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16/3/17

弟の突然死で学んだこと 1

Image by Olia Gozha

世の中突然に信じられないようなことが起こります。




私は保険会社で30年勤務しました。世の中信じられないことが起こる。というのは、保険会社にいると何度も何度も体験することでした。


だから突然に何か起こってもそんなに驚かない。という自信があります。


でも、そんな私が、先日。信じられない体験をしました。


弟の突然死。です。


私の弟は地元鹿児島の高校を卒業して、ある会社で働いていました。


私とは3つ違いでした。


私が大学4年の時に弟はサラリーマンになりました。


大学生の私が、学生として、呑気に楽しくやっている時に

弟は、朝早くから夜遅くまで、サラリーマン1年生として社会に出て働いていました。


疲れていた影響があったと思いましたが、弟が会社の車で、事故を起こしました。

その時の10代の弟の悩んでいる姿をたまたま見ていたこともあり、

私は、損害保険会社に入社しました。


私は、全国転勤の会社に入社したのですが、いきなりふるさと鹿児島に赴任先が決定しました。


そこから、損害保険会社の社員としての人生をスタートをしました。



そして、「社会人の1年先輩である弟」と実家で同居していました。

弟の仕事もメインは営業でしたので、営業の先輩です。


私は、仕事のことはほとんど実家では話ししませんでしたが、弟は話し続けます。


私はお会いしたことのない弟の会社の方々の名前と特徴、特技、趣味を覚えました。


その後、弟の結婚式でお会いした時に「あの有名な○○さんですね」と言ってびっくりされたのを覚えています。



弟は、地元鹿児島で働き続け、南九州の支店長になりました。鹿児島と宮崎をテリトリーに動き回っていました。

そして1年半前に 今度は福岡で支店長として単身赴任しました。



金曜日の晩。接待を済ませて、代行車を使って単身赴任のマンションに戻りました。

電気とテレビとエアコンをつけっぱなしにしたまま、ベッドの上で、

帰らぬ人になっていたそうです。


月曜日、朝、いつも早く会社に到着する弟が、来ていない。


勤務時間になっても連絡がない。そこで、管理会社と警察を帯同して、部下の方が、入室し、弟がベッドで死んでいる姿を発見してくださったそうです。


私は、東京の自宅にいました。Skypeでの営業コンサルを済ませた後、たまたま、鹿児島時代にお世話になったある人の義理の娘さんと話をしていました。

何年かぶりです。ある人というのは私の営業の師匠です。保険代理店の社長でした。夢に出てこられたのです。


電話が終わり、少しして、鹿児島の実家から、弟が突然死したという連絡が入りました。



弟は誰にも気づかれず週末を単身赴任の部屋で過ごしたのです。体はすでに傷んでいたそうです。



私は東京から鹿児島に向かいました。


弟の遺体は単身赴任先の福岡から自宅のある鹿児島に夜中に運ばれました。


弟の一番下の子供は明日が公立高校の受験日という晩に

遺体と対面することになりました。


私立の高校には合格していたので、周囲の親戚はこう言いました。

親戚「もう受験しなくてもいいよ」



弟の末の息子「いや受験する。お父さんが喜ぶから。」


と、きっぱりと言ったそうです。


弟の通夜と告別式には九州全体から多くのお取引先や社員の方々が駆けつけてくださいました。


九州は広いです。近いようで実は遠いです。

唐津から 長崎から 福岡から 久留米から 宮崎から

次々と 駆けつけてくださいます。


弟の幼稚園時代からの友人も福岡から駆けつけてくれました。


日帰りで東京から駆けつけてくれた人もありました。



弟の棺は顔の部分だけが開いてました。





顔を覗き込んだある女性が、大声で泣き出しました。弟に採用してもらったという女性社員の方でした。



女性社員のかた「私、がんばりますから、私、がんばりますから。みんなでがんばりますから、、、、」


そう言って大声で泣いていました。


次々と体を震わせて泣く多くの方々を親族席から見ていく中で、


小さな弟だと思っていた一人の人間が

180センチを超える大男になっていくと同時に

50年を超える人生を歩いていたこと。


そして、私の知らないところで自分の歴史をしっかりと

立派に築いていたことを

あらためて知る機会となりました。


私は涙が止まりませんでした。


ひたすら思い出すのは小さい時の弟でした。


運動神経がめちゃくちゃよく、絵とかイラストがうまく、歌がうまく、

バレンタインデーには、めちゃくちゃな個数のチョコをもらってました。


負けてました。



今、私が死んだとしても誰も来てくれないかもしれません。


そんなことも考えました。



告別式が終わり、火葬場で焼かれて


180センチを超えていた 弟は 30センチくらいの小さな骨壷の中に入りました。









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