破水したみたい



日曜日の朝、ぼんやりと目を覚ますと夜はまだ明けていなかった。午前五時だった。妻がどこからか弱々しく僕を呼んでいる。

「破水したみたい。病院へ連れてって」

予定日より十日早い。

立会い出産は辞退した。女は手術室でいきみ、男は廊下で産声が聞こえるのを待つものだという時代遅れな美学に洗脳されていて、僕はかたくなに立会いを固辞した。

「七時に帝王切開をします。それまでは休んでいてください」

結婚して五年間、子宝には恵まれなかった。夫婦共に忙しく働き、一度、流産もした。事前の診断では女児。その日がきた。

しかし、僕には実感がなかった。子供はできればいてもよいというくらいにしか感じていなかった。だから、ぼんやりとしていた。産声は聞こえなかった。待合室でうたた寝をしていた僕の前を担架が風を巻いて通り過ぎた。大きくむくんだ妻の顔が目に入った。担架が病室へ入っていく。

僕は慌ててその後を追った。

「おめでとうございます。赤ちゃんは産湯の真最中ですよ」

女医が一枚のポラロイド写真とサインペンを手渡した。頭がとがった猿のような赤い顔の新生児が映っている。

「女の子ですよ。赤ちゃんは生まれたときはびっくりするくらい長い頭です。お母さんのお腹から出やすいように長くなります。成長すると自然な形になっていきますから」

看護士に促され、ポラロイド写真に妻が決めていた長女の名前を書いた。看護士は写真立てに入れ枕元に置いた。

「子供には親のわがままを強制したらあかんな。でも、放任してもあかん。きちんと道筋と方向は示すべき」

切迫流産の危機を乗り越えた妻は、二週間入院している間、いろいろなことを考えていた。そして、我が子に過剰な期待しないように、背伸びする生き方だけは強制しないようにと繰り返した。僕は、実感がわかないまま新生児室の長女を眺め妻の話を聞いた。

退院前に看護士から新生児の沐浴の講習を受けた。初めて我が子を抱いた。とても軽かった。

「石鹸がついた赤ちゃんの体は滑りやすいですから、焦らないように気をつけてくださいね」

小さい手だった。その掌に僕が指をのせると、子供は反射的に握りしめた。とても温かかった。そのぬくもりが指先から体中に走り抜けた。小さな命だった。新生児が鼓動する体温​だった。


その瞬間、ようやく僕は自分が父親であることを噛みしめた。


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