親から愛情をもらって育った事がない私

私が生まれたのは今から38年前
幼稚園だった頃、父親はほとんど家にはいない状態で、仕事も何をしているかわからなかった。
母親は会社勤めで、帰ってくるのは、18時頃だった。
おばあちゃんは住み込みの家政婦だった為家にはいなかった。
おじいちゃんは家にいて、幼稚園バスが来るところまで送り迎えをしてくれた。
妹が2人いたので、母親が仕事いっている間はおじいちゃんが面倒を見ていたんだと思う。
夕飯はいつも仕事帰りに買ってきたコロッケとポテトサラダかマカロニサラダだった。今だに母親の料理で美味しかった料理は何もないし、手作りの料理なんか作っていた記憶もない。
ご飯は毎日炊いていたわけではなく、2〜3日分をまとめて炊いていたので、ご飯が黄ばんで硬かった。電子レンジもなかったので温かい食事をしたことがなかった。っていうかそれが当たり前だと思っていた。
あの頃は、休みが日曜だけだった。母親と買い物や出かけるといったことはなかった。1人で買い物に行くので、いつも家に置いてきぼりだった。お菓子や飲み物は一切買ってきてはくれなかった。今思えば、料理をしていないのに何の買い物をしていたんだろうと不思議に思う。
幼稚園のお弁当に果物を持ってきていた友達がいた。羨ましかった私は、母親に果物を入れて欲しいと頼んだことがあった。返答があったかどうか記憶がないが、果物を1回でもいれてくれたことはなかった。

              小学生の頃

小学校に入学してすぐに先生が学校であったことをお家の人に話しましょうと言った。仕事から帰ってきて台所にいた母親に話しかけると、うるさいあっち行っててと言われた。その一言でもう絶対に喋らないと思った。その日から必要以外親との会話をしなくなった。
そして、日曜日はほとんど家に居なくなった。松戸までエステにいくようになり朝から出かけて帰ってくるのは15〜16時。昼ごはんを作っておいてくれるはずもなく、妹とご飯に水を入れて食べたり
塩をかけて水、味噌を入れて水のご飯を食べるのが当たり前だった。納豆や卵が冷蔵庫にあった時は、卵かけご飯、納豆ご飯を食べることもあった。
おじいちゃんは家にいたが、特に何も作ってくれなかったし、おじいちゃんも適当にご飯食べていた記憶がある。
ある日、母親が自分で食べるために買ったケンタッキーの残りを持って帰ってきた。その残りを妹とガツガツ食べていたら、意地汚いと言われた。その日は食べる物がなかった為かなりお腹が空いていた時だったと記憶している。
母親にムカついた。なんでそんな言い方するんだろうと思った。
小学校5年生からは、家庭科の授業で調理実習があった。それからは、火を使って料理するようになり、妹の分も作ってご飯を食べていた。
田舎だったので近くにコンビニやスーパーなどは一切なかった。だから、買って食べる事が出来なかった。
昔は給食費を集金袋に入れて学校に持って行った時代だったから、配られた集金袋を母親に渡しお金を入れてくれるのを待っていた。
だが締め切り近くになっても渡されず、学校でも、まだ持ってきてない人は早く持ってきてと言われ恥ずかしかった。
母親に言ってやっと学校に持っていくということが毎回だった。
ある日給食費まだと母親に言ったとき、あんたは人の顔みれば金、金しか言わないね!って言った。正直ショックだった!自分の好きな物を買うために使うお金じゃないのに、なんでそんなこと言われなきゃいけないの?って思ったが、とりあえず給食費をもらってその時は、学校に持って行った。
小学3〜4年の時お年玉をたくさんもらったので、母親に貯金してあげるからと言われ全額渡した。お小遣いをもらっていない私は、そのお金で何か買おうと思い母親にお金おろしてきてと言ったら、全部使った!だからないと言われた。その時はさすがに怒った。母は悪気がまったくなく反省すらしてない様子だった。
だからってお金をくれたわけでもなかった。まさに泣き寝入りだった!悔しくて絶対にお金は渡さないと思った。
全て自分の欲しいものや友達と遊びに行くお金はお年玉から出していた。
6年生の夏休み友達と自由研究をして、賞をとった。凄く嬉しくて家に帰った。その日はたまたま父親が珍しく家に居て、賞の事を言ったら、運動以外何もダメだなと言われた。賞の事は一言も触れてはくれなかった。悲しくて、自分の部屋に戻った。

             中学生になって

まさに思春期だった私はかなり凄かった。
その頃になると母親の顔を見るのも声を聞くのも嫌だった❗️
死ね、くそババ、うるせー、をよく言っていた。ドアをおもいっきりしめたり壁を叩いていた。
中学生になっても給食費の集金はあったが、小学生の時と変わらず、いつもギリギリだった。
父親は相変わらず家には居なかったし、たまに帰ってきてもまた何処かに出かけていたから顔を合わせる事はほとんどなかった。
家に居ても面白くないし、居心地が悪いからあまり家には居なかった。友達と遊んだり、友達の家に泊まり、時にはお酒を飲んだりもした。夜中抜け出しては友達と遊んでいた時もあった。そっちの方が楽しかったし、気が楽だった❗️でも部活だけは真面目に行っていた。笑
遊んではいたが、勉強はそれなりにしていた。
中学2〜3年生の時に、母親が急に離婚したいんだけどと言い出した。何にも考えずにすればと言った返事をした。家族っていう家族ではなかったし、いいんじゃんっていう感じだった!でも離婚はしなかった。今でも離婚したいと言った事がわからない。
そして3年生になり、自分が志望していた高校も親には一切相談もせず自分で決めた。さすがに三者面談があったから、受験する高校は話した。

         そして私立、公立高校合格した
公立高校に行くことにした。

         中学よりも荒れた高校生活

高校生になってすぐバイトした。
しばらくして、バイト先のお客さんで来ていた5歳年上の人と付き合うことになった。彼氏には家の事情を話していた。
この頃からバイトが終れば彼氏の家にいるようになった。帰りも朝がた帰ることが多くなった。最初は親も心配して探していたが、居る場所が分かってからは、心配することもなくなった。
原チャリの免許を彼氏に取った方がいいと言われと取った。彼氏が持っていた原チャリをくれると言っていたので貰えると思っていたのに、親がダメっていうからバイク買いな!と言われ、でもお金もないからと言ったら彼氏の名前でローンを組んで毎月私がお金を払うということになりバイクを購入した。このバイク購入が失敗だった❗️
ケンカをすると暴力を振るってきた。今で言えばDVだ!別れたくてもバイクのお金を払うしかないし、親に言っても助けてはくれなかった。相手の親も分かっていたのに、何も助けてはくれなかった。
離れればいいんじゃんと思うかもしれないが、バイト先も知られてるし、逃げると捕まった時にまた暴力を振るわれるんじゃないかという恐怖心から逃げる事が出来なかった。彼氏に殴られて顔にアザができそのまま学校やバイトに行ったこともあった。友達は心配してくれてたが友達もどうしていいかわからない状態だった。あの頃彼氏の言いなりになっていた。いつ暴力を振るわれるかわからないからだ!
そして高校2年の時に父親は旦那と子供がいる女の人と駆け落ちをした。たまに家に帰るとスーツを着た男の人2人がお父さんはいないの?いつ帰って来る?と聞かれた。私は知らないと答えた。後で母親にこの話をした所、家のローン返済の事で銀行の人が来たんだと言っていた。
その後両親は離婚して、家も競売にかけられるから出て行かなくてはいけないと母親から聞かされていた。
しばらくは家に住むことが出来たので、彼氏と居るよりは、家に帰った方がいいと思い、私は家に帰った。その頃母親は、彼氏ができたと私に言ってきて、彼氏の為にご飯を作っては、しょっちゅう持っていてあげた。私達には一切作ってくれなかった。お弁当も作ってくれないので、自分で作るからお弁当の材料を買ってきてと頼んでも買ってきてくれなかった。コンビニでバイトしていたので、廃棄処分になったお弁当などを持って帰り、翌日の昼ご飯にしたり夜ご飯として食べていた生活を送るようになった。母親も彼氏と一緒にいる事が多く家にはほとんどいなかった。自分の服や下着、学校で使う筆記用具、ノート、美容室代など全て自分で出していた。この時にはバイクの返済はもう終わっていた。だから気持ち的にはだいぶ楽だった。
友達のお母さんがそんな状況を聞いてたらしく、私の為に夜ご飯を作ってくれてたくさん食べなって言ってくれて、お腹一杯食べたことが今でも忘れられない。
この頃から学校を辞めたいと言うようになった。いつも保健室に行ってはそんな話をしていた。
ある日、1年の時の担任だった先生が私にお金を返さなくてもいい奨学金制度があるからその手続きをしなさいと言った。そのお金は使ってもいいし、貯めてもいいんだよと私に話した。私は保健室の先生以外誰にも話していないのに何で知ってるんだろうとその時思った。後から考えれば保健室の先生が話したんだなと思った。
私は早速手続きをして何かの時に使おうと思って貯めることにした。
そして3年生になってすぐだったと思う。朝の会の時に、先生が私の名前を呼んで封筒を渡した。封筒を貰ったのは私1人だけだった。なんだろうと思い中を見てみると、学費未納と書いてあった手紙だった。学費が支払われてなかった。
席が近くの子にもその手紙を見られていたので恥ずかしかった。その後も何度か渡された。母親に学費払ってと言ったら、お金はない!と言った。おばあちゃんがもう少ししたら一旦家に帰って来るから、おばあちゃんに話をして払ってもらいなさい!と言って話が終わった。
後日おばあちゃんに言ったら払ってくれた。
その後母親は妹を連れて家を出た。
私は、彼氏と別れたかったが言ったことによって暴力を振るわれると思うと中々言い出せなかった、。家の状況を聞いてきたので、ウソはつけなかった私は、本当のことを話した。親と一緒に住んでいた彼氏は、俺家に来ればと言ったが断わった。暴力が怖かったからだ❗️だが無理矢理彼氏の家に住むことになった。食事は自分持ちで、お風呂とトイレと洗面所と洗濯機と彼氏の部屋だけ使わせてもらっていた。彼氏の親は特に言わなかったが、居心地は良くなかった。
母親は彼氏と一緒に住んでるという事は知っていたが、見て見ぬ振りだった。
多分私にあまり関わりたくなかったのかもしれない。
車の免許をとれる年齢になり、就職して働いたお金を貯めて免許をとろうと思った。
でも私の知らないうちに勝手にローンを組んで、免許とるお金と渡された。いつの間にか毎月少しずつ私が払うことになっていた。その時彼氏が言った一言がお前と俺はお金で繋がっている!これでまた一緒にいられると言われた。今でも忘れられない言葉だ!この時だけは、親がしっかりしてれば、自分はこんな目に合わなかったのにと何度も思った。
知り合いから車も安く譲ってもらったと言って車も渡された。そのお金も車の免許をとるためのローンに含まれていた。
金額は多分50万くらいだったと思う。勝ってにやったことで私が払わないといけないのか理解出来なかった。それを言うと暴力を振るわれるのが怖くて、言えなかった。渋々毎月支払った。
そして高校を卒業した。

              社会人になった
就職して入社式にスーツを着なくてはいけなかったが、そんなお金もあるはずはなく友達に借りた。親が用意してくれるはずもなかった。
社会人になってすぐに彼氏とは別れた。そう簡単には別れられなかったが、なんとか別れられることができた。お金はその後も支払いをして、ボーナスで全額支払った。
その後私は結婚、出産をしました。その子達は今高校生と中学生です。

                      最後に
読んでいただきありがとうございました。
私が親になって、子供には自分のような思いはさせたくないという気持ちで子育てをしてきました。子育てをしていく中で、子供から教わる事も沢山ありました。だから今でも両親が私達にしてきたことが理解出来ません。
これから出産する方やシングルマザー、ファザーの方子育て中の方、忙しい時や疲れている時でも子供の話を聞いてあげてください。会話が一番大事だと私は思います。

  

                

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