おばあちゃんと過ごした7000日と4000日、そしてこれから過ごす日々(7000日の巻)
危篤。おばあちゃんが倒れた。危篤なんよ。
その電話を貰ったのは2003年の夏、私が大学1回生のときだった。
2限目の授業が終わり、生協へ行って昼飯を買おうと移動中だった。友達と話しながら移動していたからオカンからの電話に気付かず、3回目の着信でようやく出た第一声が「危篤」。10年も前なのに、その瞬間のことを今でもはっきりと覚えている。危篤という単語が直ぐに頭に浮かばず、既得という漢字が先に浮かんだぐらいだった。
大学は龍谷大学という京都にある大学で、おばあちゃんが倒れたのは大阪。運ばれた病院は実家から程近い。京阪に乗ったとして、1時間半はかかる。駄目だ間に合わない死に目に会えない。その瞬間に悟り、足が震えた。
事情を知った友達が血相を変えて「何してんねん!はよう行けよ!」と我が事のように言ってくれたお陰で我に返り、慌てて駅に向かった。
このときの1時間半ほど長く感じたことは無い。脳裏をずっと過っていたのは、昨日まで一緒だったおばあちゃんの姿だった。
高校では不登校も経験した私は、典型的な「大学デビュー」を経験し、夜遊びにも嵌り、寂しさを紛らわせるために、たとえ夜遅くても遊ぼうというメールがあれば飛んで駆けつけていた。
この前の日も、おばあちゃんと一緒に晩ご飯を食べる予定だったのに、友達から飲もうという誘いがあって、慌てて家を飛び出していた。そんな私を、おばあちゃんは呼び止めていた。
悲しそうな顔をするおばあちゃんを横目に、私は飲み会へと向かった。まるで明日も、おばあちゃんが生きていることが当たり前のように思って。
1時間半は、神に対する懺悔の時間でしかなかった。
もし私が昨日あんな振る舞いをしたからおばあちゃんが倒れたなら、どうか自分の一生を掛けて償うから、どうか命だけは奪わないで欲しい、と。悪魔と契約してもいいから、どうかおばあちゃんを助けて欲しい、と。それだけを祈っていた。
もともと私は「おばあちゃん子」だった。
父親のDVが原因で離婚した私の家庭は、DVに対する世間の目がまだ「嫁の我慢が足りないから」という時代の圧力に負けじと、お母さんが懸命に支えてくれていた。
そんなお母さんの努力も解らず、帰りが遅いことをおばあちゃんに愚痴っていると、いつも決まって「まぁ、そう言わんと」と慰め、こっそりと1000円札を渡してくれた。
いつも甘えさせてくれた。
初めてCDを買ったときの資金源もおばあちゃんだった。お昼ご飯食べに行こうと何度も誘ってくれた。お母さんの帰りが遅いときは代わりに晩ご飯を作ってくれた。
いつだって味方してくれた。
私が不登校になったときも、おばあちゃんは我が孫の一大事と、包丁片手に学校に乗り込まんばかりに「共感」してくれた。お母さんに叱られたときは、一緒になって謝ってくれた。
では、そんな私はおばあちゃんのために何をしただろうか。ご飯が美味しくないと文句を言い、これじゃ本が買えないとだまくらかし、いつだって愛されて当然と振る舞った。
おばあちゃんは、この偏屈な私を、無条件に、何も疑わずに、全てを受け入れてくれた。私はただそれに甘え、何かをするということが無かった。何かをしないといけない、そう気付いた時にはあまりにも遅過ぎた。
その後悔を、懺悔を、ただひたすらに1時間半、電車に揺られながら繰り返していた。
京橋駅で乗り換え、慌ててタクシーに乗り、言われた病院に向かった。救急の入り口を抜けると、直ぐに妹や、親戚の声がしたのが解った。
そこで、初めて、私は、自分の懺悔が、祈りが、あまりに愚かで、あまりに力不足—圧倒的なほどに力不足であることを理解した。
まるでドラマのワンシーンのように、看護婦がいったりきたりを繰り返す処置室。そこにオカンやおじいちゃん、親戚、妹が1つのベッドを囲み、何度もおばあちゃんの名前を叫んでいる。
おじいちゃんは、おばあちゃんの右手を握り、何度も、何度も声をかけていた。おばあちゃんはそれに応えること無く、まるで眠っているかのように全ての力を抜いてベッドに横たわっていた。
本当に辛い時、本当に苦しい時、声をあげて泣く事ができない—。そんなこと、知らなかった。
目の前のすべてを認めたくなかった。現実だと理解したくなかった。
無数の管が全身に巻き付いたおばあちゃん。昨日、あの悲しそうな顔をしていたおばあちゃんではなかった。私の知っているおばあちゃんではなかった。
声にならない声が、鼻から漏れた。
何ということをしてしまったのだろう。
なんで、もっと愛してくれてありがとうと言えなかったのだろう。
父親がいないくらいでグレそうになった私を無条件に愛してくれてありがとうと。
ただ、ありがとうと言えなかった自分を、思いっきりぶん殴りたかった。
7000日。
私が生まれて7000日間だ。
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学—おばあちゃんと過ごした日々。
札幌では私を乗せてソリに乗り、途中でこけて頭から突っ込んだこともあった。
本ばかり読む私を神童だと褒めてくれた。
一緒に市場に買い物にいって、食べ物をつまみ食いしたのを笑って許してくれた。
天ぷらをつくるときは何故かTシャツ1枚で、油が飛ぶたびに熱い熱いと言っていた。
おじいちゃんと一緒に行った旅行先で、カニを食べ、お寿司を食べた。
一緒に百貨店に行き、お昼ご飯を食べ、帰りは御座候を買った。
1度も怒られたことはなかった。
思い出の1つ1つが、7000日に刻まれている。
しかし、次の1日があるかのように、また新しい思い出が刻まれるかのように過ごしていた私の明日は、
絶対にやってこないのだと解った。
もう、おばあちゃんと一緒に、1日を過ごせない。
世の中に退屈な毎日なんて1日たりとも存在しない。当たり前のものなんて何1つ無いのだ。
声にならない声をあげて、私はおばあちゃんの元へ近付いた。
私は、おばあちゃんの手を握り、その場で膝を付け、ただ一心不乱に祈った。
5分、10分、20分。死んでしまうなど一切思いたくなかった。今までの感謝など一切考えなたくなかった。生きる。何があっても生きる。おばあちゃんは絶対に生きる。そのために自分の魂を売ってもいい。私が私たりえたのは、おばあちゃんがいたからなのだから。
もう1度、旅行に行こう。
もう1度、ご飯を食べに行こう。
もう1度、本屋さんに行こう。
今度は、一人暮らししている家に来てよ。
バイト先にも、顔を見せてよ。うんとサービスするから。
良い点数取ったから褒めてよ。
お願いだから、今度こそは絶対に当たり前だと思わないから、何一つ変わらない普通の日々を過ごさせてよ。
30分ほど経ったと思う。
強く握り締めていたおばあちゃんの掌に、反応があった気がした。
私が発狂したようにそれを繰り返すと、もう片方の手を握っていたおじいちゃんが「あぁ…」と声を漏らした。本当に、か細い、しかし暖かい声だった。
そして、おばあちゃんは、声にならない小さな声をあげて、うっすらと目を開いた。
19歳にして、初めて腰が抜けた。その場に私はへたり込んだ。
お母さんのほうを見ると、目を閉じて、手を眉間にあてていた。そのときに、お母さんにとって、おばあちゃんはお母さんだったことに気付いた。さぞかし、辛かったに違いなかった。自分の母親の余命宣告を受けて、平然としている子供なんて居るわけがない。
実は、その後のことを、あまり覚えていない。
どうやって家に帰ったのかさえも記憶からすっかり抜け落ちてしまっている。記憶なんて曖昧で、それなのに真実のような顔をして、どうどうとのさばっているから厄介だ。
ただ、家に帰って、これからのことを相談しようとお母さんと一緒におじいちゃんの家に行った時、水屋に、鉢いっぱいに入った「肉じゃが」があったのを見て「これ食べたい」と言ったことだけは覚えている。
お母さんは「食い気だけは一人前やなぁ」と茶化すと、その肉じゃがを小分けにしてくれて、レンジでチンしてくれた。
その肉じゃが—普段は口にしなかった肉じゃがの味。忘れられない。醤油と、砂糖、タマネギ、ジャガイモ、人参、牛肉。シンプルで、甘くて、懐かしい。
思わず漏らしたその言葉に、生きていることの喜びと、これが2度と無いかもしれない悲しみとで、また涙を流してしまった。
おばあちゃんは、この肉じゃがを、どんな気持ちで鉢に移したのだろう。そう考えるだけで、涙が止まらなかった。
その後、おばあちゃんは無事に退院した。
そして、私がこれからも自分の人生におばあちゃんの存在を刻もうと1日を過ごそうとするのに対して、おばあちゃんは痴呆症になり、一緒に過ごした1日1日を忘れてしまう日々が始まった。
その数、4000日。
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