日本語教師は何を見るか

専門性とは何か

 専門性とは何だろうか。私は、専門性とは、素人には見えないような構造やプロセスが一瞬にして見えてしまうことではないかと考えている。
 例えば、建築事務所を営んでいるある友人は、どんな家でもパッと見ただけで、基礎がどうなっていて、柱がどう立っているというようなその家の構造が見えるそうである。また、障がい者の介助を生業とするある友人は、介助の対象者と少し接するだけでその人がどのような障がいをどの程度抱えているかという障がいの構造がわかるそうである。
 上述したような事例に留まらず、レーサーであれば進むべきラインが見えるとか、プロ野球のバッターであれば、球の軌道が見えるとか、占い師であれば、相手の過去や未来が見えるとか、根拠のあるなしはともかくとして、素人には見えない構造やプロセスが語られるとき、我々は専門性を感じるのではないだろうか。

「日本語教師の専門性とは何か」というやっかいな問い

 さて、それでは、日本語教師の専門性とは何であろうか。日本語教師には、素人には見えない何が見えるのであろうか。はたまた、何が見えるべきなのであろうか。この問いは、実は、非常にやっかいな問いである。なぜなら、「何が見えるか」という問いは、ほとんど「何が見たいか」という問いと同義であり、そのように考えれば、この問いの答えは、日本語教師の数だけあるということになるからである。それゆえ、最終的には、私にとって日本語教師とは何かという問いになる。しかし、ここではその前段階として、「日本語教師が見える何か」に関し、その枠組みを論じてみよう。

日本語教師が持つ視点

 「日本語教師が見える何か」は、大きくことば(の構造・プロセス)と人間の変容(の構造・プロセス)二つの分けられる。ことばに注目する場合、「日本語教師が見える何か」は、学習者が用いている日本語の構造や変化であろう。(「学習者が表現に使用する日本語の語彙や文型からある種のレベル判定ができる」という技能(?)は、その一種と言える。)一方、人間の変容の注目する場合、「日本語教師が見える何か」は、学習者が語る内容の構造や変化であろう。いずれも、ことばに注目しているという点では、共通している。しかし、形式に注目するか、内容に注目するかによって、何が見えるかは全く異なる。

ことばの形式と内容の不可分性

 ここで新たな疑問が浮かんでくる。そもそも形式と内容を切り離し、いずれか一方に注目することは可能なのであろうか。おそらくそれは不可能であろう。ことばは、常にそのことばが使用された状況とともにある。誰がどこで誰に向けて何のためにという具体的な状況と切り離された瞬間、そのことばは死んだことばとなる。また、形式を持たないことばは存在しない。どのような言語表現も、必ず何らかの形式に則っている。語彙や文法といった形式を共有しているからこそ、様々な内容を伝え合うことができる。

日本語教師が見える何か

 このように考えると、ことばに注目し、学習者が用いている日本語の構造や変化のみを見ようとすることも、人間の変容に注目し、学習者が語る内容の構造や変化のみを見ようとすることも、実は不可能であることがわかる。つまり、個別性や状況を捨象した普遍的な何かを見ることはできないということである。いや、普遍的な何かを見ようとすることは、できるかもしれない。しかし、それは、「言語学者が見える何か」、あるいは「心理学者が見える何か」であって、「日本語教師が見える何か」ではない。
 それでは、日本語教師は何を見るのか。日本語教師は、学習者の個別性や状況によりそって、学習者の表現形式や表現内容が変化していくプロセスを見る。私は、このようなことばを媒介に個々の人間が変化するプロセスを見ようとする姿勢を日本語教師の専門性の一部であると考える。

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