東京砂漠

大阪で生まれ育った私は、東京に行きたがっていました。
なんでかって? ナイショで漫画家になりたかったのです。
日本の出版社は東京にあるから、東京に行かなきゃ! と思っていたのです。
ちなみに、自分の作品を一度も完成させたことがなく、ただ東京にいけばよいと思っていました。ナイショにしてたということは、心のどこかで自分には実現できないとわかっていたのかもしれません。
とにかく、高校出たら東京いく!
といってたのですが、理由はナイショですし、中高と私立の進学校に行かせてもらってたので、当然親に反対されまして、大学に行きました。この時なんで東京の大学に行くという選択肢を思いつかなかったのかわかりません。
大学在学中にインターネットに出会い、どっぷりとハマって漫画をかかなくなりましたが、アタマの切替えが効かず「東京にいく」と言ってました。

池袋の会社

学生時代にいくらかバイトをしていまして、そのうちの1つがとあるレンタルサーバ会社でした。始めたとたん病気で入院することになってしまい、実際ほとんど何もできずにやめてしまったものの、病気で就職活動できなかった私をその会社がひろいあげ、池袋にできたばかりの東京支社に入れてくれたのです。
というわけで「東京に行く」ということが目標になってた私は「ちょっと苦労かってくるわ」といって引越し、嬉々として東京暮らしを始めました。
その後も中二病の後遺症をひきずっていたためか上り調子の会社での平和な暮らしに飽き足りず「絵をかく」といって退職。でもやっぱり貯金が減っていくと怖くてゾワゾワする、ということで付け焼刃の知識でWebデザインをしたり、バイトや派遣社員をして生活費をまかなっていました。

渋谷の会社

行くとこ行くとこ、楽しく仕事ができるイイ職場ばかり。そのころは派遣先で気の合う女性の上司(マヨラー)と新橋のガード下でオヤジ呑みをするのが楽しみでした。甘かったのだと思います。渋谷の語学スクールの、以下のようなお誘いに乗ってしまいました。
 あなた次第で素敵な経歴と肩書をゲット!
 新しい支店(まだない)をまかされるかも☆
絵に描いた餅を見せられて浮足立って転職した私でしたが、すぐにその幻影は崩れました。常日頃から多岐にわたる業務に追われ、仕事が遅いと罵られ、寝食を忘れて働き、気づけば2ヵ月で7kg減量していました。
たまに個人指導用の教室で社長から数時間の説教をくらい、マネージャーには「あんたのせいで怒られる」と文句を言われ、そのうち給料が減らされ、おまえにやる席はないと言われ、月給3分の1で自宅で仕事してました。
夜中でも自宅に社長から電話がかかってくるので、いつも電話の呼び出し音にビクビクしていました。常にダメ人間扱いされて、自分は使えない、生きている価値がないと思いはじめていました。私は叩かれて育つ子ではなく、折れる側の子でした。

東京砂漠

そこで得たビジネスマインドといいますか、とことんまで自分を対応させていく覚悟のようなものは、その後どの仕事においても役立ったのですが、その会社で要求されるレベルが私には厳しすぎたのだと思います。
それにしても、その会社の業績が悪化して給料が払えない、悪いけどバイトでもしてくれ、というのは正直に言われていました。
雇用保険も入ってなくて(アレ?)、国民健康保険と年金を滞納していて、給料は家賃も払えないほど雀の涙だったので、休みの日は日雇いのバイトをしていました。
工場での流れ作業やピッキング。
金のない集団が海辺のでかい倉庫に連れて行かれるとか、カイジ気分ですよね。
雨が降るなかでのビラくばり。
早く終わらせたくて人の分まで配りまくったあと、慣れないバイトの作業服ポッケから携帯がトイレにドボン。ピコピコ光りながらブジジジジ…と断末魔の叫びをあげる携帯に、1日分の稼ぎがとんでいってショボン。
雪がチラつくなかでの看板もち。
通りかかる近隣住民の皆様に「大丈夫か」と声掛けいただく中、手の感覚がなくなり看板を倒してしまいそうになり、必死で看板を守ってできた指の傷は今も跡が残っています。

銀座の会社

そんな感じで「東京砂漠」をヒシヒシ感じながら暮らすうち、銀座にあるウエブ制作会社のパート募集を見つけたのです。そこはまさに砂漠の中のオアシスでした。
仕事は面白く、上司は無駄に怒鳴ったりしない。めっちゃくちゃ頭の回転が早くて正義感のある人柄。
それまでWebデザインは自己流でしたが、アシスタントとしてWebディレクションの仕事を教えてもらい、新しい知識をたくさんもらいました。また、私の得意分野を生かすような仕事が与えられ、おホメの言葉をいただくことまでありました。
大喜びで働く私に
YOU、フルタイムで雇うから渋谷の会社やめちゃいなよ!
とのお誘い。
ちゃんと雇用保険も社会保険も入ってくれるって!
水! 水があった! 砂漠に水が!

夢の漫画家

数年後、悪性腫瘍がみつかり、ビビった私は「親のそばにいてあげたい」といって大阪の実家に戻ったのですが、手術後もオアシスな会社から在宅でお仕事をいただいてました。もちろん渋谷の会社のように社長の夜中の電話説教に怯えることもなく。
ただ、悪性腫瘍でビビった私は「死ぬ前にやっておきたいことリスト」を作ってしまいまして。大阪の会社に転職して残業代など稼げるだけ稼いで退職。ヨーロッパ一人旅、留学、親と旅行、恋人さがしからの結婚。ひととおりやらせていただきました。
で、最初の夢の話ですが。
私には漫画を描くより、読むほうが性に合っているとようやく気づきました。いま、漫画家である夫の活躍を精いっぱい応援する毎日です。

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