学、哲学といった「何が人を人たらしめているか」を探求する分野の専門家とコラボレーションされている。そして、更に、(今回の「アンドロイドと日本語教育」に参加されていた)劇作家・演出家の平田オリザ先生ともコラボレーションされている。
 平田先生の演出において、感情に関する指示は一切行われない。指示は、目線を何センチずらす、ある単語と次の単語の間をコンマ何秒縮めるといった純粋に技術的なことに限定される。このような演出方法、およびその背景にある人間観がアンドロイドに人間らしい動きをつけるあたり、大いに役立つとのことだった。(このコラボレーションは、アンドロイド演劇として、作品にもなっている。)
 コラボレーションにあたり、大切なこととして、石黒先生は、次の点を挙げられた。
・「人間とは何か」という基本的な問題意識を共有する。
・自分の領域にこだわらない。
・新しいことは、常に境界領域にしかない。
 さて、日本語教育研究の分野においても、最近、他分野の研究者・専門家とのコラボレーションの必要性に関し、議論されている。日本語教育研究と他分野とのコラボレーションに関しては、次のようなことが語られがちである。
日本語教育研究は、研究としてきちんとしていない。きちんとした研究をしなければ、他分野の研究者に認められない(見下される、なめられる)。だから、他分野の研究者とコラボレーションするためには、日本語教育をフィールドとする研究を一般に認められている方法論に則り、行わなければならない。
もちろん、研究を行うにあたり、ある方法論に則りデータを分析することは重要である。しかし、他分野の研究者・専門家とのコラボレーションにおいて重要なのは、おそらく「それ」ではない。真に重要なことは、例えば、「人間とは何か」といった根本的な問いを共有することである。様々な研究者、あるいは(例えば、平田先生のような)専門家がそれぞれの知見や経験知を持ち寄り、根本的な問いに取り組むのが、コラボレーションの本来あるべき姿であろう。しかるに、日本語教育研究において立てられる問いは、あまりに「日本語の教育」に関する問いに限定されている。それでは、他分野の研究者・専門家とのコラボレーションは難しい。なぜなら、あまりに限定的な問いは、他分野の研究者・専門家と共有できないからである。我々がコラボレーションを実現するためには、問いの次数を何段階か上げる必要がある。それは例えば、次のような問いである。
・母語以外のことばを学ぶ(習得する)ことは、人にとってどのような意味があるか。
・日本語を母語とする人と日本語を母語をしない人がどのように共生し、
 どのようなコミュニティを形成するか。
問いの次数を上げていけば、最後はおそらく「人間とは何か」とか「どのような社会(共同体)を創っていくか」という問いに行き着く。そのような問いは、大きすぎて、自身の日々の実践とはまるで関係ないようにも思える。だが、どのような実践も人が人と何かを行う行為のプロセスである以上、その背景には、やはり根本的な問いがあるはずである。そして、根本的な問いを共有してこそ、世の中の謎を解明し、謎を解明することをとおし「よりよい」世の中を創っていくために協働することすなわち、コラボレーションが可能になる。
※「日本語教育とアンドロイド」に関しては、最近、国際交流基金の主催により、
 次のようなイベントが行われた。
 「世界初!アンドロイドと学ぶ日本語会話講座 &アンドロイド演劇『さようなら』ベトナム公演」
【引用文献】
石黒浩・鷲田清一(2011)『生きるってなんやろか―科学者と哲学者が語る、若者のため   のクリティカル「人生」シンキング―』毎日新聞社

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