なぜ日本語教師は貧しいのか

 先日(2013/11/10)、下記の勉強会が行われた。
「つながろうねっト主催 第8回日本語教育勉強会」
・テーマ:『なぜ日本語教師は貧しいのか―私たちにできることは何か
・話題提供者:神吉宇一氏(長崎外国語大学)
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 上記の勉強会では、神吉氏から「なぜ日本語教師は貧しいのか」というテーマに関し、概ね次のような話題が提供された。
資本主義経済の下では、「超高付加価値」がある商品(サービス)を提供するかある商品(サービス)を「超大量生産」することによってしか、利益を上げることができない。ところが、言語をコンテンツとし、それを教えるという社会的行為は、専門性が薄い行為であるため、「超高付加価値」がない。一方で、一度にたくさんの顧客を相手にできるだけでもないため、「超大量生産」することもできない。つまり、資本主義経済下において、言語をコンテンツとし、それを教えるという社会的行為は、構造的に利益を上げにくい行為である。したがって、言語をコンテンツとし、それを教えるという社会的行為に従事する者の賃金も構造的に一定以上は上がらないようになっている。それゆえ、日本語教師という仕事でメシを食おうと思ったら、各日本語教師が言語をコンテンツとし、それを教える、つまり、「教室での教授」ではない専門性を志向する必要があるのではないか。
 日本語教師の専門性を考えるにあたっては、次の二つの観点があるのではないかと思う。
1)一人の日本語教師として何を専門性とし、対価を得るか。
 
個人としてどのように働くかという観点である。現状でも、日本語教師の中には、自分としては何を専門性とするかを独自に考え、その答えに基づいて活動されている人もいるはずである。そして、その活動が日本語教師という呼称からイメージされる「教室での教授」とは異なってきているという場合もあるであろう。また、一人で活動することにより被る不利益を回避するため、同じような考えの人と協力して団体(学校、会社、NPO等)を作っているという方もいるかもしれない。
2)日本語教育業界として何を専門性とし、対価を得るか。
 どのように日本語教育業の存続を図るかという観点である。これまでの日本語教育業は、言語知識や教授技術を提供することにより、存続してきた。しかし、資本主義経済の下では、言語知識や教授技術の提供に高い付加価値はつかない。そればかりか、わずかにあると思われていた付加価値すらも実はなかったのかもしれない。(神吉氏:言語をコンテンツとしてそれを教えるという社会的行為自体に、専門性が薄いのではないか)日本語教育業が業として存続するためには言語知識や教授技術の提供に代わる新たな専門性を模索し、確立する必要がある。
 個人的には、1)で述べたような動きを各人がすればいいのではないかと思う。その場合、日本語教師という呼称にこだわる必要もない。より自分/自分たちの活動内容に即した呼称を創ったほうがいいかもしれない。(現在あるどのような業種もはじめはそのようにして始まったのではないか。)ただ、新たな制度の制定を政府・自治体に要求するというような場合は、2)で述べたような動きが必要になる。なぜなら、個人や単独の団体で政府・自治体に圧力をかけることは難しいからである。政府・自治体に圧力をかけるためには、(はったりも含め)数の力が必要になる。
 と、ここまで考えてきて、私は、そもそも日本語教師ということばがあっただけで、日本語教育業界は幻だったのかもしれないと思えてきた。日本語教育業の存在を前提とするのではなく、むしろようやくこれから次のようなステップを地道に踏んでいくしかないのではないだろうか。
(1)個人として何を専門性とし、対価を得るかを考え、
  その答えに基づいて活動する(答えは暫定的であってかまわない)。
(2)必要があれば、考えの近い人とともに団体を創り、活動する。
(3)必要があれば、団体間の連携を図り、○○業界を形成する。
※これは、(3)までのステップを必ず踏まなければならないという意味ではなく、
 あくまで予想される段階を示したまでである。
 「なぜ日本語教師は貧しいのか」
それは、これまで各「日本語教師」が(1)をしてこなかった、つまり「何を専門性とし、対価を得るか」を自分(たち)で考えず、外的な基準に委ねてきた(下請け体質とでもいうか)からなのかもしれない。自分(たち)が何をすることで、この資本主義の世の中でより無理なく存在できるのかを自分(たち)で考えるという、まあ当たり前のといえば当たり前のことから始めるしか、「ビンボー」問題解決の道筋は見えてこない。
 しかし、真に重要かつ、困難なのは、(1)から(2)への過程である。ある「日本語教師」が考える専門性は、その人の日本語教育観に支えられている。(日本語教育観とは「その人が日本語教育を行う上で一番大切だと思っている何か」である。)そのため、団体(組織)を創るためには、その前提として、お互いの日本語教育観を語り、お互いの日本語教育観を知る必要がある。
 日本語教育観は、日本語教育場面によってのみ、形成されるわけではない。ある「日本語教師」の日本語教育観は、すなわち、その人の価値観であり、それは、その人がこれまで積み重ねてきた生活場面やこれから積み重ねていきたいと思う生活場面により、形成される。(生活場面を人生と言い換えてもよい。)だから、お互いの日本語教育観を語り、お互いの日本語教育観を知るためには、次のような自身の現在を自身のこれまでとこれからと関わらせて語るような語り方が必要となる。
・自身がこれまでどのような経験を重ねてきて、
 それらが自身の日本語教育実践にどのようにつながっているか。
・日本語教育実践をとおして、どのような未来を実現しようと思っているか。
このような語り合いをとおし、お互いの考えを知り、場合によっては、お互いの考えをすり合わせたりしながら、団体(組織)を形成していく。つまり、各「日本語教師」が生活場面と教育場面を切り離さないことに留意しつつ、お互いの日本語教育観(価値観)を語り合うことが「ビンボー問題」解決への第一歩となる。ところが、実際には、お互いの日本語教育観(価値観)を語り合うことが難しいという状況がある。ならば、まずは、そのような状況を変えなければならない。日本語教育をめぐる自由で活発な言論の場が創らなければならない。

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