海外あちこち記 その7 ニューオーリンズ篇
1978年と1980年の2回ニューオーリンズに行きました。
ミシシッピイ川河口で、上流からハシケで運ばれるカオリン(お白粉などの原料)を本船に積み替えるのに旋回式水平引込み式クレーンが最適ということで、色々な経緯がありましたが受注が決まり、河口の真ん中に基礎を打ち、その上に日本製のクレーンが設置されることになりました。水平引き込み式クレーンのアメリカへの輸出はこれが初めてでした。
工場から上部と下部に分けて組み立てしたクレーンを台船に乗せ、高馬力の曳船で太平洋を渡り、パナマ運河を通り、メキシコ湾に入りサイトの近くまで辿り着いたとき、折あしくハリケーンが近付きタンパ港へ緊急避難するなど紆余曲折がありましたが、無事クレーンは海を渡りミッシッピー河口に到着しました。そして吊上げ工事も完了し、うまく所期の機能を発揮しお客さんに喜ばれました。
以下の体験は海上輸送や現地工事の前の、注文が決まった前後の時期のことです。
発注内示後の契約条件の交渉をする場所は、お客さんの本社があるニューオーリンズでした。
ニューオリンズの街
街はミシシッピー河口に位置するせいか、市中はかなり湿度が高く、空港について冷房の効いた飛行機から機外に出ると、あっというまに眼鏡が白く曇り何もみえなくなりました。 湿度が高い上にホテルの冷房の具合も悪く、下着を洗濯して部屋に吊るしても殆ど乾かず、まいりました。
郊外に車で出ると木々のどの枝にも高温高湿のせいで地衣類が着き、長い毛をたらしていて何となく不気味でした。昭和30年代の始め頃、この町に来たことがある亡父の土産の絵葉書を見て、気味が悪かったので覚えており、実物を自分の目でみることになり不思議でした。
「欲望という名の電車」という芝居の舞台となった町で、当時も路面電車が走っており昔フランスの植民地だった頃のコロニアル形式の今はペンキも剥げかけた木造の家並みが、森の中にけだるく幽霊のように立っていました。繁栄時から時が経ち、時代に取り残された町がここにもありました。
ジャズとフレンチクオーターとナマズ料理
ニューオーリンズと言えばジャズです。もちろん土曜日、日曜日は出張チームのみんなでフレンチクオーターに繰り出し、遅くまでジャズを楽しみました。そして名物料理はナマズ料理と言う話です。夜が来るのが楽しみでした。まあ刺し身は無理としても焼き物、煮物などどういうふうにやっつけてくれるのか。土地で有名なレストランに入り、バドワイザーを飲みながら待つこと暫し、出てきたのはナマズのフィッシュボールの揚げ物が皿にどさりでした。
やはりそこはアメリカでした。フライドボールの山を前にして一人ため息をつきました。おいしかったけど「洗鱠」や「鯉こくならぬ鯰こく」を想像したのが間違いでした。期待が大きかっただけに落胆の度合いが大きかったです。
南部という土地柄を感じた
あのじとっとした空気の中で北部のニューヨークと違って、何となく去勢されたような黒人が遠慮がちに町を歩いていました。本屋でもプレイボーイなどの雑誌が置いてある一角にはロープが張ってあり黒人は入れないようにしてありました。白人女性の写真は彼らには見せないということだったのでしょう。
先日テレビの深夜放送で、シドニーポワチエが主演した「夜の熱気の中で」という映画を20数年ぶりに懐かしく見ました。南部の町に別件捜査に来たNYの黒人刑事が殺人事件に巻き込まれ、偏見の目の中で地元の署長にも反発されながら、事件を解決して去っていくという流れ者ヒーロー西部劇を当時の南部に置き換えた映画です。つい終わりまで見てしまいながら、南部と北部での黒人系の人達の意識の差や白人系住民の彼らの扱いの差を、通り過ぎのよそ者ながら感じたことを、あのニューオリンズの出張の記憶と共に思い出しました。
頭では、差別はよくないと思っていても、夜NYで一人で飯を食いに行きホテルまで帰る道すがら、ビルの間で目だけが白く光って見える黒人にじっと見られた時の気味の悪さは、理屈ではなく体がすくみました。 アメリカという国は日本と違って大変な幅の人間を含んで成り立っているんだなと、その大変さをつくづく思います。それと同時に、映画や小説に出てくる少数民族の扱いが変わって来ているように、少なくとも表向きは公平性を拡大していることにも凄い連中やなあとも思います。
(2002年頃メールで友人知人に発信)
著者の阿智胡地亭 辛好さんに人生相談を申込む
著者の阿智胡地亭 辛好さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます