「キャプテンたくじ」 ball de amigo!

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サッカーボール持ってブラジル行くんだから、自分のサッカーキャリアがどれくらいあんのか、とりあえず書いておかなきゃいけないだろうと思ってるから書く。たぶん長くなるだろうから、何日かに分けて書くかも。 読んでね。

で、僕のサッカーライフの上で伝えなきゃいけないこと、実はそれがサッカーではなく「ラグビー」なんだw

僕は小学校1年から6年間 長崎市のラグビースクールでラグビーをやっていた。気がついたら毎週日曜日、黄色と赤の横じまの長袖ジャージを着せられて親父の車に乗せられてグランドに向かっていた。。

当時のラグビー人気は凄かったらしく、そのスクールに入るのにも抽選で当たった奴しか入れなかったらしい。僕は三男で兄貴が2人いるが、長男と僕と2人も抽選にあたったみたいで、ラグビーをやってたらしい親父もさぞ喜んだに違いない。

僕が小学校3年の時に赴任してきた担任の西川先生が佐古小学校サッカー部を創設した。サッカー部に入れるのは4年生からで、早くサッカーしたくて待ち遠しくてしょうがなかった記憶がある。 僕の兄貴は二人ともすぐにサッカー部に入り、下校中に練習する兄貴の姿や兄貴の同級生、それを指導する西川先生を校門の外からよく眺めていた。

小学3年の終わりの頃、西川先生の家に遊びに行ったことがある。そして皆でブランン管の映像に釘つけになったてた。次男の兄貴名はコージだがジーコが好きでたまらないみたいなことを言っていた。

僕がテレビで見た初めてのサッカー。映像もクリアではない国際放送で、その中に映ってたのは黄色いユニホームのブラジル。 

PK戦でセレソンの最初のキッカーがPKを外したんだけど、そのありえない蹴り方が僕の中では衝撃で記憶の中に今でも残っている。

助走なしで蹴ってたw ソクラテス 舐めてんのかw

小学4年になって待ちに待ったサッカー部に入った。

練習は月、水、金と土曜日は学校が午前中までなので午後から。日曜日は練習試合や公式戦がなければ休みだった。次男の兄貴が年長になったので、僕は兄貴の同級生からよく可愛がられ、弄られ役になった。

中学に進学した長男はサッカー部に入らず、ラグビースクールに残り、学校が終わってから電車に乗って練習に行き、いつも帰りが遅かった。

サッカー部の練習は5年生と6年生がメインで、4年生は球拾いと、グランドの端にある殆ど誰も使わないバスケットゴールがあるスペースでひたすらミニゲームをやっていた。

ミニゲームと言っても半分ほったらかしの遊びで、西川先生の熱血指導のもとグランド全面で汗を流す5.6年生とは違い、疲れたらサッカーボールに座りお喋りはじめたり、バスケット始めたりしてよく怒られてた。 たまーに上手い奴が呼ばれて上級者と一緒にプレーしてて、それがとても羨ましかった。

その上手い奴とか、その次に上手い奴とか、日が経つに連れ、つぎつぎ練習に参加し始めて、西川先生の監督がまったく届かなくなった僕と数人はとうとうボールを置きをジャングルジムにも手を伸ばし始め、隣りのプールの門を超え、冬の間に放流した鯉を「蛾」で釣れるかなんてやっていた。

僕は体力が平均以下で足の速さは下から数えたほうが断然に近い。学年が上がる度にそれを実感していたのである。

今の小学生のサッカー指導は想像もつかない程進化してるだろうが、昔は足が速い奴ほど上手い奴扱いされてた。サッカーに対する劣等感は既に感じつつも、皆とボールを蹴る時間はとても楽しかった。

何よりもゴールを決めた時の爽快感は全てのものを超越し、ほんの少しの時間だけど、超大作の映画の主人公になった気分がしていた。

西川先生が手配して集団で購入したスパイクもきて、僕のサッカーライフがスタートしたのである。

そして毎週必ずくる日曜日の朝、僕は横縞のジャージを着せられ親父のブルーバードに乗せられてラグビースクールに通うのである。

今日は5月3日 ゴールデンのウィークの初日 8時10分。繁忙期のシラス屋のシフトで運よくお休みを頂いて日差しが差し込む1Rで書いている。

朝からこんなことをすると執筆家になった気分ではあるが、僕の文章を見ていただければ分かる通り、難しい漢字は使わない。というか知らない。

文章構成とかわからないw 全く気にしてません。

「気持ち」でプレーしているのである。気持ちが一番、電話は2番。でもカステラは福砂屋派である。

僕は国語が大の苦手で、通知表は5段階でいつも2。でも2なりの渾身の文章である。 こんなにパソコンに触れるのは「エロサイト」見るとき以外初めてでタイピングの練習しとけば良かったと思うし。

なんせ幼少の記憶を戻しながら書いてるのでいつもと違う脳を使っているせいか、朝起きると頭がボーとして止まらないw

日曜日の朝になると親父のブルーバードに載せられて、長崎市営サッカーラグビー場に練習に行く。サッカーの大会や、健やかゲートボール大会など、何もイベントが無い以外はラグビースクールが一日貸切りしてるのである。 

朝の9時前にグランド近くにポイと車から降ろされて、テケテケ歩いていく。グランドに着くと俺と同じ黄色と赤の横じまのユニホームを着た奴らが小学1年から6年まで200人ぐらいがうじゃうじゃだんご状態になっている。

 自分の学年を探して近くに荷物を置き、すでに先に着いて遊んでいる黄色と赤の横じまの生徒の輪の中にに入っていく。と言いたいが全く入れないのである。

長崎市の北部の小学校や中心より北の付属の小学校から来てる生徒が多く、みんな仲良しである程度の組織がすでに形成されていた。当たり前だけど俺が通ってた佐古小学校から通ってた生徒は誰一人もおらず、中心街から通う生徒さえ数人程だった。完全なアウェーでの戦いであった。  

誰かに話しかけても一言で終わり、たまには無視され。無視だ。 

その局面をプレーで打開できる身体能力があれば一躍皆の仲間入りなんだろうが、ここでも足の遅さと体力のなさは十分に発揮し、なおかつアウェーとなるともはや太刀打ちできなかった。

いじめらてる訳ではなかったが、全く相手にされてなかったのである。もちろんここでも足が速いやつがその中のリーダー的役割を果たしていて、楕円形のボールを持ってチーターのように駆け抜ける姿を乙女が見るように僕は良く眺めていたもんだ。

平日に学校で無邪気に騒いでいる性格とは対照的に日曜日になると一切の会話もなく、一人お経を唱えだし、ただただ無の時間が過ぎるのを待つだけである。孤独感w これが多分孤独感。 そして練習が終わるころに今までどこにいたのか親父の姿がひょこっと現れ、車に乗り家に帰るのである。

ラグビーが嫌いという訳ではなかったんだが、何よりも辛かったのが、サッカーの練習試合に行けなかったことだ。もちろん一軍の試合に出ることはないが2軍戦!だってある。月、水、金、土と練習して、たまにくる日曜日の練習試合に参加できずにラグビーに行く。これが一番辛かった。

練習試合の翌日の月曜日の朝、クラスメートから2軍戦の試合をした、ゴールを決めた何て話を聞くと悔しくて悔しくて!

そしてとうとう来たる日曜日の朝、俺は「脱走」した。

ジャージに着替え階段を下りるといつものようにエンジンを噴かせたブルーバードが待機している。でもそこに親父の姿が見えない。 

今だ!  ここぞとばかりに俺は逃げた。全速力のスピードで。

2軒隣にある幼なじみの麺屋の息子「ヒロ」の家を通過し、病院の横の坂をのぼり。そう、その道は学校へ行く通学路だ。その日はサッカーの練習試合がある日だ。次男の兄貴はもちろ行っている。他校の学校であるのでそこには誰もいなはずなんだけど。

誰かに聞いてほしくて大泣きしながら、ひたすら走った。病院の裏手の細い通りまで来た時、襟をグイッと掴まれた。母親だ。

鬼のような表情の母親はその場で俺に20発以上のビンタを食らわし、襟を掴んで引きずりながら戻り歯から血が垂れてかけてる俺をブルーバードに投げ入れた。 

と同時に親父は車を何事もなかったように発進した。親父との会話は一切なく静まりかえった車内の中に、決まって流れる日曜ラジオのBGMだけが鳴り響いていた。僕を張り倒してた時に母親が吐いた言葉が蘇る。

「誰でも行けるわけじゃ無いとよ」

起死回生の必死の抵抗も時の流れを止めることはできずに万事休す。もはや今後抵抗する事は不可能で、お経だけでは足りず、とうとうグランドに十字架を切っって入るようになった。

てのは嘘でこの4年生の時期は 毎日サッカーを練習して、遊んでは、試合をさせて貰えずラグビーをする。という週のサイクルを繰り返す僕にとっては長く過酷な1年間だった。

小学校5年生になると周りの環境も少しずつ変化してきた。 まず次男の兄貴が卒業。中学でもサッカー部に入った。兄貴が学校にいなくなったことで、僕は正直楽になった。 

気を使う僕は、兄貴、兄貴の同級生からの変なプレッシャーから解放されたんだと思う。サッカーが下手糞だからとかそんなんじゃなく、学校生活においてもやっぱり兄貴がいたことで、うまくは言えないが360度

「気を使うアンテナ」を張りめぐらせていたのだろう。「川端の弟」を演じなければならなかったからだ。余計な事を考えることもなくなり、僕の性格はいっそう明るくなっていった。そしてこの学年、もう一つの変化 一人の転入生がやってきた。

「土井たかし」

小学5年で転入してきた土井たかし。教壇の横に仁王立ちで紹介を受ける彼の姿に一番後ろの席から見た俺は「黒船だ!」と思って座ってた椅子から転げそうになった。

紹介している野村先生の身長より高い。そして骨太でデカイ。テンパーで睨みを利かせた顔はゴリラそのもので、なおかつ眩しいほどの色黒だったのである。 

初日の授業の合間にすでに数人が絡んでいたが、僕は異国から来た初めての外人に戸惑いを感じやっと話せたのが給食前だった。 

話してみてやっと日本人だと分かり安心した。

サッカーやってたからサッカー部に入るという噂が回っていたので本当かどうか確かめたかった。そう尋ねると、振りむきざまに俺の顔を見つめ、無言で大きく一回うなずき、白い歯をニヤリと見せたのである。俺はゴリラに捕まえられた気分になりしばらく震えがとまらなかったのである。

同じサッカー部の「わたる」と「まゆみ」があだ名をつけた。スピード、ドリブル、テクニック、身長、胸板、骨格、筋肉、パワー、テンパー、色黒

当時5年生にして全ての才能を兼ね合わせた救世主。

「どいぴー」がサッカー部に入部した。

★「どいぴー」の入部もありサッカー部がいっそう楽しくなった。6年生も目を光らせる生徒が数人はいたが、「どいぴー」が置き去りにしてしまった。完全に5年生主体のチームになったのである。 「どいぴー」以外の同級生にもうまい奴はいた。

「わたる」「やーちゃん」「まゆみ」「しろお」「うえの」名前を挙げればきりがないが、ようはみんな僕より脚が速いのである。

サッカーがとても楽しくなってきたこの時期、さらに僕らをインスパイヤーさせるブームが世間ではすでに巻き起こった。

「キャプテン翼」の到来である。


★「バナナシュート」「ドライブシュート」「ワンツー」「オーバーヘッド」「ツインボレーシュート」「三角飛び」 当時野球に支配されてた日本のスポーツ界において、挑戦状を叩きつける意味合いを持つ革命的サッカー漫画であったと思う。

みんながみんな登場人物の真似をした。「どいぴー」は日向小次郎の真似をし全然関係ない学校生活でも1日中袖をまくり、「みっちゃん」はみさき君で脇役ながら連携プレーをアピール。「まゆみ」には無理やり三角飛びをやらせ、ゴールポストに飛んで蹴りをいれてはケガをしてた。 

「たけがわ」なんて翼になりきりで、

★出勤です。   つづく。。。

5年の初めに転校してしまったが、「たけがわ」なんて翼君になりきりで、自分のボールにマジックペンで「ボールは友達」とでか文字を書き、わざわざ車が走るとこをドリブルで走りだしたり。「危ねぇからやめろ」といったら「諦めちゃ駄目だ」なんて言いだして本気でバカだった。

僕はというと、富良野FCの三杉淳だ。

なぜならば一番もてるからである。足が遅いのは心臓が悪いからだということにして胸を押さえては女の視線を待っていたのである。最低である。

★5年生になっても日曜日はラグビ-スクールだ。相変わらず親父が運転する車の中は同じラジオのBGMが流れ続けていた。 気がつけば生徒数が相当減っていたことに驚きだったのである。 驚きいうか、やめた奴らが羨ましかったのである。

なんせ幼少の記憶なので定かではないが多い時で一学年5,60人は軽く超えていた。5年生になるとそれが30人くらいまで減っていて、自動的に3軍から2軍に昇格してしまったのである。

そのころの僕は学校生活が楽しかったので、ラグビースクールにいる時間はさほど気にしなくなっていった。所詮日曜の午前中3時間程度だったからだ。

★僕の日曜日の午前中のスタンスは、話しかけてくる奴には返事して会話をはじめる。話しかけても無視する奴には永久に無視で返す。 

純粋な僕は無視された時が一番辛いので、自分から話すことなんて一回もなかった。嫌だとかいう感情はすでに超えていて、小学五年生にしては既に完全に醒めた性格をつらぬく一面を持っていたのである。

★そんな5年生時の初めにスクールに転入生が来たのである。学校ではなくラグビースクールなので転入という言い方はおかしいだろうが、俺のブログなんでここは

「転入生」がきたのである。

吉田 田中 寺田 という苗字に何故かみんなが入ってる3人の巨漢がやってきたのだ。体のサイズだけで言えば「どいぴー」の倍だ!

★「ようこそラグビースクールへ」ってのは嘘で体が大きいし鈍そうだから正直「大丈夫かな~」「いじめられないかな~」と一人心配していたのである。そして友達が誰もいない僕は「こいつらと仲良くなれたらいいな~」と少しばかり期待してたのである。

3人は翌週の日曜日から練習に参加した。ピカピカの赤と黄色の横じまのジャージを着て。とうとう僕は長い長い瞑想状態の数年間の封印を溶かし、少しづつ3人にジャブを入れてみた。

3人ともが付いてるのに性格は全く異なった。「田中」は人見知りだけどたまに笑って見せたりして、僕は純粋に嬉しかったのである。

「吉田」は小学校が中心街から比較的近く、同じエリアから通ってることに親近感を抱き、一言二言のやりとりを何回かやった記憶がある。こんなこと今までに一度もなかった僕の中では

「無実の罪で捕らわれてようやく娑婆に出れた」感覚に負けない出来事だったのだ。「寺田」は一言しか話してないがもちろん良い印象を受けた。返事の口調から自信と強さがみなぎっていた。

★そして「寺田」に事件が起こったのである。寺田に事件で「寺田屋事件」

★寺田 自信満々の寺田は強い口調で物を語っていた。3人の中でもマッチョに近かったきがする。練習の合間に寺田を観察してたが

その堂々たる態度はひょっとしたらこのスクールの上手いメンツと互角に割って入っていくんじゃないかと期待していた。。やらかしてくれる奴が昔から大好きだからだ。

その日はいつも使っている市営サッカーラグビー場が使われていたために、長崎大学の医学部のグランドで練習した。前日に振った大雨の影響で、なおかつ水はけが悪いこのグランドはぬかるんで、ところどこ大きい水溜まりができていた。

寺田は人一倍元気で、遠くからでも良く声が聞こえてた。「ハイ!パス、パス!」 面白い奴が入ってきたぞ。楽しくなったらいいな。

そう期待して残り時間も近づき最後の練習のランパスも終わろうろしていた。帰る前だし汚れたくないから、みんな水たまりを交わしながらボールを落とさないようにしてた。

 ボールを落とすとパスを回すみんなの手が汚れてしまうので結構なブーイングもんだった。そして練習が終わった直後事件が起こったのである。

★荷物置き場に向かって歩きだしてたら後ろで大勢の笑い声が聞こえた。振り返ると寺田が大きな水溜まりの中に一人、爆笑するみんなに囲まれてひざまずいて座っている。罵声浴びせる声まではっきり聞こえた。

寺田は沼に浸かったかのように顔も含め全身泥だらけになり、両手を茫然と眺めていた。

すべってダイブしちゃったのか。寺田は今までの自信を全て失ったかのような表情で罵声を浴びせかけるみんなをゆっくりと見回していたのである。

荷物置き場についてもう一度グランドを振り向いた。こちらに向かって来るみんなの先の遠くに見える大きな水溜まりの中に一人立ち、寺田は泣いていた。

その次の週から寺田はスクールに来ることはなかった。

★僕はどうしてやることもできなかった。 弱い立場になった彼を味方する勇気がなかったんだ。 怖くて。 それどころか僕も一緒になって遠くから少しだけ笑ったんだ。

強いほうについてしまった事を今でも後悔している。僕の記憶の負の遺産である。

★5年生の夏休みの日曜日 とうとう練習試合に参加できた。初めて日曜日にラグビーに行かずサッカーの試合に行くことができた「サッカー記念日」である。

「遅くなってごめん。みなんだいぶ長く待たせたな、10番でいいんだっけ?10番はどいぴーだから、俺は8番か?しょうがねーなー譲ってやるけん」

他校の校舎を歩くみんなの後ろを、ありもしない妄想をしながトコトコついていく。ご機嫌最高だったのだ。 初めていく他校のグランドも新鮮で、ここでゴール決めて知らない子から告白されたら困る

なんて事まで考えはじめていたが現実は声だしと球拾いだった。

★「どいぴー」「みっちゃん」「やーちゃん」「まゆみ」「しろお」「うえの」「くにまつ」「たがわ」

試合前のウォーミングアップでシュート練習する同級生をゴール裏から眺めてて、たまに外して飛んでくるボールを拾う僕の姿はとても屈辱的だった。

「へたくそ!」なんて思いながらボールを拾ってはグランドに蹴り返していた。僕はスピードも体力も皆より衰えてはいたが、キック力と正確さにはある程度皆より優れているんじゃないかと実感しつつあったからだ。

★創部4年目でまだ練習試合も公式戦も、勝ち星がない佐古小サッカー部は僕のサッカー記念日に勝利を捧げてはくれなかった。すでに前半4-0でほぼ負けが分かってるからだ。僕は上級生から教わった「サーカー応援ソング」をベンチで歌ってた。

「ウチのキーパー凄い!凄い!どんな球でもキャッチ!キャッチ!、ヤーヤヤヤーヤ、ヤーヤヤヤヤヤ」「みーんな頑張れ佐古小イレブン、佐古小イレブン おお~!」「ウチのバックは凄い!凄い!」

「ぼこぼこ」にやられていたのである。

どうやらすぐ隣の対戦相手のベンチからも同じメロディーが聞こえてきた。小学校名が変わったでけで、僕はこのダサい応援ソングが先輩たちのオリジナルじゃない事を知りとても安心したのである。

そして後半も半分くらい過ぎて声出す元気さえなくなってきたころ。僕のサッカー人生初デビューを迎えたのである。

★5万人を埋め尽くす歴史あるスタジアム。歓喜の中に包まれて交代の選手をサイドラインで待ち受ける。光る電光掲示板に僕の名前がと顔がでかでかと乗り。。。。一回大きく深呼吸し僕はピッチにかけこんでいった。

★昨日見た夢と対照的に僕のデビューは突然訪れた。「たくじ、いくぞ。」西川先生が振り向きざまに俺を見て叫んだ。応援ソングで歌い疲れていた僕はとっさに「どこにですか?」と返事してしまったのだ。

「急いで準備しろ!」西川先生は僕を怒鳴りつけ、慌てて準備にとりかかった。グランドを見ると「しろお」が倒れている。足を抑えて痛たそうな顔をしていた。「試合だ!」痛そうだけど「試合だ!」

試合再開もしばらく時間が掛かりそうで、そして僕の準備も時間が掛かりそうだった。すねあてがなかったのだ。試合を全くやっていなかった僕には必要ないものだったんだ。

グランド内で倒れてる「しろお」を介抱してる西川先生をちらっと見ては「まだ大丈夫」慌てて下級生に「すねあて」ないか探し回った。

けれど試合に出るはずのない下級生は誰も持っておらず、僕は意を決して隣のベンチで座ってる対戦相手の保護者に聞きに行ったのである。

「俺のデビューにふさわしい「すねあて」を貸してください。」もちろん嘘だがメガネのおばちゃんは優しく誰かのバックから取り出して貸してくれた。

★「しろお」がグランドの反対側のラインに出されると同時にレフリーが僕を呼んだ。「たくじ~がんばらんばよ~!」残り時間15分 すでにスコアは5-0 完全アウェーの中 引率の保護者のババアの声援を受け背番号18をつけた僕はピッチに入っていった。

★もちろんゴールを決めたい僕はFWの方へ向かっていたが「わたる」に「卓治はあっちばい」言われ、着いたポジションは左SBだった。

左から右から真ん中から攻められ続けシュートを打たれ、ゴールキックでリスタート。もはやシュート練習と化していたこの試合でボールに触ることすらできなかった。

ドリブルしてきてはあっさり抜かれ追いつくこともできず、点が入らないのが不思議なくらいだった。ピッチに立って10分もたたないがすでに僕はバテバテだった。そしてとうとう追加点を献上してしまった。もはや戦意喪失し、苛立っているDFとキーパーに近づいて僕は言った。

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