病室の千羽鶴は飛ばない


折り紙で千羽の鶴を作っても、病気が治るわけじゃない。ずっとそう思っていた。
そんなある日、患者さんの病室で千羽鶴を見た。小さくて、細やかな、ほんものの千羽鶴だった。
ただの紙だと思っていたくせに、目が離せなくなった。

こんにちは。医学生兼ライターの朽木(@amanojerk)です。
僕はすべからくデモというものが嫌いだ。
みんなで集まって大きな声をだして、それでなにかを成し遂げたような気になって、満足して帰路について、美味しいお酒を飲むのだろうか。
それでなにかが変わったのですか。世界は平和になりましたか。
手段それ自体が目的となるような行為で満足げな顔をしている人間のことは、デモそのものよりも嫌いだ。

参加しただけで自分が何かを考えているような気分になる錯覚。
オリジナルの意見を持つ他の誰かを支持するだけで自分もオリジナルになったような気分になる快感。
なにかを訴えたい人で集団を形成するとき、そこには意識的に自分を勘違いさせたい分子が少なからず混じる。
でも、それが問題視されることは少ない。数は力だから、あるいは、支持される側にとっては支持されることが快感だから。
宗教じみてとても気持ちわるいと僕は思っている。

千羽鶴はどうなんだろう。
デモとどう違うんだろう。
ある程度まとまった数の折り鶴を作っただけで、誰かの無事を祈る気持ちも一緒にゴールを迎えてしまう気がして、だから、僕は千羽鶴が嫌いだった。

それなのに。千羽鶴を眺めていたら涙腺が緩んだ。
骨髄移植をしたけれど、白血病が再発した患者さんだと聞いていたからかもしれない。
どうでもいいはずなのだ、ほんとうは。自分ではない他の誰かが死んでしまうとか、死んでしまうかもしれないとか。それなのに。
折り紙で千羽の鶴を作っても、病気が治るわけじゃない。だけど、それだけでもない気がした。
自分にとって大切なものが不可逆的に損なわれてしまうとしたら。
取り返しのつかないことへの祈りのかたちは人それぞれだし、それを馬鹿にする権利は誰にもないのだ。
デモには一生参加しません。
たくさんの人が集まることで、主張の本体をあいまいにするよりもまず、個人の責任でもって、てめえの主張を世に問うてみろよと思うから。
でも、千羽鶴は折るかもしれません。祈りの形としての千羽鶴は、ただとても綺麗だったから。
それが空を飛ぶことは永遠にないのだとしても。

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