24歳フリーターが借金9億円を13年で返済し、ハワイに住む夢をある方法で3年早く叶えた実話

「お父さん、もう助からないんだって・・・」

社会人3年目、横浜スタジアムでのシーズン最後の試合の後、スタンドに応援に駆けつけた母から言われた強烈な一言だった。
「え!?助からないってどういうこと?」
「ガンで余命3ヶ月なんだって・・・」
「・・・」
その日から俺と家族の人生が一変する。

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1974年3月1日。3月にしては珍しく雪降る千葉で帝王切開の末俺は産まれた。
俺は産まれながらにして母親に迷惑をかけたってわけだ。
赤ん坊の頃、千葉での記憶はなく(当たり前だが)、それからすぐに父親の仕事の転勤により、父・母・俺の3人は大阪に引っ越しをする。
産まれてからの最初の記憶は1歳の頃子供の自転車の補助輪に足を引かれ骨折をしたこと、治った後も言う事をきかないとギブスを見せられ母親に脅されたこと。この2つだ。
この頃の生活と言ったら酷いもので、とにかく今では考えられないくらい貧乏な生活をしていた。
お金が無くて、たまの外食も「すがきや」という白い190円のラーメンを母親と2人で1杯を分けて食べる。当時の外食と言えばその記憶しかない。
こんな話もあった。
父が当てた当たり馬券と財布に唯一入っていた120円を握りしめ、母は俺を背負って数駅先の換金所まで電車で行ったが、換金所がクローズしていて帰りは泣きながら歩いて家まで帰ってきた。
そんな生活だった。
幼稚園の記憶も曖昧だが、これまたケガの記憶だけは覚えている。
廊下の突き当たりの教室の窓に走って手を突っ込んでしまい、左の手首を裂傷。今でもその時の傷跡が残っているくらい、その時は出血しすぐに病院に運ばれ、数針縫う大怪我となった。
その頃も相変わらず貧乏だったが、両親は子宝に恵まれ待望の女の赤ちゃんが産まれた。簡単に言うと妹だ。名前は美雪と言う。
美雪は産まれてすぐに体に異常があり入院をする。
当時では、今もそうかもしれないが珍しい「川崎病」という難病で、死に至ることも珍しくないそうだ。
小さな赤ん坊が入退院を繰り返し難病と戦うなんて酷な話だが、大事には至らず今はすっかり治って普通の暮らしをしている。
俺はと言うと、小学校に入学し3ヶ月程たったある日体に異変が起こる。
病院で調べたところ、急性腎炎という腎臓の病気と診断された。
子供には珍しい病気であったためか、夏休み丸々2ヶ月を病院に入院して過ごす事になる。
小学校に入って最初の夏休みが入院生活なんてついてないぜ。なんて当時思ったかどうか記憶が定かではないが、まあそれなりに入院生活を楽しんでいたのを覚えている。外に抜け出してセミを捕まえたりしてね。
大阪での生活は貧しいながらも家族4人で小さな家に寄り添いそれなりに幸せな時間だった。
隣の家の岡島家とは家族ぐるみの付き合いで、3つくらい年上のゆうこちゃんは美人だったが男勝りでよく俺たち小さい子供を守ってくれたいいリーダーだった。
妹で俺より一つ年下のみえちゃんは毎日のように遊んでいた幼なじみで、今思えば俺の初恋の相手だった。ような気がする。
近所の太郎君はお金持ちのボンボンで、おばあちゃんによくオモチャを買ってもらっていて自慢げに見せていた。イメージで言うとドラえもんのスネ夫みたいな感じ。
つづく・・・




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