母が肺がんになり、そして死ぬまでの一年間 第二回

前話: 母が肺がんになり、そして死ぬまでの1年間
次話: 母が肺がんになり、そして死ぬまでの1年間 第三話

検査結果が出た

町医者の先生が言っていた詳細な結果、それが出たのは一週間後、あるいは2、3日後だったろうか、千葉のがんセンターにその日も早退させてもらって病院で両親と待ち合わせた。

がんセンターに来て最初に思ったのはとにかく駐車場の車はもちろん院内の患者さんの多さだった。検査の人もいるのだろうが、これだけ癌に悩まされている人達がいて、そしてその中に母も含まれている。そう思うだけで気分は重く沈んだ。

病院で会った母は検査途中のようですっかり憔悴していた。とにかく検査もその結果も怖くてしょうがなかったようだ。そしてその恐怖は死ぬまで母を悩ませていたのだが…。

検査が終わり、外も暗くなった頃、ようやく先生に呼ばれ、みんなで中に入って行った。癌は大分進行しており、足にも転移しているらしく、肺に水も溜まっているということだった。

手術はできず抗がん剤を飲むしかないということで、母の遺伝子的に良く効くイレッサという薬があり、それを使うことにした。

このイレッサ、副作用も少なく効果もかなりあるらしいということで、もし全治とはいかなくても少しでも長く生きてくれればと私も、そして父や姉も思っていた。ただ母に関してはどう思っていたのか、自分はもう駄目だとしきりに言っていたので期待はしていなかったのかもしれない。


イレッサ投与


その日から肺がんに関して色々と調べてみた。肺がんに侵された本人、または家族の方が書いたブログの数が非常に多かったのは少し意外というか、改めて癌と闘う人の多さを思い知った。

ただ、そのブログも現在進行形で書かれているものは多くはなく、家族の方が最後の報告をされていたり、2、3年以上更新が止まっていたり、あまり読んでいて楽しいものではなかった。

それでもみんなも頑張っている、あるいは頑張っていたという事実は幾らか僕の気持ちを奮い立たせてはくれていた。

そんな中、イレッサに関する情報もたくさん見受けられた。その中でも一番ショックを受けたのはイレッサには必ず耐性が出てくるというものだった。早ければ1年程度、保っても3年というところだろうか…。この話を家族に、といっても姉だけだが、したのは母が亡くなった後だった。そんな事を話したらみんな本当にいたたまれなくなる。とはいえ僕も一人でその事実を抱え込むのは本当に辛く、嫁さんにだけ話していた。

もしかすると同じくイレッサを飲んでいる方の家族の方が僕のこの拙い物語を読まれているかもしれないが、イレッサとその耐性について話すかどうかはその方の性格にもよるかと思う。やはり病気は何でも気持ちの持ち方に拠るところが多いと思うし、その方が非常に前向きな方であればあらかじめ教えておくのも一つの手段かもしれない。ただうちの母についてはメンタルが非常に弱い人だったので、この事は決して言えなかった。

何にしても、近しい人間の命の期限が決められてしまう事。これがこんなに切ない事だとは思わなかった。人は確かにいずれは死ぬ。でも、その死が近いうちにやってくると言われただけでこんなにも気持ちが変わるものなのだろうか。あんなに優しく、いつも笑いかけてくれていた母が癌で死んでしまう、告知の直後はそれを考えるだけで涙が溢れて止まらなかった。


それでも、日々は流れていき、僕も家族も嫌でも前に進まざるを得なかった。癌と闘う、いや、付き合うといった方が正しいのかもしれない。そんな日々が始まった。

著者の小野塚 良太さんに人生相談を申込む

続きのストーリーはこちら!

母が肺がんになり、そして死ぬまでの1年間 第三話

著者の小野塚 良太さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。