車いすテニスに出会って感激して、このスポーツを報道したいと思っていたら念願が叶って、気付けば世間に追い抜かれてた話 第1章:チャンスを待つ
この1試合で道が定まった
ある年の夏、車いすテニスの国内トップ2の試合を見て、これは障害者スポーツなんて枠には収まらないと思った。これはテニスだ。純粋にテニスとして楽しめる。これを少しでも多くの人に伝えたいと思った。
当時私は、大学卒業後に就職した会社を退職して、ライターや編集者になることを目指して専門学校に通っていた。大学卒業する際も、一度はマスコミに就職することを目指したけれど、無名の地方の大学卒で、さらに特技も特筆すべきもない学生が、大手マスコミに採用されるわけがなかった。振り返ってみると、マスコミに入って何をしたいのか、自分でもよく分かっていなかった。コネで就職が決まり、事務の仕事をこなしていたのだけれど、あるときライター&編集者養成の専門学校の「スポーツ科」というのを見つけて、「これだ!」と思った。そうだ、私はスポーツが好きだったんだ。スポーツの記者になりたいという思いを抱いて、退職して専門学校に通うことにした。
学校では、サッカーが好きでサッカーの記者になりたいと言っている子たちがたくさんいた。そのころは、スポーツ専門誌といえばサッカーの記事が主流だった。私はサッカーは日本代表の試合を見るくらい。野球はMLBはよく見ていた。過去にはプロ野球もよく見ていたし、NBLも見ることもあった。要はどれも好きなんだけど、熱く語れるほど熱心に見ていたものはなかった。強いて挙げれば、オリンピックを見るのはすごく好きだった。ロサンゼルスオリンピックを連日見て、幼いながらにすごく心を揺さぶられた記憶がある。でも、どれも中途半端だと、自分自身で感じていた。
専門学校である課題が出されたときに、他の子たちは自分が好きなサッカーなどのテーマで取材活動をしていた。そういう姿を見て、それじゃ私はテニスかな、と思ったのだと思う。小学校のころにスクールに通っていたこともあり、テニスの知識は多少あった。そして、普通のテニスではなくて、なぜか「車いすテニス」を取材しようと思った。
縁あって、車いすテニスのサークルに取材に行くことになったのだが、そこは趣味で車いすテニスを楽しんでいる人たちのサークルだった。趣味のレベルでも本当にみなさん上手で、「車いすに乗って、こんなふうにテニスができるんだ!」とびっくりした。そのサークルの中のひとりの方が、国内トップの人たちの試合が見られるよと、試合の情報を教えてくれた。そして、実際に見に行って、衝撃を受けたのだった。
テニスの技術の高さはもちろん、車いすでコートを駆け回る選手たちの姿に圧倒された。スピード感もあるし、迫力もあるし、本当に心が震えるような感じがした。試合をしていたのは、当時国内1位のS選手と成長著しい高校生のK選手だった。S選手は世界のトップ10に入るほどの実力のある選手だった。学校の課題のために、車いすテニスや障害者スポーツなどについて調べていた際に、S選手の名前や写真は目にしていた。本で見た人が、目の前でプレーしていることにも感動していたけれど、球の速さやパワー、車いすで駆け回るその姿に、目を奪われていた。高校生のK選手は、まだまだS選手には太刀打ちできず、見ている人たちはほとんど、K選手に声援を送っていた。それくらい実力の差があった。
結果は、S選手が圧勝で終わったのだが、K選手もきっとこの先伸びていくんだろうな、と思った。テニスを知っているからこそ、このすごさが分かるんだとも思った。スポーツのライターや編集者を目指しながらも、どのスポーツを追いかけたいのか、それが見えていなかったのだけど、この試合を見て「このスポーツをもっとたくさんの人にしってもらいたい!!」という衝動にかられたのだった。
夢を抱きながら機会を待つ
障害者スポーツについて資料集めをしていた私は、障害者スポーツを扱う専門誌があるのを知っていた。そこのスタッフになって、車いすテニスについて紹介するというのを思い描いた。そして、実際にその編集部に話を聞きにいってみた。編集長(だったかな?)の方と話をさせていただく機会があったのだけど、障害者スポーツの専門誌でやっていこうとするのは難しいよ、と率直な意見を話してくださった。しばらくすると、その雑誌が休刊したことを知った。
そろそろ専門学校も卒業の時期に近づいてきて、編集プロダクションの面接を受けにいった。それとほぼ同時に、テニス専門誌がテニス経験者の女性を募集しているという話をもらって、面接を受けた。編プロもテニス専門誌からも採用の話をいただいたが、編プロはアルバイトとして、テニス雑誌は正式はスタッフとしての採用だったため、テニス専門誌に決めた。
テニスの経験はあったけれど、テニス専門誌に全く興味のなかった私は、「テニス雑誌ねー」という少し冷めた印象を持っていた。実際に仕事をしてみると、テニスの知識は少しはあるため、あまり苦労せずにすんだので、テニス専門誌に仕事が決まったのは幸運だったと思う。多少の知識はあったけれど、やはり知らないことのほうが多く、いかに自分が何も考えずにテニスをしていたのかを実感させられる日々だった。
新しい仕事に慣れることに必死だったけれど、どこかで「いつか、車いすテニスの記事を載せられたらいいな」という気持ちは持っていた。だが、一般のテニス誌に車いすテニスなんていうマイナーな競技の記事なんて、そう簡単には載せられるはずもなかった。編集長には、それとなく話をしたこともあったけれど、当たり前だけれど興味は持ってもらえなかった。
チャンス到来!
車いすテニスは私にとって身近な存在だったため、選手たちの活躍などは耳に入ってきていた。ある年、車いすテニスの日本代表チームが、国別対抗戦で優勝したという一報が入ってきた。一般のテニスでいう男子のデビスカップ、女子のフェドカップにあたるもので、車いすテニスの場合「ワールドチームカップ」と呼ばれる。
日本人が、テニスで世界のトップに立つ。これは本当に快挙だということで、記事の掲載の許可をもらった。ワールドチームカップの結果と、日本代表として出場した選手へのインタビューという構成で3ページを与えられた。「ようやくこのときが来た!」と思った。そして、優勝という快挙を成し遂げてくれた選手たちに感謝した。
日本代表チームは、前述のS選手とK選手の活躍で優勝を手にしていた。S選手がチームを引っ張ったのだと思っていたのだが、実際は大学生になった若手のK選手が無敗でチームの勝利に貢献していた。世界のトップレベルに到達するにはあと一歩というレベルだったのに、この大会で一躍世界へ躍り出たのだった。
取材に行った際に、実際の試合の動画を見せていただいた。過去に見た試合では、K選手はどちらかというとクールにプレーするタイプだった。ポイントを決めても失っても、ポーカーフェイスでプレーする印象だった。テニスでは、感情を表に出して自分を鼓舞するタイプの選手もいれば、なるべく喜怒哀楽を表現せずにプレーする選手もいるので、どちらがいいとか悪いとかではない。だが、このときのK選手は1球1球に魂を込めるようなプレーをしていて、今までとは全く印象が違っていた。それまでのクールな戦いぶりを知っていたから、「ずいぶん変わったなあ」と思った。その彼の変化が、日本に世界一のタイトルをもたらしたのだろうと思った。
この日の取材では、S選手は海外遠征で国内にいなかったため、残念ながら話は聞けなかったけれど、このときにK選手に取材できたことは、私の記者人生にとってすごく大事な時間になっていくのだった。
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