息ができんのや



春だった。透き通った光が眩しく、風がそよいでいた。近所の寺に群生するつくしを幼稚園に入ったばかりの長女と摘んでいると、

「来て!あの子が」

義母の叫び声がした。


家に駆け戻ると、妻が丸まって台所に倒れている。

「どうした?何があった?」

問いかけても返事がない。何かを訴えようとしているが声を出せない。苦しそうな顔で下からじっと僕を見ている。

「息がしにくいんやわ言い出して」

義母が不安げに言う。

「休日診療所に行く言うてる間に、急に息ができんようになったんや」


僕は緊張を感じながら、丸まっている妻をそのままの形で抱き上げた。

体が硬い。つかまることもできず、硬直した体を伸ばすこともできず、なぜこんなに苦しいのかがわからないと言いたげに脂汗をにじませて僕を見ている。

「おかあさん、どうなるの?」

長女が僕を追いかけて泣く。

その声を背中で聞き僕は病院へ急いだ。


「息ができなくなって、ずっと苦しんでいます。すぐに診てください。お願いします」

病院へ着くなり、看護士をつかまえて一気に言った。

「順番にお呼びしますから、お待ちください」

「急患です。急いでください」

「承知していますが、順番ですから、お待ちください」

このままでは手立てが遅いと感じ、僕はぐっと語気を強めて言った。

「息ができんのや!早く診てやってくれ」


看護士は冷静だった。

「早く診てほしい患者さんはほかにもいます」

妻が遠慮がちにソファに横たわった。仰向けに寝ることも、うつ伏せになることもできず、刻むように呼吸をする。一息ごとに顔を歪める。

僕には油汗を拭ってやること以外にすべがなくなった。


長い間待った。

熱っぽい乳児を抱く母親がいた。ゴホゴホとむせ込んでいる老婆がいた。廊下の向こう側で迷子になった子供が泣いている。何人かが看護士に気色ばんだ僕を伺っていた。意外に多くの急患がいることに、僕はそのときようやく気づいた。

妻は両腕を胸の前で交差させて口で息をしている。

腕をとって看護士が車椅子に座らせようとする。僕がその腕を奪うようにして車椅子に座らせると、

「ご主人はこちらでお待ちください」

看護士が僕を制して持ち手を奪った。


医師に呼ばれて診察室に入ると、一番奥の診察台に妻が眠っていた。

「急性の肋間神経痛です。外傷ではなく、ウィルス性の疾患でもありません。疲労と心身のストレスによるものです。職場や地域の人間関係、家庭環境や天候などの要因により発症します。二時間くらいここで安静にしていてください。特に薬も処方していませんので、目覚めたら帰宅して構いません」

僕は、医師には構わず、

「大丈夫か?何ともないらしいけど」

思わず妻に声をかけるが応答はない。矢継ぎ早に話しかけようとすると、

「安静にすることが大切です。自然に目が覚めるまでは、声をかけて起こさないでください」

医師が制し、僕は黙りこんだ。


一時間が過ぎた。

これほど長い時間、黙って妻を見ていたことはなかった。いろいろな思いが交錯し、さまざまな光景が目に浮かんだ。

「ごめんな。おかあさんは、まだ何にもできんでな」

生後間もない頃、黄昏泣きする長女を抱いて妻はよく言っていた。それでも生活のリズムを長女に合わせつつ、健全な母乳を生み出すために食事のバランスに気をつかい体調を維持した。

七五三の家族写真を撮ったときには、

「家族の行事は生まれて三ヶ月目の百日参りと七五三。ここまでは、プロが撮ったきれいな写真を残してあげようと思う。あとは幼稚園の発表会と卒園式、小学校の入学式。雛祭りに豪華な雛人形は飾れんし、ディズニーランドに何回もよう連れていかんけど、これくらいはきちんとしてやりたいでな」

長女の成長を夢見るように語っていた。我が子を思い、家族を考え、ささやかな人生設計を描きながら、かろうじて仕事と家庭を両立させてきた。

そして、時には僕を叱責し、激励した。

「あんたは自分勝手やし、考えなしやであかん。嫁や子供に何か買ってあげようとか思わんか?そのために何かこうしようとか思うことはないのか?そういうこと考えたら、自ずと道は開けてくると思う」


さらに、一時間が過ぎた。

「大丈夫やよ。もうひとりで歩けるから」

ようやく妻が目覚めたとき、僕は無意識のうちにその腕をつかんでいた。


診察室を出て、誰もいなくなった待合室の長い廊下を歩いた。病院を出た後も、僕は妻の腕を放さなかった。なくしてはならない大切な家族をつかまえていたかった。

長い一日になった。

鮮烈な夕映えが一面に広がっていた。いつもより赤くにじむ空を僕は見たように思った。

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