夏休みの決心
その夏、小学一年生になった長女は自転車に乗れるようになると決心していた。
「おとうさん、自転車のちっちゃいタイヤをはずしてほしいんやけど」
長女は僕を公園へと連れ出し不安定に走り出した。転んでは起き上がり、倒れては立ち上がる。走り出し、また転がる。膝頭を痛そうに押さえる。草むらに突っ込んで転ぶ。白いシャツが草色に染まる。
「いつまでもやっとらんと、そろそろ休憩しよ」
呼びかけても答えない。
歯を食いしばり、立ち、走り、転び、また歯を食いしばる。思いがけず突進してきて僕も転倒する。腰をおさえて立ち上がろうとしたとき、長女は泣き出しそうな顔をこらえていた。
一時間半が過ぎた。
「いつまでやるつもりなんや」
長女は顔中、泥だらけになっていた。土色の顔に汗が筋を引いて流れた。今日一日の間にやりきるには無理があると感じ、僕はその腕をつかんで強引に止めた。
「もうやめとき」
それでも長女は自転車に乗り走り出そうとした。
「これ以上やっても、今日は乗れるようにならへんで」
僕は力をこめて腕をつかまえる。長女はぐっと歯を食いしばり僕の腕を振り切る。子供心の小さな決心だった。泣けるほど悔しい思いをし、それでもなお必ずやりきろうとする決意表明だった。
長女は走った。何度も転び、やがて、ハンドルを右に、左にふらつかせながらわずかな距離を走りきった。その距離、二十メートル。
自転車は草むらに突っ込んで横転した。長女には歓喜して声を上げる余力は残っていなかった。けれども、にわかに日焼けした表情は晴れ晴れとしていた。
その顔には、僕が大人になって忘れてしまった、小さく芽生えた達成感の原点があった。
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