私のアメリカ移住 ⑵

離婚後、3歳の息子の手を引き渡米。私の条件下で出来たアメリカ移住。その経緯を語る、連載実話。


私は、生後1歳6ヶ月の時に、大病を経験している。

「敗血症」

簡単に言えば、血液が腐る病気。

肺炎や、腎盂炎から、病原体が血液中に入り込み、体全体に回り、高熱・震え・血圧低下・意識障害を起こす。

その後、免疫低下で、死に至る病。

大変危険な病気で、のちに私が大人に成って、自分は赤ん坊の頃、敗血症に成ったと言うと、

「よく生きていられたねーー」

と、驚かれた。

特に、医療関係の方は、どんな病気か詳しいため、日本でも、アメリカでも、同じ事を言われ、驚かれる。


42度~43度の高熱が一週間以上続き、周りの大人たちは、

この子は、このまま死ぬか、
生き残っても、高熱の影響で、脳にダメージが残るかも…と、嘆いたらしい。

当時、父親の経営する自動車教習所は、私達家族の住む家からは遠かった。

私達の住んで居たのは、小さな町。

町医者の小牧先生と言う、おじいちゃん医者は、毎日私の家に来られ、多い日は日に3度往診に来て看病して下さったらしい。

きっと今の時代なら、ヘリコプターで大きな大学病院まで運んで、集中治療室での治療だろうが、

あの当時、小さな町の田舎の家から、高熱の赤ん坊を動かして大きな大学病院に行く方が、危険な行動と思われて居たのかもしれない…

ヘリコプター移動も、きっと無かったのでは?

小牧先生の献身的な介護のお陰で、私は死なずに生き残ることが出来た。

その、敗血症が落ち着いた約2ヶ月後に、

私の父親は、心臓発作で他界してしまった。

自動車教習所の外のベンチで、座ったまま眠るように、亡くなっていたそうだ。

母は、これ以上のショックは無かったと思う。乳飲み子の私の命がやっと救われた直ぐ後の悲惨な出来事…

が、これだけでは終わらない。

当時、教習所は、父親の前妻の息子達、二人にも役職を与え、

父が社長、私の母が、副社長と言う形で、その下で、息子二人は働いていた。

母と、前妻の息子は、ほぼ同い年。数歳の違い。

そんな母に副社長の座を与え、その下で働く事を良く思うはずもない…

父は、会社の実印を常に持ち歩いて居た。

前妻の息子の長男が、その実印を、亡くなった父のズボンのポケットから取り出し、父の名義全ての財産を、自分と自分の弟名義に変えたのだ。

実印をポケットから取り出すのを、父のいとこが、たまたま見ていた。

後に、これは大きな裁判と成って、以来15年間も続いた…

ここまで書くと、まるで、火曜サスペンスドラマか何かの様なストーリー…

でも、これが私の育った現状だった。

そう、会社・土地・家・その他全ての父親名義の遺産は、全て、前妻の息子の物に。副社長の座も降ろされ、教習所でも働けなく成っていた…

私の母は、ただの母子家庭の母親に成って居た…

私が中学一年生の時は、その遺産に関しての、裁判真っ只中!

アメリカにホームステイになんて、行かせてもらえるわけが無い…

裁判は、大変お金が掛かる。

母は、父が残してくれた母親名義の物を全て手放し、借金をして、裁判を続けた。

が、私が15歳の年に、もうこれ以上続けても、どうにも成らないと
(やっと)わかったらしく、和解することを条件に、裁判を終わらせた。

結局、手にした物はほとんど無い。

住んで居た家も、名義が書き換えられて居たので、和解と同時に引っ越しをしなければ成らなく成った。

それを機に、私と母は、小さな町から、母親の元々の実家の、宮崎市に引っ越した。


私は、こういう状況下で育ったが、究極のポジティブ人間。

母親の生きてきた生き様を見ていたが、まるで人ごとの様にスーパーポジティブだった。

母親と言えば、超がつく、ネガティブで何事にも心配する。

まあ、ショックな事が重なり、戦う15年を過ごせば、きっとそうなる…

子供の頃の母親の思い出は、夜に成ると、ビールを飲み、裁判の愚痴を言い、しまいには、酔って、ゲーゲー吐いていた…

そんなに、吐くんなら、飲まなければいいのにと、ここでも人ごとだった私…


父親は他界していたが、そばにいなかったと言う感覚が無かった。

このトピックは、渡米には全く関係無く、下手すると、オカルト系?(笑)にとらわれるので、また機会が有る時に、書き残そうと思う。
私と亡くなった父親は、コンタクトが有ったので、ひとりぼっちと感じた事が無かったとだけ、ここでは書いておく。


話を戻して、そう、ホームステイの夢は、貧乏な家には無理!

英語も嫌いだし、お金も無いしで、アメリカ行きは、全く途絶えたかの様だった…


続く

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