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勤め人生活を終えて

今日、勤め人生活が終わった。たぶん勤め人に戻ることもないでしょう。

途中、3年ほどの自営業生活を除けば、ほぼ勤め人だった30年弱の「会社人生」も今日で終わりです。これからは悠々自適な生活ではなく、「自分のノウハウやちょっとした生活の知恵みたいなものをベースに、自分を育んでくれた社会への還元のため」の人生としたいと思います。なにより「自分が役に立つ場面でしっかりと結果を残す」ということが肝要だと思っています。

薬学系の大学院を修了したのが1983年。第二次オイルショック直後でして就職はかなり厳しい時期でしたが、就職氷河期の皆さんよりは楽だったはずです。それでも仕事が決まったのは大学院二年の10月。結局、入社前日まで学会準備や報告をやって、大学を飛び出すようにして翌日から社会人という慌ただしい人生の始まりでした。後の波瀾万丈の社会人人生を暗示するような感じでしたね。

躾に大変厳しい一社目で社会人のイロハを体で覚えたのは後々の財産でしたね。その後、外資系企業(外国企業)と日本企業を交互に行き来するような人生でした。英語には苦労しましたが、下手は下手なりに何とかなるのが言語です。要するに自分の考えを懲りずに相手方に説得し、どんなレベルでもよいので共感を得ること。ここさえ落とさなければコミュニケーションはなんとかなるものです。あとは「嘘をつかずに、死んでも約束は守る」という姿勢を崩さずに、信用を上げることでしょう。これ以外の王道はないはずです。

自分の肌に合った会社はどこだったのだろうと未だに「?」です。外資系企業ではそれこそ世界中のリソースを使い倒した感覚もありますし、財閥系企業でもグループ企業横断的な仕事を出来たわけで、そのチームの仕事が会社案内や株主への事業報告書にまで掲載されたのは、それなりに評価されたものだろうと勝手に考えています。一方で、米国現地企業での経営は、何しろ日本人たった一人状況でしたが、むしろ経営という意味では楽だったかもしれません。「天才は凡人とは基本的に分かり合えない」とさとったのもこの時期だったように思います。

直近の企業は、業界では上位の企業ですが規模的には中小企業でした。そこでは大企業の常識、それこそビジネススクールなどで学ぶビジネスセオリーなんか全く通用しません(が「経営」という視点では「このような経営方法もあるぞ」という面白い会社でした)。幸か不幸か、途中で役員になってしまい(現場で終わるつもりだった)、「なかなか自分の言い分が分かってもらえない」と諦めるわけにもいかず(説明の仕方にも工夫が必要だったと反省)、自分なりにビジネスセオリーを中小企業バージョンに翻訳しながら、一つずつ機能を作り上げるような毎日でした。

これは本当に良い経験でしたし、特に現業サイドの人材がポテンシャルの高い方ばかりだったので、ずいぶんと助けられました。日本企業は「現場力」だと自覚したのもこの会社のおかげです。人材育成という面では、もっとも自信を持って「10年後を担うコア人材は十分に育て上げた」といえると思っています。今後の若手中堅社員の活躍を遠くから見守っていきたいと思います。本当に楽しみですから。きっと当時の若手中堅は私の指導を「鬼だ」と思ったと思います。よくついてきてくれたと大感謝ですね。

2004年から07年の3年間ほどの自営コンサル時代は、ろくな準備もなく、それこそある日突然「やってみよう」の世界でした。2004年当時にはSNSもなく、今なら当たり前のビジネス武器はほぼなし。細々と自前でウェブを作って、足で営業活動してお客さんを集めるというような感じです。それでも先輩コンサルの先生方にはずいぶんと助けてもらいました。また、今の私の行動規範のいくつかも、先輩コンサルの先生からの戴き物です。時に厳しい先輩方のご意見はやはり貴重です。

そして今日を迎えたのですが、普通なら送別会とかあって、花束贈呈の世界なのでしょう。以前、退任した役員は皆そのように送り出されています。ただ私の場合、まだ現役を助ける非常勤顧問職というものが残っていることもあり、一切のセレモニーはなし。私も「現役の席からのフェードアウト」を希望していたのでその通りになったわけです。

この状況は、普通の勤め人には寂しいという気持ちになるようです。しかし、私はこの感覚が全然理解できないのです。人間関係に醒めた外資系企業の勤務時代、まさにマニュアルの引き継ぎで全てが完結するような世界が自分の標準なのです。会社=家族という感覚もなく、「最後は、地域社会と家庭に戻るもの」という感覚が染み付いているせいかもしれません。

そんなこんなでいとも簡単に会社を断ち切ってしまった自分としては、今日の午後からの「2度目のコンサル」仕事の始まりは、至極当たり前の出来事の延長線という感覚でしょう。今回は、営業の武器は山ほどありますし、仕事を引き寄せるツールも山ほどあります。このStorysもしかり、FBやツイッター、LinkedInなど。スカイプを使えば世界中とリアルタイムに顔を見て話もできます。メール送信の負荷なんか本当に全然ありませんよね。昔なら1000軒の宛先メールなんか送信にどれだけ時間がかかったことか。

それでも感じることは、「最後は人」。どんなに近代兵器が揃っていても、やはり最後は人と人との信頼関係が自分の拠り所です。自分にも他人にも正直に、お客さんの「ありがとう」のために出し惜しみせずに、人と人とを繋ぎ、その繋ぎ目から世の中を変えていく種を撒いていくような仕事をしていければと思います。

もう大きな組織で仕事をすることはないと思います。これからの10年から15年は組織課題を側面から解決して、組織がより生産的に生きるようなアイディアで勝負できれば、それは大変面白いと。

どこかのTV局のキャッチフレーズみたいですが、私は「仕事は楽しくあるべき」と思う人間です。「大変だけれど、それ以上に面白い。アイディアが転がって育っていくさま、人と人の繋がりが大きなネットワークになって、そこからいろんな果実が生まれているさまの面白さ、それをプロデュースすること、実際に現場で動くこと、どちらでも「こりゃ、面白いわな」と思えることが、良い仕事の基本だと思います。

「面白い」環境で、「面白い」仕事をすることは、「面白い」人材がより面白いものになり、面白い連鎖を作ってくれます。私の人生の果実はなんだろう、そう考える時に、それは「この「面白い」の連鎖を間近で目撃することが出来たこと、実際に面白い目に幾度も遭遇したこと」だろうと。現実が動いているその時には「人生って、大変だよな〜」と思ったものですが、今思えば「たまらなく面白かったな〜」と。人生なんてそんなものでしょう。55歳になってようやくそういう感覚になってきたようです。

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長谷川 愛

私はまだ会社に入って2年目です。
私の事業部は毎月赤字で、来年にはなくなる!と言われており、毎日売れないことで叱られるのがいやで、日々仕事に行くのがいやでした。でも、そんなんなら早くこの事業をやめればいいのです!みんなで負のスパイラルに入るほど、生産性のないことはありません!いい人に囲まれながら、面白く、みんなでがんばる!という雰囲気が仕事をする上で一番大事だな、とこの話改めて思いました。

岡崎 善衛

死ぬ時に振り返る、面白かった人生。
まさに目標にしてる生き方です。

笹嶋 政昭

 他のエントリーを見て頂くとお分かりのように、私の場合は会社遍歴が結構あるんです。その時代、時代で「鬼のような上司」とか「わからず屋の同僚」だと思っても、後で考えると「でもそれなりに勉強させてもらったいい人」と思えるようになるものです。もちろん、そこまでには20年くらいかかりますが。
 いずれにせよ、周りの人も面白くなりそうな仕事を共に作り上げるという姿勢はそれほど無駄なものでもなさそうです。赤字事業は辛いものですが(私も赤字事業の経験ありますよ。それも豊富に)、赤字を黒字にするための工夫を面白くやっていくなんていう発想もありますね。
 赤字が黒字に、そして会社を代表する事業に、なんて育っていく様を間近でみるような立場になってみよう、それも「楽しく皆で知恵を出し合って」というのはどうでしょうか。幸い、数少ないながらも事業が育っていくことを見てきた経験がありますし、今でも財産です。「育つ楽しみ」は事業運営の原動力になりますね。
 自分が会社の経営を任された時期、常にそういう心がけで部下たちと接していました(部下たちが私をどう思っていたかはさておいて)。会社の経営者、事業部長さんは、大なり小なり、そんなことを考えて仕事をしていると思います。周りの人と、よく話込んでみると、意外と同僚や上司のいいところも見えてくるものです。

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