母が肺がんになり、そして死ぬまでの1年間 最終話

前話: 母が肺がんになり、そして死ぬまでの1年間 第三話

夏の終わりに


がんの検査方法には腫瘍マーカーというのがある。血液検査の1つなのだが、その数値によりがんの状況を判断できるらしい。

「らしい」と書いたのは僕がそれを直接やったわけでも、見たこともないからなのだが、母もこの検査を通院の度(毎回ではなかったようだ)行ってきて、その検査結果がプリントされた紙は何度か父から見せられてはいた。

イレッサを飲んでからの経過なのだが、非常に効果てきめんで、このマーカー値も低くなり(高くなると良くない)、胸水も減ってきて、かなり良くなってきたようである。

ただ、どれだけ回復してきたとしても決して完治するわけではないということ(例外もあるのかもしれないが、少なくても僕が見聞きした範囲では、そして母に関してはそうだった)。限りなく「抑制」することはできるのだが、「消滅」させるまでには至らないのである。

仕事も忙しかったこともあり、実は母の病状に変化があった時期ははっきりと覚えていない。そのため、メール等から振り返ってみたのだが、どうやら「その時」は8月末、9月の初めあたりのようである。

毎回、検査が終わった後に母がメールをくれるのだが、「肺の水が増えてきた」、そして「マーカー値が高くなってきた」ということを伝えてきた。

正直なところ「もしかして耐性が・・」という思いがあったのだが、その事実を認めたくは無く、マーカーの値に関してはたまたま高く出ただけで心配することは無いと励ましていた。

ネットで調べてみる限りでは必ずしもマーカー値の悪化=がんの悪化とは言えないらしいので、僕もそれを信じていた。というか、無理にでも信じようとしていた。

実際、去年の夏頃までは毎回実家に帰る時に、近所の公園にみんなで行き、僕の娘が楽しそうに滑り台で滑る姿を微笑んで眺め、猛暑ながらも一緒に軽く散歩ができるくらい、普通の人と変わりのない生活ができていたのだ。

しかしながら、現実は残酷だった。

1週経ち、2週経っても病状は改善することはなく、イレッサの効果が見られなくなったため、母は治療方法の再検討を迫られていた。



緩和ケアへ


本来であればこの大事な判断にあたっては一緒にがんセンターに付き添い、主治医の話を一緒に聞くべきだったかもしれない。ただ、仕事の忙しさと重なり、それは難しかった。

主治医の話は又聞きになるため詳しく把握できていないのだが、内容としては別の抗がん剤を使用するということだった。当然イレッサよりも副作用は強くなるが、それは別の薬を併用すれば多少和らげられるらしい。

ただ、何よりも母がイレッサの副作用にすっかり参ってしまっていたこと。それが僕の考えを決めていた。母は僕にもうこれ以上副作用でボロボロになりたくないことをずっと訴えていた。

結論は1つ、「抗がん剤の投与中止」。母は内科から緩和ケアへと移行することになった。

ここで誤解されている方がいるかもしれないので説明しておくと、緩和ケアは「終わりに向けた対応」では無いということである。

実は母は完全では無いにしても最初の頃から心療内科として緩和ケアの先生にも診てもらっていた。この先生は最初の町医者の先生より直接紹介を受けたという経緯があるのだが、さすが「心療」というだけあり、この先生は人を安心させる話術に長けていた。僕もこの先生ならばお任せできると思った。

緩和ケアは通常の治療と並行し、痛みや不安、その他の苦しみを「緩和」させるためのものなので、治療初期より利用する患者さんも多いらしい。

なので、緩和ケアに移行したといっても、内科の先生が別の緩和ケアの先生に代わり、抗がん剤の投与が無くなったというだけのものだった。

この時も僕はまだ楽観的な考えを無くさず、まだまだ「最悪でも」1年間は生きていてくれるのではと本気で信じていた。なので年末辺りに一旦仕事が落ち着いたらもう少し母の介護に注力できるように会社に相談するつもりでいたのだ。


進む病魔

しかしそんな考えを嘲笑うかのように病気は進行していった。

更なる転機は秋頃の母のメールだった。

いつもあなたから歩くように言われていたのにサボっていたツケが来たみたいです。膝のあたりがちょっと痛むようになりました。これからは出来る限り運動しなきゃね。


「サボっていた」とは書いていたが、先に書いていたような状況では外に出たくないのもやむを得ないだろう。あまり気にせずに歩けるようになったら少しでも外に出るようにすればいいよと返事をしたのだが、事態はそんな単純なものではなかった。

心の中では少し気づいていたのだが、足(正確には大腿部)に転移していた癌が、また悪化していたのだ。

この痛みは治る事は無く、とうとう歩くのも困難な状況にまでなってしまった。

まずは杖を購入した。ただ、普段使い慣れていないものをパッと渡されても使えるわけはなく、また転倒を恐れていたため、全くと言っていいほど意味が無かった。

そんなことをしているうちに更に痛みはひどくなったため、僕も積極的に手伝って介護保険の申し込みや車椅子の手配、そして放射線治療を実施することにした。

家の中は段差があったため、下のような歩行介助器具を購入した。



これは見ての通り非常に安定性が良く、母も安心して使っていた。

そして病院や買物等、移動が必要な状況では車椅子を使う、ということで何とか歩けない状況にも対応することができた・・が、とうとう歩くこともままならないという事実は母を更に落ち込ませていった・・。

放射線治療は計4回、週間隔では無く、連日で行われた。父の車椅子は乱暴だと母がメールで嘆いていたため、私も会社を休ませてもらい、毎日病院に付き添った。母も父も、この時が辛さのピークだったかもしれない。それが11月の終わりごろだったと記憶している。

母が(父もだが)この時あまりにも私に対して申し訳ないというので多少冗談も含め「感謝するなら社長に感謝してくれ」と言ったところ、母はその日の夜(以前の勤め先の)会社に電話して社長に色々と御礼も兼ねて話をしたとのことだった。先に書いたように母は他人との接触を経っていたため、社長と会話できたことは彼女にとってちょっとした気分転換にもなったらしく、また社長も人を励ますのがうまい方なので、電話できてとても良かったと私に話していた。どんな会話の内容かは詳しくは聞かなかったが、社長には本当に感謝している。


そして・・


上の放射線治療を11月の終わりに行い、しばらく経ったがあまり痛みは緩和しなかった。聞くところ効果が出るには2、3週間以上かかるらしいのでもうすぐ良くなるからということを先生も話していたようだし、僕もサイトで調べて実家に顔を出した時に伝え、励ましていた。

そして迎えた12月17日の朝、僕と家族はある事情で外出していた。そして朝から父の着信が入っていたことに気付いた。

今思えば父からの連絡というのはめったに無かったが、どうせパソコンが動かなくなった等といった用事なのだろうと、直接のやり取りを億劫に思い、(父がメールができないため)母に父からの着信があったのだが、何の用だという旨をメールした。

しかしメールの返事は返ってくることは無かったため、やむなく父へ直接電話することにした。

ああ、良太か。あのな、お母さんが亡くなったんだ・・。


母との別れ

母の告知の時も頭が真っ白になったが、この時も同じだった。いや、真っ白というよりは「悲しみ」で頭の中がいっぱいになった・・。

用事を済まさないことには帰れなかったため、まずは用事を済まし、夕方頃実家に向かった。途中泣きながら社長にも連絡し、しばらく休む旨を伝えた。さすがに人ごみの中では堪えていたが、とにかく涙が溢れて止まらなかった。

死因は衰弱による心臓発作であった。いつも通り朝早く父が起き、最近では父が色々と支度をするのだが、しばらくしても母が寝たままであったため、声をかけたら反応が無いことに気付いた。慌てて救急車を呼んだが、既に亡くなっていたということだった。

少しでも参考になればということで書いておくと、家で死んだ場合は事件の可能性があるため警察が来る。そして現場検証をして帰っていく。遺体は指定の病院へと運ばれ、警察の許可が出るまでは引き取れないのである。

なので僕が実家に着いた時は既に母は病院にいて、家にいたのは父と姉夫婦の3人だけだった。

いつも実家に着き、玄関から廊下を歩いてドアを開ければ母がソファに座って、振り向き、微笑みかけてくれていた。でももうそんな光景は見れなくなってしまっていた・・。

母が本当にこの世から「いなくなってしまった」のだ。告知以来、それは何度か想像してはいたのだが、実際にそうなった時の悲しみ、絶望感、虚無感は相当なものだった。


ここで止まっているわけにはいかなかった。とにかく母を天国へと送り出さないといけないのだ。父も不安定な状態であったため、以降は自分が中心となって動いた。

まずは遺体の引き取り、これは葬式を扱うところにお願いするわけだが、最初に大手のところに連絡をとった。しかしながら応対が非常に悪く、家族の気持ちに全く配慮しないような対応を受けたため、次に「家族葬」ということで少人数での葬式を中心に行っているところに連絡をとった。

そこでは年配の男性に非常に丁寧に対応してもらい、一旦母は警察から千葉駅の近くの葬儀場に引き取られた。私や父も同行し、そこで私はやっと母に再会できた・・。

母は眠っているようだった。どうやらあまり苦しむこともなく、あの世に行けたらしい。

でも、もう目を覚ますことはないのだ。また目から涙が溢れて止まらなくなったが、僕は一言をやっと絞り出した。

お帰り、お母さん・・。

悲しくて悲しくてどうしようもなかったが、同時に父が号泣していたことにも少し驚いた。正直父が号泣しているところを見るのはこれが始めてだったのではないだろうか。

そこから先はあっと言う間だった。

式の前に映画「おくりびと」で有名になった納棺式をお願いした。見た目に気を使っていた母に対してできるだけ身を清めて送り出してあげたかったのだ。

参加したのは本当に身内だけ、父と僕、妻と子供二人、そして姉夫婦の6人だったが、とても濃い時間を過ごせた。遺体に触れるのでとても近い距離でお別れができたのだ。子供も上が3歳、下は1歳に満たない赤ん坊だったが、どういう状況なのかを理解していたのか本当に静かに付き合ってくれた。お清めのため、上の娘が濡れたガーゼで母の顔を撫ぜてくれた時、更に涙が溢れてきたことを今でもはっきりと思い出せる。

そこから葬式はあっと言う間に終わり、遺骨となった母を抱え、実家に戻った。

以降、諸々の手続きのため会社を休み、父のサポートをしていたが、実家に顔を出す度に僕は泣いていた。一人外を歩いている時にもふと母の事を思い出すと涙が出てきてしまうのだった。

話は前後するが、母が死んだ日、実家に行った時に父と姉から小さいノートと便箋を渡された。そこにはそれぞれ5~6ページ程度であるが、告知から12月までの日記が書かれていた。

そこには父への恨みも書かれていたが、僕らに対する感謝の気持ちも沢山書かれていた。ただ、何よりも癌による痛みや苦しさへの恐怖が沢山書かれていた。母にとってはどうやら「死」自体は恐怖ではなかったらしい、それよりも痛みや苦しみ、そして「病院で」死ぬことをとても恐れていたのだった。

これを知っていたらもう少し母に対する対応は変わっていたかもしれない。あまり苦しまずに逝けたことは本当に良かったと思っていたが、この事は少し心残りとなっている。これもあまりちゃんと会話ができていれば何とかなったのではないだろうか。

駆け足で進めてしまったが、これで母の病気との日々は終わった。


あとはとりとめのない内容を思いつくままに書いておきたいと思う。


自分の家にいる時は2人の子供の世話に追われてしまうため、正直悲しみに浸っている暇は無かったが、今思えばそれで良かったような気がする。あれ以上悲しんでいたらきっと心のどこかが壊れてしまったのではないだろうか。二人目をこの状況で産み、育てるのは大変だったが(一番大変だったのは当然ながら妻なのだが)、母は本当に喜んでいたし、その手に抱かせることもできたので本当に良かったと思っている。


父は昭和の父らしく、仕事ばかりで家庭を全く顧みない人だった。母はそれを嘆きながらも1人で僕らを育ててきた。母と父は仲が悪く、年を取ると喧嘩の回数は減るどころが増えていったような気もする。僕は幼い頃から母が悲しむ姿を見ては父に対する憎悪を募らせていったが、今となっては虚しさが強く、もうそういった気持ちは無い。父は以前単身赴任をしたこともあるので、今も一人で何とかやっているようだ。姉が頻繁に会いに行っているようだが、僕も家族とたまに顔を出すようにしている。


父の話を聞く限りでは、母は12月に入り、急速に衰弱していったようである。私もそれは何となく感じていたが、歩けなくなってしまったことにショックを受けていたのだと思っていた。

父曰く死ぬ1、2日前は食事もボロボロとこぼして満足に食べることができなかったようである。それがイレッサを止めたからなのか、あるいはイレッサを投薬することで癌を刺激してしまったのか(あくまで僕の想像に過ぎないが)、今となってはわからない。母が亡くなった直後はそれを聞くために病院に行ってみたいとも思ったが、それを聞いたところで母が生き返るわけではないのですぐにその思いは無くなった。


母は僕ら家族の写真をとても大事にしていた。死ぬ前から知っていたのだが、結婚式の招待状から始まり、僕ら家族の写真を自身のコメントをメモ帳に書き、一緒にアルバムにまとめていた。それを死んだ後に改めて読んだのだが、この時も号泣してしまった。


子供のように無邪気で、優しく、寂しがりやの母だった。先に書いた日記に「お母さん、お姉ちゃんに会いたい」と書いていたのできっとあの世でみんなと楽しく暮らしていることだろう。


ここまで読んでくれた皆さん、さぞかし読みづらかったと思いますが、本当にありがとうございました。最初は記憶を風化させないために僕自身のために書いた文章でしたが、たった一人でも良いので誰かにとって何かを伝えることができたのならばとても嬉しく思います。


最後に・・母の遺影は産婦人科でまだ生まれたばかりの僕の娘を抱いた笑顔だった。母はとてもにこやかに娘を抱いていた。


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