壊れたゲーム機 X リサイクル = 年商3億円の事業ができた話
翌週の営業報告ミーディングで回収結果を報告したら、会長さんは極・大魔神モードでした。
・その2・自転車でゲーム機本体を回収しにいく
時に営業先のリサイクルショップのオーナーに私が直接に取りにこないと、ゲーム機を譲らないといわれました。
そうですね〜 いきなり変な外人さんの営業電話をかけて来て、警戒されるでしょう。
そのため、自転車営業(直接営業訪問)は必要です。
一回16台のPS2 (合計35キロぐらいかな) を回収するため、自転車である商店街のリサイクルショップへ訪れました。
自転車の左右のハンドルに2台ずつのPS2をぶら下げ、登山用リック・サックに12台のPS2を詰めて持ち帰りました。
重いです。
とにかく重いです。
中華雑技団のミニverでした。
あまりに異様な風景でした、商店街のおじちゃんとおばあちゃんにじーと見つめられました。
こっちが恥ずかしさをごまかすため、チャゲアスの「YAH YAH YAH」の鼻歌で商店街エリアを脱出しました。(今思えば、余計恥ずかしい格好に....)
我が愛車もうちの鼻歌にあわせるように「ぎーぎーぎー」の悲鳴をあげました。
リサイクルショップの信用をえるために、事業立ち上げの初期はしばらく自転車営業&回収しました。
(そのあと、我が愛車が私からにげたように行方不明に..... 駐輪違反で回収された。T_T)
・その3・徹夜して倉庫のパレットの上で寝ることに
(この種類のパレットの上に寝ました)
商品の検品作業がうまくいかないため、徹夜して倉庫のパレットの上で寝たことがありました。
何回数えても、数があいません。
終電を逃しました。
徹夜決定。
最後は疲れ果てて、パレットの上で寝てしまいました。
朝を迎えたら、顔にパレットの「網マーク」が....。
結局、検品数が合わない件で、シンガポール本部の経理と会長さんに怒鳴られました。
検品作業がうまく行かない時、PS2を数える悪夢をみました。
・その4・食中毒事件
商品を片付けた後、手洗いせずコンピにのにぎりを食べたら、食中毒になりました。
回収した型落ちゲーム機のなかでは、マジ汚いやつがはいっています。
なんか〇〇まみれのPS2を貰った事がありました。
ゴキブリや砂が入ったPS2本体ももらったことがあります。
回収業者に聞くと、そういうゲーム機は山の奥で見つかったか、ゴミの山から抜き出したケースがおおいです。
山の奥?WHY?
まさに野生化したPS2ですね。。。ワイルドだぜぇ〜
とりあえず、食事する前にちゃんと手を洗ってくださいね!
いろいろな失敗と苦労を味わいましたが、意外に苦になりませんでした。
逆に「やってやるぞ」の気持ちが強く、最後はピンチを楽しむ変態になりました。
○自らリサイクル業界の「フライ級王者」を名乗る根拠は?
年間3億円分の型落ちゲームを回収しましたから。
当時の日本最大の家電回収業者(年商87億円のキャリア20年の大先輩)ですら、年間日本円1億強分の型落ちゲームしかあつまっていませんでした。
数千万円分の型落ちゲームが回収できたら、もうすごいぞと業界の「先輩」にいわれました。
つまり、このニッチマーケットの王者になるため、最低年間日本円2億強分以上ののゲーム機を回収しなければなりません。
うちはわずか2年で年間3億円分以上が回収できた事は、型落ちゲーム機回収の日本制覇に等しいです。
ちなみに、その年で回収されたPS2は11万台を越えました。
日本から海外へ輸出する中古PS2の半分以上は、うちの愛情をこめて出荷されました。
あと、型落ちゲーム機の回収業者のドンたちと業務提携していただきました。
その結果、うちの回収ネットワークが一気に拡大しました。
もう終電とか徹夜しなくてもいいです。
会社の人数は私ひとりから10名まで増えました。
得意分野をもつ仲間とスタッフが増え、新しい事業も展開しました。
もうこっちが新規開拓営業をしなくてもいい。
毎週必ず誰かさんの紹介で取引希望のメールが届きました。
会長さんの顔が仏モードになってくれて良かったです。
もう自転車営業しなくてもいい。
毎日数百台のゲーム機が面白いほどに届きました。
日本全国の営業訪問が楽しくてしょうがないです。
ひと月4千500万円分のゲーム機を回収された記録をだしました。
翌年年間4億円分の型落ちゲーム機の回収は射程範囲に。
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その最高回収記録を出した報告を受けた私は、会社をやめる事を決意しました。
突然の引退宣言で、周囲を驚かせました。
○ なぜやめたか?
基本的にこのふたつの理由です。
1。事業を立ち上げた目標をすべて達成しました。
入社初日に、会長さんから事業の目標をききました。
その1)中古ゲーム機の回収業者のトップになる事、
その2)月間4千万円分のゲーム機を回収する事です。(後ほど2千万へ調整)
しかも、1年以内に達成しろといわれました。
それをきいた私は.....
しかし....No.1になることは、時間が必要ではないか?
本当に絶対無理だべと思いました。
これは、会長さん(=すごい人)と私(=普通の人)の一番大きい違いだと、後ほどよく実感する事になりました。
立ち上げの目標を達成した時、会長さんへの恩返しと責任を果たしたと感じました。
(補足:市場を調査し当時のNO.1の回収業者の実績を確認した後、月4千万→月2千万目標へ調整しました。会長さんは大きいビジョーンを持て、柔軟に考える方です。でもまさか本当に4千万以上を超えたとは....)
優秀なスタッフがいて、私がいなくても事業が進むので、やめても大丈夫です。
次はヘビー級(中古ブランド)へ挑戦を提案しましたが、本部の事業方針ではないから断念。
基本的にここでやりたいことも全部出し切りました。
燃えたよ・・・燃え尽きた・・・真っ白にな ・・・
そのタイミングで退職した事は、自分はもっと高いところへいけるか挑戦したくなっただけです。
2。20年前に放置した夢を実現したくなりました
事業を立ち上げのおかげて、いろんなモノを学びました。
一番学んだ事は、目標実現へ対する執着心とモチベーションの維持方法です。
やはり本気でやってやるモチベーションはすざましいパワが生まれる。
当時の自分のモチベーションは、この事業は非常に立派なモノだと感じ、純粋に突進しました。
こんな勢いで、営業先は私の事を気に入って、取引先になったことがありました。
環境貢献ができ、裕福ではない子供たちにゲームを楽しく遊ぶ姿を想像したら、ゴミから拾ったゲーム機でも立派な「救助活動」にみえました。(はい、良い子は絶対マネしないでください)
事業目標を達成した時、昔のことを思い出しました。
20年前、いつか自分の手で世界に売れるビデオゲームを作ろうという夢がありました。
私がつくったゲームは皆様に楽しく遊んでもらった姿をイメージしました。
大学頃、ゲーム企業のプランナーとディレクターへ募集しましたが、全滅でした。
そこで、本当にやりたいことが見つからず、適当に「面白そうな」仕事をしました。
やがて、自分の存在意義がわからなくて、無気力な20代をすごしました。
今回の起業の経験のおかげで、自分の一部を取り戻した感じがしました。
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