自由を求めて 「力」編
「力」と言っても、実はそんなに大げさな話じゃない。ここでは「力」に振り回される悲劇から、ふっと自由になれたような、そんな話。
「力」こそ全て
あれは、芥川龍之介の『羅生門』を仕事の一環でやっている読書レポート集づくりのために読むことになったときのことだ。
読んで、まっさきに「暗い」というイメージが思い浮かんだ。そのイメージから、次に思い浮かんだのが中学生の頃のこと。それから、物事をはかる「ものさし」のこと。
芥川龍之介と言えば、『鼻』もそうだ。まず、芥川竜之介に暗いイメージを持っている。彼の作品を初めて読んだのが、学校の国語科の時間に読まされた、この『羅生門』だったような気がする。時代設定、描写背景、登場人物、文語体のかもし出す古臭さなど、どれをとっても「暗い」。何よりも、30代で薬物自殺したという事実と、教科書に載っている彼の写真に笑顔はなく、いっそう「暗い」イメージを強くして記憶に焼きついている。
初めて読まされた時と、仕事の一環とはいえ、自分で読んでみようと決めた今回とでは、やはり感想も違っていた。初めても今回も、「怖い」と感じたのは同じだ。初めての時は、「力」がなければ生き残れないという恐怖と、「力」を行使した後に残る空虚さを恐怖と感じた。
『羅生門』の下人は刀を持ち、腕力もあり、老婆をねじ伏せる。「力」があるから老婆から服を剥ぎ取ることができ、また、自らは無傷でその場を生き延びることが出来た。初めて読んだ中学生の時は、友人や教師、親や警官としょっちゅうケンカになり、もっと「力」があれば相手をねじ伏せられる、とばかり考えていたように思う。同時に、「力」を使えば、形あるモノも、形のないモノも壊れて、それらを目の当たりにする寂しさは何とも言えないことを、中学生の頃に体験したことがある。
「力」を振り回す者、「力」に振り回される者
中学生だった当時、林間学校という学校行事で、同学年の生徒と教師とで学校を離れて数日間、山の麓で過ごしたことがあった。そこでのある夜、友人らと楽しみの為に規則を破り、挙句には教師につかまり、注意を受けるために壁に立たせられた。
何も言わずに下を向いていると突然、殴られ蹴られ、床や壁に叩きつけられた。起き上がると、体育教師が怒りの形相でにらみつけていた。殴ったその教師に、お返しにと向かっていったもんだから、ひどい惨状だった、と思う。
顔から体全体を殴られた後は、ほとんど記憶をなくしていた。覚えていることは、床や自分の手が血に染まっていたことと、その教師の襟首をつかんでいた感触と、遠くの方で誰かに呼ばれたような声だけだった。
意識が戻ったのは、病院のベッドの上だった。顔から足まで包帯だらけで、とにかく状況を把握したいのだが何もしたくない。とにかく空虚な気持ちで横になっていた。鏡に一部だけ映った顔は内出血で紫色に腫れて、急いで包帯を体から剥がし取ってみた。鏡を見ると顔にも体中にも、不気味な紫色の斑点ができていた。
変わり果てたってのは、ああいう姿かもしれない。見たこともない自分の顔や体を見て、ひどく落ち込んだ。その後、その教師や校長が謝罪に訪れたが、病室でひとり過ごした時間は非常に寂しく空しいものだった。その教師よりも「力」があれば、こんな姿にならず空しい思いをすることはなったかもしれない、と当時は思っていた。初めて『羅生門』を読んだのも中学生で、当時の感想と重なっていた。
「力」を制御する「ものさし」
改めて読んだ『羅生門』の感想は、物事をはかる「ものさし」の重要性を改めて認識した点で、中学生当時とは異なる。下人は盗人になるか否かの判断を下す「ものさし」としたのは他人である老婆の言葉だった。
判断を下すには、様々な「ものさし」、価値観がある。友人選びには気楽さ、仕事には創造性、衣服には動きやすさ、道具選びは丈夫さといったこと。善悪や甲乙の判断は曖昧だが…立場や環境、状況による、かな。
しかし重要なことは常に「自分」の経験と直感から「ものさし」を選ぶことだ。これで、結果も過程も全て自分の責任になるからだ。下人のように他人を「ものさし」にすれば、自分で自分のコントロールが不能になる。
自分と関係のない「ものさし」で「力」をつかってはいけない。それは例えば、ルールを守らせることだけを考え、目の前で血を流す人間も見えなくなった体育教師である。また逆に、ルールに反発するためだけに「力」を求めて、病室で絶望していた中学生当時の自分を思い出せば…自分で自分のコントロールが出来ない操縦不能な人間には悲劇しかない。後に残るは空虚のみなのだ。
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