いじめとひきこもりから映画監督に(10)
突然テレビ局から取材が来た
思いがけない出来事にビックリしました。それも明日、自分の自宅で取材をさせて欲しいとのこと。
当時私が子ども向けに作ったインターネットのエチケットのサイト「ネチケットってな〜に?!(現在は稼働させてません、アーカイブとして参考まで)」のことを聞かせて欲しいという内容。
自分の番号をテレビ局の人が知っていることも驚きましたが、明日急に取材をする意味を聞きたくて、
数日前に、長崎のとある小学校でBBS(掲示板)に書かれた悪口が原因で、同級生を殺してしまう事件が起きたとのことで、インターネットの世界で何が起きているのか? を小学生を対象にサイトを開設している自分から状況を聞きたいとのことでした。
緊張しながら、取材クルーを出迎えました。
当時は一人暮らしをしていたので、6畳ワンルームの部屋で取材陣が来るのを一人待っていました。ソワソワしながら、彼らを出迎えました。
初めて出会う憧れだったテレビ局の人たち
2歳からテレビっ子だった自分にとって、テレビの世界はいじめられていた自分を救ってくれた大切な存在。そのテレビの業界の人と、思いがけずふとこうして繋がることができた。
ディレクターからあれこれ質問をされながら、緊張した会話が続く中で、どこか今までに味わったことのなかった高揚感が生まれていました。小さい頃からテレビの俳優に憧れ、幼稚園の頃から東大だけを目指していた人生において、本当に触れたかった芸能の業界に、今こうして目の前に接している。
まるで夢でも見ているような感覚であっという間に1時間の取材が終わりました。
そう言って取材クルーは部屋を出て行きました。緊張の糸がほぐれ、家族や友人に取材を受けたことを電話で話しまくっていました。
その後、自分の顔を鏡で見ると、肌荒れがひどく、先ほど取材してもらったにも関わらず、
などと、トンチンカンなことをディレクターに電話で伝えたのを覚えてます。
翌日放映された番組では、やはり自分の顔は出されることなく、自分のサイトが番組で使われたようです。(どんな内容が放送されるのか、あまりに怖くて結局自分で確認をすることはできませんでした)
それからみるみるうちにアクセス数が増え
アクセスカウンターもみるみる数が増えていき、20〜30万件だったのが、放映から数日後のべ100万アクセスに達したのでした。更新ボタンを押す度に数が増えていく様子は爽快でもありながら、止まることない増え方にどこか身震いのする感じもしておりました。
そんな不安とは裏腹に、カウンターは100万を越えると増え方が徐々にゆっくりとした変化になっていきました。
自分の書いたことがこんなにも社会と繋がることができるんだ
それから、このサイトで書いた自分の記事がいろんなところでコピーされたり、ルビをするマナーサイトが急に増えたり、学校関係の資料でもサイトの内容をコピーして配布されたりと、自分が予期せぬところで、このサイトが一人歩きをするようになったのです。
大学受験しかしてこなかった自分が初めて、自分のやりたいこと、小さい頃からの夢に触れる機会が訪れた。
この時、自分の中で何か大きな岩のようなものが動いた気がしました。
自分の行動で世の中に変化を与えることができるんだ。ならばもっと行動してみよう!
そう思って、大学で専攻していた応用物理学科を飛び出し、理系とは対極の政治経済学部や文学部の授業を単位とは無関係に聴講するようになり、四年生の時は、週四日、五日のペースで所沢にある人間科学部で臨床心理学を勉強したのでした。
「ネチケットってな〜に?!」のサイトをきっかけにして、毎日沢山のメールをもらうようになった
一日5件から多いときは10件程度、連日沢山のメールをもらうようになりました。
インターネットのエチケットの内容から、徐々に個人的な悩みが増えていきましたーー例えば、恋愛で悩んでいる、夫とけんかしている、精神的に衰弱しているなど、9割方女性の人から悩みのメールを沢山もらうようになりました。
小さい頃から、周りの子と馴染むことができなかったので、毎日クラスメイトを観察し、じっと見ていたため、悩みのメールに関しては、専門的な知識はないにせよ、客観的に返信を綴ることが好きだったのだと思います。そんなメールの返信をし続けているうちに、
本当は理系なんて本当に進みたいとは思ってなかった、カウンセラーなら今の自分に相応しいかも
そう思い始め、大学4年時はどっぷり臨床心理学を学んでいたのです。
理系から聴講する人間など、その学科には勿論いるわけもないわけで、かなり自分は浮いた存在だったと思います。
それでも、理系の講義で自分が味わうことができなかった異性のクラスメイトとの交流や、感性の合う同級生や後輩との出会いもあり、人生で初めて学校に行って楽しいと思えたのが22歳の一年でした。
芸術療法との出会い
小さい頃から東大を目指していたので、勉強と言えば、英数国理社のみだったのですが、本当にやりたかったのは芸術やクリエイティブなことでした。
両親に怒られる、親父に怒鳴られる、そんな怯えから押し殺していた22年間の気持ちを払拭してくれたのが、臨床心理学の講義の中で出会った「芸術療法」でした。
芸術療法とは、芸術ーー例えば絵画や音楽などを用いて、精神の疾患をしている人を癒していく治療方法です。
小さい頃から大好きだった詩を使って人を癒すことができたら、自分のやりたいことが合致する
親の目を気にして、芸術や物作りなどには触れないようにしてきた自分にとって、「芸術療法」との出会いは一つの大きなきっかけでした。学問でありながら、芸術分野にも触れられる。これなら恐れている両親も納得をしてくれるのではないだろうか。
一つの希望の光が降り注いだのでした。
でもよく考えると、詩だけで人を癒すって結構高度だよな……。じゃあ、絵本を創ってみよう!
そう考えるようになったのでした。
「ネチケットってな〜に?!」と共に、2002年頃から作っていたサイトに「詩と小説のHP(こちらも当時のアーカイブを雰囲気を知って頂くためにアップしております)」がありました。
自分は小さい頃から詩が大好きでした。でも詩だけで人を癒すのは結構ハードルが高いんじゃないかな。そう思って絵本を作ることを思いついたのでした。
とは言え、僕は絵が描けない。どうしよう……
そう思って考えたのは、絵を描ける人を探そうと思ったのでした。
小さい頃からずっといじめられていたので、同じ学校の中で絵を描いている人を探すという発想にはなぜか到らず、その週末に出向いたのは渋谷の街でした。
ひきこもっていた自分が渋谷を出歩くなんて夢にも思っていませんでしたが、チャットの常連がオフ会がある度に、みんなで集まりやすい渋谷を指定していたので、対人恐怖で怖かった都会の町並みもなぜか堂々と出歩くことができるようになっていました。
渋谷の駅を出てすぐに出会った露天商の絵描きさん
そして、運命的な出会いが起こりました。
駅を出てすぐ目の前で露天商をしている絵描きさん(現在は画家をされています)の絵が、自分のイメージにピッタシの絵だったのです。宛てもなく一日中歩くつもりでいた渋谷散策で、駅を出てすぐ様見つけたこの絵描きさんの絵に、当時の自分は瞬時に惚れ込んでしまい、その場を動くことができませんでした。
人だかりになっている絵描きさんと話す為にじっと待ち続けて
とても沢山の人がそこに集っていました。自分は絵描きさんと話すチャンスを伺い、そのタイミングが訪れるまでじっとその場に立ち尽くしていました。
そして、ようやく絵描きさんと話すチャンスが訪れたのです。
そんなことを突拍子もなく話していたと思います。
絵描きさんは既にプロの仕事を長年されている方で、理由合って露天商をされるようになったとのこと。当時の自分のように様々な人が絵を見ては、「絵本を作りませんか?」とか、「出版したい」という声は山ほどもらっていたそうです。彼の仕事のスタイルとは反した内容に、私のお願いもあっという間に却下されてしまいました。
自宅に帰っても諦めきれなかった
彼から断られた後、渋谷を一日中歩き回っても、理想の絵にたどり着くことができず、自宅に帰った自分の頭から露天商さんの絵を忘れることができませんでした。
もう一度頼んでみよう!
沢山のオフ会や他学科の聴講で変な度胸が付いてしまった当時の自分は、彼にもう一度頼んでみようと決意して、翌週末、再び彼の元に訪れたのでした。
何度来てもダメなものはダメ
渋谷、下北沢、横浜と彼が毎週変えている出現スポットに毎週足しげく通っては、絵本を創らせて欲しいと嘆願しました。
何度来ても、彼の答えはNGでした。
これで頼み込むのは最後にしよう
そう思って、ダメもとで最後に訪れたとある週末。いつもと同じように彼に絵本を創らせて欲しいと頼み込むと、眉間に皺を寄せて
と、ついに彼から個人的な目的にのみ使うことを約束して、彼から絵を借りることができたのでした。
借りた絵は全部で10種類
手元に届いたデジタルデータは全部で10種類。どれも渋谷の街中で見かけて惚れ込んだ絵がずらりと手元に揃ったのでした。
あまりに興奮してしまい、臨床心理学の講義に向かう電車の中で、その絵から思い浮かべた詩を10編、手を止めることなく、思い浮かんだ言葉を並べて書き上げたのでした。
これが当時創った手作り絵本の最初のページです。
手に取れる形で初めて創ったこの絵本を前に、勉強をすることしか人生ではないと思っていた自分の中で何かが動き出したのでした。
カウンセラーの目標から、演劇の世界。そして、映画の業界へ。
絵本を創ってから、小さい頃から押し殺していた物作りへの思いが弾け出し、昔から好きだった俳優と触れる活動に就きたいと強く思い、テレビの業界は自分には縁が遠すぎるから、演劇の世界に触れてみよう。
そう思って、インターネットで探し当てた新宿の百人町のとある劇団の門を叩くこととなりました。
リアルな人たちが温かくしてくれた
インターネットを通じた人との交流には慣れたものの、リアルな空間で知り合う人と深く付き合うことはまだ経験がなかった自分にとって、初めて門を叩いた劇団は、貪欲に地道に、有名ではなくとも演技に対しての愛はもの凄く溢れている人たちでした。
絵本を見せて見習いの立場から
演劇の世界を初めて知ったのは、インターネットで調べて観劇したケラリーノ・サンドロヴィッチさん作の「カメレオンズ・リップ」でした。観劇したことなど、幼少期の1、2回を除いて10年近く全くなかった自分が、ネットで調べて偶々その舞台の千秋楽に当日券で入り、舞台が終わると観客全員がスタンディングオベーションをしている光景をみて、いつかは自分がこの感動を生み出したい!
そう思って演劇の世界の門を叩いたのでした。
当時は演劇があまりに好きになってしまい、1年間で300本近くの作品を観ておりました。
その直後、高校時代の同窓会に出向き
ずっといじめられいて、嫌な想い出しかない中高時代、思い出すだけで嫌な想い出しかないそんな学校の友人から、ふと「同窓会」の案内がメールで届いたのでした。
今までなら決していくことがなかったと思うのですが、
チャットのオフ会や他学科の聴講、知らない劇団を訪れるなどして、抱えていた対人恐怖がほとんど無くなっていたことと、昔と変わった自分なら相性が合わなかった同学年の人間とももしかしたら向き合えるかも知れない。
そう思って、勇気を出して同窓会が開かれる池袋の居酒屋に出向いたのでした。
まだ社会人一年目や留年した学生、浪人して大学に入った大学生などいろんな状況に置かれた同級生が集っていましたが、
自分が体験してきたインターネットの世界、心理学の世界、演劇の世界を話せる人間は、進学校卒業に同級生たちから見つけることはできなかったのです。
そんな中、隣クラスで一度も話すことがなかった人間が、映画業界に携わっているという話をしていたので、その彼に絵本を見せたところから、埼玉の川口のSKIP CITYという場所で23歳の初夏から映画の助監督を始めるようになったのでした。
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