雑誌を作っていたころ(02)

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後編: 雑誌を作っていたころ(03)

「月刊太陽」編集部


 大学4年になるまで、就職が大変なことだとは思っていなかった。

 というより、真剣にそのことを考えていなかったのだろう。なんとなく、なるようになって、どこかの会社員におさまる。そんなふうに漠然と楽観していたような気がする。

 そのころぼくが描いていた夢は、どこかの企業の研究所に勤めること。芝生に囲まれた白亜の3階建てがオフィスで、昼休みにぼくは芝生に寝ころんでSF小説を読んでいる。するとそこに、バレーボールのボールがころころと転がってきて、「すみませーん」と美女の声が。そこから恋が芽ばえて…。そんなことを妄想していた。


 しかし現実は甘くなかった。「ホメイニ師」という名前が連日新聞に登場するようになり、その騒動はやがて第二次オイルショックとなってこの国を揺さぶった。

「来年は理学部卒は採らないよ。即戦力の工学部ならともかく、理学部は研究職だから」

 会社訪問でそう聞かされ、理系の就職が困難であることを思い知った。


「ねえ、就職どうなった? わたしね、出版社受けることにしたの。それで、感想文出さなきゃならないから、一緒に本屋さんに行って選ぶの手伝ってくれる?」

 友人の妹で、彼女だったり、友だちだったりした子が電話してきた。気晴らしに池袋の芳林堂書店に出かけた。

 彼女が受けたいという平凡社は、日本屈指の百科事典を出版している会社だ。よく「平凡パンチ」の平凡出版(現マガジンハウス)と間違えられるが、まったくの別会社だ。

 彼女に池波正太郎のエッセイ集『散歩のとき、何か食べたくなって』を選び、自分用に宇宙科学の本を手に取った。なぜだかわからなかったが、受けてみたくなったのだ。


 彼女は書類選考で落ち、ぼくには筆記試験の案内が届いた。

「読んでみるとおいしそうで、よだれがたれそうになりました」の繰り返しである彼女の感想文では、そうなっても仕方がない。何度もそのことを指摘したのだが、

「思った通りに書かないと、わたしの文章じゃない」

 と、取り合ってもらえなかった。


 試験会場には、驚くほどたくさんの学生がいた。どこかの試験と重なっているのかと思ったが、すべて平凡社を受ける人たちだった。あとで聞いたが、応募者は3000人、筆記試験を受けた人は1000人だったという。合格したのはぼくを入れて4人だったから、すごい倍率だ。それを知っていたら、受けなかったと思う。

 研修期間中に労組の人が来て、

「会社が用意しているポストは、百科事典、雑誌、広告、製作だ。お前たちがどこに配属になるかは、課長たちの綱引きで決まる。ま、がんばれよ」

 と言った。

 なぜそんなことがわかるのか不思議だったが、どこでもいいと思っていた。


「山崎君は雑誌1課。『月刊太陽』編集部に配属」と総務課長に辞令を渡され、5階の編集部に行く。嵐山光三郎編集長以下、編集部の人たちが迎えてくれた。いい職場に来たと感じた。

 見習いとして、毎朝9時半の定時より早く編集部に入った。タイムカードはいつも9時17分。たまたま出勤初日に打刻したらその時間だったので、その時刻を守ろうと決めていた。すぐに守衛さんに覚えられた。

 午前中に出社してくる編集部員はほとんどいない。ぼくの仕事は、電話番と前夜の酒盛りの片づけ、編集部の掃除だ。アルバイトの女子大生と皿を洗いながら雑談した。楽しかった。


 最初の取材は「盆栽」の特集号だった。キャップの渡邉直樹さん(のちの「spa!」編集長、現大正大学教授)と同行して、九州の盆栽園を撮影取材する仕事だ。生まれて初めて飛行機に乗った。中洲で飲んだ。牛の尻尾を食べた。

 しかしこの号には苦い思い出がある。写真のキャプション(説明文)で、盆栽の値段を間違えてしまったのだ。それも、桁を間違えたのだ。幸い、校了時にデスクの筒井さんが「どうもおかしい」と怪しんでくれて、ぼくの取材ノートを引っ張り出し、間違いを確認してくれたので事なきを得た。翌日、こっぴどく叱られた。「自己批判書」を書いて編集部内に回覧した。ものすごく凹んだ。


 自分で企画した特集が本になったのは、配属されてちょうど1年後のことだった。「大発明・珍発明500集」というタイトルだ。この企画は、配属されてすぐに嵐山編集長と焼き肉屋に行ったときに生まれた。

「お前は、なにか興味を持っていることとかないのか?」

「うちの特集にできそうなものでですか?」

「そうだ。だが鉄道はダメだぞ。SLブームは去ったからな」

「個人的にはSFとか発明とかに興味がありますが」

「SFはちょっとな。発明はいいかもしれない。今日から暇な時間を使ってリサーチしろ。毎週の課会で聞くからな」


 それから長い調査とダメ出しの繰り返しを経て、自分の考えたものが雑誌の特集になった。表紙になりそうなものを探したあげくに、イベント屋さんが持っていた蒸気自動車に行き着いた。

 取材でかけずり回り、デザイナーとマンツーマンで写真選びをした。原稿書きは編集部に2週間泊まり込んで仕上げた。


 見本が届いたので、台車で取りに行った。感慨無量でエレベーターの天井を見上げていると、同乗していた隣の編集部の先輩記者が聞いてきた。

「これ、きみが企画した特集?」

「はい。初めての特集です」

「そうか、嬉しいもんだよな。俺も覚えているよ。ちょっと見せて……あれっ? 表紙のここ、誤植じゃないか?」

「えっ!」

 マジで心臓が止まったと思った。

「ははは、うそうそ。新人はみんなやられるんだよ」

 エレベーターの床に、へたり込んだ。涙目になっていた。


 表紙をスキャンするために、あらためてこの本を眺めてみる。昭和55年5月発行。遠い昔だ。登場している人の中には故人も多い。苦労してアポを取ったソニーの井深大氏、イラストレーターの真鍋博氏。たくさんの人ともう会えないが、少なくともこの本を見れば、会ったときのことを新鮮に思い出せる。これがぼくの財産なのかもしれない。

 この号は実売率90%を記録。「太陽らしくない」という社内批判は、その数字の前に声を潜めた。




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雑誌を作っていたころ(03)

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