体を使って最も激しく考える方法に出会って気づくまで

後編: アムロ・レイとパルパティーンのような能力を持った俺の先生がいかに俺を教育したのか?
 僕は小学生の頃から、自分がとても優秀な人間だと疑わず、すべての問題を解決したいと思って生きてきた。小さい頃は、政治家になりたかった。
 その一方で、私は、論理に従わない人間が全て悪いと考えて、人間関係で何一つ他人に妥協したことがないので、10年以上いじめられて過ごしたけれども、その時の相手に最高の苦痛を与えて殺さないようにできるだけない期間傷めつけるために、相手を拘束する能力と相手に最大の苦痛を与える能力を求め、最高の苦痛が何であるのか常に探求し続けてきました。
 そのためには、自らの能力を最大限に強化するための最大の努力とは何なのかを探し求めてきた。
 中学高校と剣道をやっていて、勝つのならルール無しの戦場で最強になりたいと思い、いろいろな本を読みあさって、敵を倒すのならば遠隔攻撃できる人間が最強だとおもい、それができると自称している人に大学に入学した時に入門したいと思いましたが、そのうち一番最初に入ったのが新体道で、これがただの遠隔攻撃技術や気配察知技術ではなく、当初の政治家になるという目標と史上最強の敵である中央銀行集団や自分自身と戦う戦場を認識する技術だと気がついて、それにのめり込んでいきました。

 頭で考えて努力をするのではなく、体全体を使ってあらゆる問題を考えることができたのならばいいなぁと思ってはいたが、そんなものが世の中に存在するとは思っていなかったし、それを行う技術は日本が世界の中で異常に特化しているのだということも知らなかった。
 武道 武術と言われる手段であるけれども、道を追求することでも、格闘技術を学ぶことで精神鍛錬をすることが主眼ではない。体の動かし方そのもので自らの哲学を練り上げ、組手をすることで表現し表現を受け入れる方法を学ぶという追求方法である。
 体を動かせば血流が良くなって頭が良くなるとか、その程度の考えで、体を激しく動かす人間はたくさんいるけれども、それじゃあ、人工心臓を二個つけたらパワーアップするんですか?というなんかの怪獣映画みたいな発想になってしまう。そうではなく、体という人間の全存在すべてを使って考えるフレームワークを作り、環境に依存しない能力を開発する方法を求めていた自分は、体によって自分の意識が変えられやすい空っぽの状態を素早く創りだすために、激しくジャンプしたり突いたりするノウハウの集合体が新体道の存在意義の1/3ぐらいで残り1/3がその状態での教育法である。
 こうやって絶対誰にもできない方向かつ、人間が自然にとる態勢に努力していくと、体が自然な状態になり、現状との葛藤を最も効率よく解消しようと自動的に体が働いていくので、問題意識を維持することができれば、葛藤を正面から解決することができる。
  手を伸ばすにもジャンプするにも、自分のわだかまりを捨てなければ伸ばし続けることができないし、そうやったほうが気持ちがいい。わだかまりの方は逆にそれを維持しようとするが、それを論理的に分析してここは維持をしてここは捨てるということをやって、細かく物事を把握するようになり、ただ頑張るのではなく、よりドロドロとした感情や絶対善に近い存在について考える感情をフルに動員して動いていく。体を動かなくしているのは自分の良い気持ちと悪い気持ちなので、それを捨てるか、楽しむのか?ということを常に問われることになる。その問いが自然からダイレクトに行われるように無限の彼方に意識を伸ばし続けるのだ。人間は、わだかまりを問題意識を持つときにだいたい持ってしまう。これは、本当は問題意識だけ持ってわだかまりは持たないほうがいいんだけれども、持ってしまうから、それを分解する必要がある。相手に向かって突いていく時には、遠くを見て力を込めるのではなく、捧げる感じでやると動くとか、そういうように捧げる感じでやると、力を入れてやれば努力していることになると頑なに信じていた自分の価値観を捨てることになる。そういう大事なものを捨てるのか常に問われることによって、自然によって洗練させる哲学がすべての学問を支える基礎になってくる。
 相手をに向けて力を出すときにはより抽象的な概念やより深い深層意識を同時に動かしていくと相手を倒すことができるのだが、意識で頑張れる余地を作るとこの原理原則kら外れた不自然な結果が起きてしまう。頑張ると相手を倒せる。でもそうではない自然な状態にしてから全力で組手をすることによって、そういう領域の上方を扱いかつ相手を倒せるほどに強力に表現することが楽しいと思えるようになってくる。抽象的な部分で集中することになれないから最初は頑張っていないように思えるけれども、そのうち力が出せなかった意識領域にも集中できるようになってくる。
 最初の頃はこんな恥ずかしいことをやって、まったくいみがなかったらどうするんだと思ってやっていたけれども、何故かやっているうちに意味を理解してしまい、体の動きに心の問題を顕在化させて、それを無意識レベルで書き換える最も効果的な方法はこれだと論理的に説明できるのになんでこれをみんなやらないんだと3ヶ月ぐらいで完全に転向していた。とはいっても、高校の頃に本で読んで初めて家でこれをやった時すでにこのポーズを通してて得られる全能感みたいなものを暴走させると天才ばかりが増長して、同しようもない世界が生まれるからそれをどうにかする方法を考えなきゃなあと空恐ろしくなったりもしていた。
 このように稽古していく中で 時間と空間 体と心の問題は完全につながっているということは論理的に説明できるにわかに信じがたい事実だと認識した。そして、自分の葛藤と自ら対峙して、自然な体によって、常識では考えられない能力を獲得するようになってくると、この手法が正しいと思うようになった。いくら論理的な人間でもやっぱり最初は利益がないと信用していかないよなぁと改めて思います。
こうやって 投げらてたりしていくと、気持ちが行動にストレートに出るので、その状態で自分の気持を正直に体に出して、無限の彼方に力を出して努力していくことで、自らの葛藤をすべて宇宙にぶつけている気分になれ、それが最強の相手であり、最も困難な戦場であるということがわかってきた。フラフラになった状態ではすこしでも変なことを考えていると体が動かないし、こういう状態の相手を動かすにはおかしなやり方をすると全く効かない。だから、そういう状態でも効く技を追求することによって、技を出すときに自然な状態で最強の敵にも効くようにしようと研究することで、論理的にどういう状態が自然なのかを自問自答して、どこにでも通用する哲学が練り上げられていくことが、最初の頃からよくわかってとても楽しかった。
 このようにして、体全体 宇宙全体を使って激しく考える方法と出会ったのです。

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アムロ・レイとパルパティーンのような能力を持った俺の先生がいかに俺を教育したのか?

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