あの時なんで法学部に行ってしまったのか、法学部で何を学んだのか、何故Web制作者になったのか2

前話: あの時なんで法学部に行ってしまったのか、法学部で何を学んだのか、何故Web制作者になったのか1

受験で失敗した要因

1. 目標が定まらなかった

高校3年の12月、サリン事件と耳障りのよさだけで法学部いいなぁと思った自分は、早速本屋へ直行し(当時はインターネットがなかった)、大学案内をここで初めて開いたのだった。
一冊買ってきて、とりあえず、フォルクローレ(という南米の民族音楽)のサークルがある大学をチェックしたり色々してみた。
時は既に12月、書店には既に願書とかも平積みにしたあったような気がする(当時、願書って書店で買うんでしたっけ?そうでしたっけ?よく覚えていません・・・)。とにかく、そのとき初めて、「立命館」と「同志社」の名前を見た。

恥ずかしながら、京大さえ知らなかったので、どんな大学か見当も付かなかったが、なんか「館」と「社」が浮いて見えたので見てみたら、京都にある大学だった。

おいら
(京都に住むのも悪くない!)
今思うと、こんなやつが大学行っちゃいけないような気がしてならない。お金を出してくれた親にも、ほんっっっっとうに、申し訳ない。特に母は、高校に行くお金もなく奨学金をもらって行った人だし、高卒から公務員として働いてその奨学金を返した人だった。
だから、母は大学を知らなかった。でも、だからこそ、行きたいと思うなら行かせてやりたいと思ってくれたようで・・・。本当にごめんなさい。

2. 外的要因「引っ越し」カウントダウン

当時、横浜でも下町に住んでいたのだったが、実は土地はうちのものじゃなかった。それは小学生くらいの時に知った。ものすごく安く土地だけ借りているらしかった。
契約者の祖父が死んだ際、地主さんから出て行って欲しいと言われて、自分が高校を卒業するときまで何とか待ってもらうことになった、その経緯は知っていた。
卒業後、自分の大嫌いな「住宅街」に住むことになることも知っていた。
大学は、その住宅街に住むのを回避するための、逃げ道でしかなかった。
何としても、下宿するつもりだった。
でも、お金は出してもらうつもりだった。勝手に住宅街に家なんか買うからだ、と、当時は腹立ち紛れに思った。
本当にどこまでもクズだった。

3. 先輩の甘い声・おっかない先生の助言

そんなある日、学校帰りに井土ヶ谷駅を降りたら中学からの先輩に出会った。もう先輩は大学生だった。先輩はとっても楽しそうだった。でも、その先輩は浪人経験者だった。

先輩
浪人は楽しかったな~~~。浪人できるなら絶対浪人したほうがいいよ!
おいら
!!!
実は、MSXの同人誌でも中心的だった、知る人ぞ知るプログラミング界の大御所、TPM.COさん(「まものクエスト」で一大ブームを巻き起こした)も、何度も浪人していて「浪人ほど気楽で楽しい物は無い」と言っていたことを思い出した。

おいら
わざと浪人するのも何だかな
とは思ったものの・・・また別のある日、学校でもめちゃくちゃおっかないと有名だったばーちゃん先生がこう言い放った。
ばーちゃん先生
あんた、明治落ちたら浪人しなさい!!

なんかもう訳が分からなくなりました。記念受験に受けた東大はセンターで足切りされ、すべり止め(を、受けさせてくれた親に感謝)には特待生で合格したものの、「できた」と思った明治は落ちた。

落ちたのが分かった日、母の同僚だったおじさんが家にたまたま来ていた。おじさんのうちの子は2歳年下、脳腫瘍でずっと病院に入院していたけど、自分が小学5年生の時に亡くなった。
おじさんは泣いていた。

おじさん
あいつが生きていれば、オレもこういう経験したんだろうな
すぐ泣くおじさんだった。でも、こんな適当な理由で受験して失敗した自分が恥ずかしくて、泣きそうになった。本当に泣きそうだった。おじさんは、「泣いていいじゃないか」と言ったけれど、泣く資格さえも自分にはない気がして、いたたまれなくなって、2階に逃げた。
なんとなくのほほんと構えていた自分に、人生の岐路が突然やってきた。

結論. 覚悟がなかった

敗因は明らかだった。
全然覚悟がなかった。
主体性もなかった。
「行きたい」という気持ちが全然足りなかった。
ただそれだけだと思う。だからこのとき、就職という選択肢を考えてもよかったのに、勇気がでなかった。
まだ学生でいたかった。
甘えていただけだった。

暗黒の浪人時代

大嫌いな「住宅街」初体験

結果的に、何をどうしていいのかわからないまま、「明治落ちたら浪人しなさい」という人の言葉に従った。それが楽だったからだ。
自分で選ぶことが怖くて仕方なかったからだ。

そして住宅街に住むことになった。

今まで、ちょっと友達に会いに行くとか、ちょっと伊勢佐木町行ってくる、とか出来ていたのに、ちょっと前の酒屋さんまで行ってアイス買うとか、ちょっとそこのコンビニ行ってくるとか、できていたのに、新しい家は山の上だった。

しかも、似たような家ばかりが並んでいて自分の家さえどれだか分からない。
バブルがはじけて少しした頃の家は典型的な欠陥住宅で、ビー玉を置けば傾いた方向に転がって行ってしまうし、申し訳程度の物干しは人が乗るには危なすぎるほどの立て付けだ。
とにかく、嫌で嫌で仕方なかった。家の玄関が引き戸ではなく「ドア」だというのも、居間が板の間(今風に言うとフローリング)なのも、風呂が狭いことも、台所にガス給湯器がないのも、近所に犬を飼っている家が多いのも、車を持っている人が多いのも、地元の友達と会えないのも、不便なのも、屈辱でしかなかった。
それが、高校の奨学金を返してから貯めたお金でやっと買った母の集大成だったのに。
自分は、その家を徹底して嫌った。

予備校に馴染めず宅浪になる

予備校に行かせてもらえることになった。でも、すぐにあのよどんだ空気と、ハイテンションな講師についていけなくなった。
家が山の上なので、駅までも15分以上かかったし、帰りは登り坂が続く。それもまた自分を出不精にしていった。帰りのめんどくささを思うと、家から出る気力がなくなった。

生産性のない自分への怒りと不安

予備校に行かなくなった。
受験させてもらったのに、お金払ってもらったのに、予備校にも行かず家にいて勉強もそれほど身が入らない状態に、いたたまれなかった。
でも、それを打破する方法を思いつくことができない。とにかくクズだった。

ここから逃げたいというただそれだけの目標で大学に受かった

そう、目的ができたのだった。この家から脱出することだった。
皮肉にも、京都の大学に目標を定めることができたのは、あの家のお陰だ。家のローンもあるのに、下宿させてもらう気満々だった。

浪人中は口に出せないほどひどいことを家にした。マスコットバットの素振りと称して、閉めても開いてしまう欠陥仕切り戸をたたき壊したりした。本当にごめんなさい。

こうして、なんだかんだで大学には受かった。でもやっぱり、京大は落ちた。もっと、「行きたい」という積極的な理由がないと、入れないなと思った。

(ちょうど教育課程が切り替わる学年である自分の世代は、センター試験でものすごい苦戦を強いられた。それはまた別の話にします。)

大学に入って1ヶ月で、文学部転向を決意、仮面浪人するも失敗

こうして京都に下宿することになった。その時の京都は雨ばかりの日々で気持ちも沈んで、母が引越の手伝いから帰る日は、もう泣きそうだった。
やっぱり覚悟がなかった。
これから本当にこの誰も知り合いのいない京都で、言葉の違う土地で、独りで生活すると思ったら、泣けてきた。
母にごめんなさいと言いたかったけれど、言えなかった。
だのに、更に親不孝なことを企ててしまうことになる。
※ごめんなさい、これはもうあれです、懺悔です。お目汚し申し訳ありません。

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