痛い、痛い、眠い、眠い


長女が五歳になったときだった。薄暮が迫る頃、公園の雲梯から落下した。

「痛い、痛い」

悲痛な叫びを聞き駆け寄ると、僕の目の前で長女の眉間がみるみるうちに膨れ上がる。数秒の間に眉間は紫色に変色し、さらに大きく腫れ上がっていく。

長女が泣きじゃくる。これは大変なことになったと思いながら、

「大丈夫か。大丈夫か」 

長女の両頬を掌に包み込む。すぐにおぶって家へと走った。

雲梯の最上段から僕が背を向けた瞬間に落下した。

鉄柱で顔面を強打している。一瞬、目を離したのがいけなかった。いつもならよじ登るときにはそばについていた。このとき日に限って背を向けた。ぼんやりと考え事をしてしまった。

長女が背中で泣く。転んでも歯を食いしばる勝気な長女が背中で泣きわめく。

家に駆け込むと、何も言えないくらい僕は息があがっていた。

腫れ上がった長女の顔を一目みるなり、 

「何これ!何があったの!」

 妻は絶句し、口を歪めて長女を抱きしめた。

「すぐに車出して。中嶋医院に行こ。高速から行けば十分で行けるよ」

長女は泣き疲れたのか後部座席に乗せるとぐったりとした。

力なく、

 「眠い、眠い」 

と、繰り返し言う。

バックミラーに映る妻が、長女の頭を膝枕に乗せ、濡れタオルで眉間を冷やす。僕は黙って強引にアクセルを踏み込む。

十キロ先の医者が遠く感じる。早く行かなければならない。自分の責任だ。そう思いながら走る。

「無理して飛ばさんといてよ。こんなとき、熱くなるのがあんたの悪い癖なんやから」 

妻が僕を諭す。

冷静に言われれば言われるほど反抗的に熱くなる。前の車が遅い。追い越し車線と走行車線をジグザグに走り抜け次々と追い越す。路面のわずかな段差に大きく車がバウンドする。長女の頭が揺れる。さすがに危うい。

「焦ることないよ。聞いとる?ここで事故したら、もうどうにもならんからね」 

妻が繰り返し諭すように叫んだ。

「ちゃんと聞いてよ。うちの子は強いから、絶対に大丈夫」

妻が長女を抱いて医院に駆け込んでから、ずいぶん長い時間が経ったように感じた。しかし、僕が待合室で二人を待っていた時間は実際にはそれほどでもなかったらしい。                        

「もう一センチ下やったら鼻の骨が折れとったって。一番かたいところやったから、運がよかった。腫れがひくまで、一日二日、絆創膏を貼っといてって」

妻がどさりと腰掛けて大きく息を吐く。

長女が僕の膝に無邪気によじ登る。鼻の上に大きな黄色い絆創膏を貼った顔が目の前に迫る。

 「痛いか?」

僕が問いかけると、

「もう大丈夫やよ」

「眠いか?」

「眠いことないよ。それよりもな、おとうさん。おとうさんに聞きたいことがあるんやけど」

「どんなこと?」

「イチダイジって何のこと?さっき先生がな、『子供のケガは家族のイチダイジやで』って、おかあさんに言うとった」

「一大事か?それはな、おとうさんやおかあさんが、いっぱい心配することかな」

「いっぱい心配することなん?」

「とってもたいへんなことという意味やよ」

「そうか。とってもたいへんなことなんやな」

痛い、痛い、眠い、眠いと繰り返した長女の言葉が脳裏を駆け巡る。安堵感とも疲労感とも言えない窮屈な思いがする。

そのとき、妻が長女を抱き上げた。  

「大丈夫、うちは悪運が強いから。たとえばな、家族みんなで飛行機に乗って、その飛行機が墜落しても、きっと、うちの家族だけは助かるよ。それくらい、うちは悪運が強いんやで」

この楽天主義が我が家を支えている。

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