日本語教育実践の共有を阻むもの

 先日(2013年12月8日)、第9回実践持ち寄り会に参加した。私が実践持ち寄り会に参加したのは、第8回に続き、今回が2回目である。

 前半のセッションでは、三名の発題者から実践の共有に関する報告を聞いたあと、次の二つの問いに関し、小グループで話し合った。

・日本語教師は、実践を共有することでなにが得られるか。
・実践を共有する方法としてどのようなことが考えられるか。

上記の問いに関し、話し合う中で、実践の共有に関し、次のような意見が挙がった。

実践を共有するといっても、そもそも自分が携わっている職場にお互いの実践を共有しようという風土がない。そればかりか、実践に関する情報ができるだけ個人、あるいは機関の外に漏れないようにしている場合さえある。

 (もちろん機関や個人により異なるであろうが)このようなことは、いろいろなところで見られる現象である。当該の機関や個人は、自身の実践を公開しないことで何を守ろうとしているのだろうか。例えば、ある実践が莫大な利益を生むということであれば、自身の利益を守るために実践を公開しないというのも賛同はしないまでも、理解はできる。だが、実際にはそういうことはあまりない。少なくとも、同じ機関で実践を行っている者どうしであれば、お互いの実践を公開しないよりも、例えば、お互いの実践を知ることにより研鑽が積める等、公開することにより得られるメリットのほうが大きいはずである。

 ある職場に実践を共有しようという風土がないとすれば、それはある個人が意図を持って、そのような風土を作っているというわけではない。(つまり、特定の誰かが悪いというわけではない。)そこにはおそらく実践の共有を阻む構造的な問題がある。構造的な問題とは、一言で言えば、日本語教師の貧しさである。貧しさとは、経済的、時間的、そして精神的な余裕のなさである。

 多くの日本語教師は、非常勤講師として働いている。非常勤講師は教育機関の状況等により、常に契約を解除される可能性がある。そのため、非常勤講師の雇用は、基本的に不安定である。また、非常勤講師を務めることで得られる賃金により生計を立てようとすれば、数多くの授業を担当しなければならない。その結果、日本語教師は、授業、および授業の準備に多くの時間を費やさざるを得なくなる。このような日々の授業をこなすことに追われる状況は、日本語教師から多様な実践や教育観に触れたり、実践に関し、多角的に考えたりする機会を奪う。以上のように、日本語教師は、経済的な余裕のなさが時間的な余裕のなさを生み、経済的・時間的な余裕のなさが精神的な余裕のなさを生むという負のスパイラルに陥っている。

 また、多くの専任講師も非常勤講師と同様に、経済的・時間的・精神的な余裕のない状況に置かれている。時間的・経済的・精神的な余裕がないために、多様な実践や教育観に触れる機会がない。ところが、専任講師という立場に置かれてしまったがゆえに専任らしくあることを周囲から求められる。その結果、一種の防衛として、他の教師に自身の教育観を押し付けざるを得ない状況に構造的に置かれてしまう。これは、常勤講師、非常勤講師双方にとって不幸な状況である。

 このような経済的、時間的、そして精神的な余裕のない状況に置かれている日本語教師がお互いの実践を共有しようなどと考えるであろうか。答えは否である。

 経済的、時間的、そして精神的な余裕のない状況に置かれた者は、自身の実践を守ろうとする。この「守る」には、二つのパターンが考えられる。一つは、自身のすばらしい実践を他の教師にパクられることから「守る」という場合である。もう一つは、自身の実践を低く評価されることから「守る」という場合である。これら二つの「守る」は、自身の実践に対し、自信を持っている否かという点では異なるものの、自身への評価を維持することにより、自身を職を失う可能性から守ろうとしているという点では共通している。

 多くの日本語教師が自身がいつ低評価を受け、職を失うかわからないと思っている。もちろんこれには思い込みも含まれており、事実とは異なるかもしれない。しかし、そのように思い込ませる構造があることに疑いはない。日本語教師は雇用が不安定であるがゆえに、自身の実践を守らざるを得ないような状況に置かれている。

 実践を共有しようとする場合、どうしても、当該の実践が実践の行われた文脈から切り離され、教室の中のことだけ、例えば、教材やアクティビティのみを共有しようとしがちである。しかし、本当は、実践が行われた文脈、すなわち、日本語教師である自身が置かれている状況から共有すべきではないか。そうすることによって、自身がなぜ当該の実践を行わなければならなかったのか、当該の教材を使わなければならなかったのか、当該のアクティビティを行わなければならなかったのか、そして、自身が何をしたいのかが見えてくる。やりとりを通じ、日本語教師としての自身が置かれている状況や自身の教育観が見えてくるような営みが実践を共有するということである。そして実は、実践の共有それ自体が、実践の共有を阻むものを打破する力にもなっていくはずである。

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