普通の主婦の普通じゃなかった半生 7 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ
6からの続き。
写真 高校からの彼氏と私。
高校時代の恋愛と自立。
行きたくはなかった中の中の中の私立の普通科の高校時代の話しを少し書きます。
高校に通ったのは高1の春から冬まで9ヶ月か10ヶ月だけでした。
行きたくなかった高校生活は案の定、面白くないものでした。
でも、その短期間で私は運命的な出会いをしました。
入学したすぐにあった部活の見学会で、私は放送部を見に行きました。
唯一真面目に学校に行った中3の時、私は放送部でお昼の放送を担当していて、それが楽しかったからです。
そこでものすごくかっこいい男の子を見かけました。
彼は一個上の先輩でぱっと見ただけでとても目を引く男前さんでした。
長身のスラッとした身体に甘い顔立ち。
今で言うと速水もこみちさんによく似ていました。
私は父親も男兄弟も居ない環境でずっと育ったせいか(祖父はいましたが)男男した人が苦手で細くて優しい感じの中性的な甘い顔立ちの男の子がタイプでした。
その男の子はドンピシャ私のタイプだったのです。
ひと目見た時から彼は私の憧れの存在になりました。
彼を遠くから見るのが楽しみでした。
彼を見たくて放送部に即決で入りました。
でも、ただ見るだけ。
何か話しができれば心臓はバクバクそんな感じでした。
だって生意気にも私には中学生からの彼氏が居たから。
彼氏は頭が良かったので岐阜市で一番いい高校に行って離ればなれになって、家も遠かったのでめったに会うことはなくなっていたけど、私はまだ彼氏のことが好きでした。
そっちはリアルな恋愛。
放送部の先輩はテレビの中のアイドルに憧れるみたいな遠い感情でした。
リアルな恋愛といっても高校生になったとはいえ、まだ幼かった私と彼氏は中学生の時と同じようなお付き合いをしていました。
せいぜい一緒に喫茶店に行って二人きりでお茶を飲んで話す。それが大冒険で。
映画も観に行ったけど二人は恥ずかしいので友達とみんなで、そんな感じでした。
手をつなぐことすらなかなかできないことだったです。
そんな幼い初恋が終わったのは高1の夏休みでした。
フラれちゃったのです。
彼氏の家の近所まで呼び出されて、気持ちが変わった訳じゃないけど別れよう、そう言われて。
バス停まで送ってもらってバスに乗った瞬間、我慢してた涙があふれて止まらなかったのを覚えています。
私は高校が離れて会えなくなっちゃったからかな?そう思っていたけど、後になって聞いた話しでは違う男の子と私が付き合っていると噂になってたからみたいです。
二股をかけられてるって彼氏は思っちゃって、私に確かめることもできず、私は私で何でフラれたのか?も聞く勇気がなくて、それでおしまいになりました。
幼すぎる心のすれ違いですね。
それでもその時はとても辛かったです。
それで高1の夏休みは傷心のまま終わりました。
でも、他のすべてのこと生活も散々だった私に神様?は恋愛と友達関係に関してだけは味方してくれました。
失恋して1ヶ月くらい経った秋に文化祭がありました。
私は放送部の3階の部室で校庭で行われていた行事のたしか音楽を流す係をしてました。
その時に偶然、憧れの先輩と一瞬二人きりになりました。
そこで校庭を眺めながら憧れの先輩に言われたのです。
はっきり覚えています。
「俺と付き合ってみる?」と。。。
はっ???
は〜〜〜っ???
ぇ?
ぇぇぇっ???
ドキドキどころかバクバクどころか心臓が口からじゃなくて耳から出そうでした。
聞き間違い???
いや???言われたな。。。
「はい。」と小さな声で答えるのがやっとでした。
だって彼は私のアイドルだったのに、リアルになったんです。
その小さな「はい。」で私の彼氏になっちゃったんです。
ビックリどころじゃなかったです。
私の人生で良い意味での一番の大事件でした。
二番目の恋も努力することなく、向こうからやってきました。
恋に関しては本当にものすごく運のいい子でした。
思春期にそんな良い思いをしたことは、他のことがすべてダメでも女の子としてとても幸運なことだったと思います。
恋もダメだったら、私は違う意味でものすごく屈折した子になっていたと思うから。
その彼とは高1の秋から22歳まで7年間も続きました。
私の青春のすべて。
私の初めての経験のほとんどすべて。
何をするにもどこに行くにも一緒だった。
思春期から大人になるまでの、どの想い出にも彼が居ます。
彼は私にとってかけがえのない存在でした。
彼はとてもモテた人だったけれど、どんなことがあっても一途に私だけを大事にしてくれるそんな人でした。
自立 働きながらの美容学校。
話しはまた前後しますが、高2になる歳に母の自己破産で私は自立を決め、美容院で働きながら美容学校に行き始めました。
その頃の美容院は今と違ってまだ丁稚奉公的な要素が残っていて、技術を教えてもらうかわりにご奉公するみたいな制度でした。
なので、新人は美容院の仕事以外に従業員みんなの食事を作ったり、寮の自分の部屋以外の掃除をしたり、お手伝いさん的な仕事もしなくてはいけませんでした。
朝6時から前の日にお店で使って洗濯したたくさんのタオルの片付けと掃除からはじまり、それから美容学校に登校、学校が終わったらすぐにお店に戻って仕事をし、夕飯の支度や寮の掃除を合間をぬってして、夜はまたお店の掃除とタオルの洗濯をして自分の練習が終わるころには深夜12時。
そんな毎日でした。
美容学校が休みの日曜日は一日中仕事。
美容院が休みの月曜日は美容学校があります。
休めるのは月曜日の美容学校が終わった後の半日だけでした。
大変だったけど、それでも私は充実していました。
自分の力だけで生きていることが嬉しかったのです。
美容学校も楽しかったです。
中卒で私と同じように働きながら通っている子が半数くらい居て、その子たちはみんな私と同じように家庭にいろんな問題を抱えていて自立しなくてはいけない境遇で、たくさん言葉を重ねなくてもわかり合うことができたから。
みんなが助け合いながら生きていました。
私はお給料から学費と寮費と食費を支払っていたので、国?県?からの援助制度をつかっても、月に残るお金はたったの7000円しかなくて、それで洋服や生活や学校に必要なものを買っていたので、いつも慢性的にお金がありませんでした。
学校にあった自販機で飲み物を買うことも贅沢なことでなかなかできなかったです。
でも、毎日、その自販機でコーラを買っては「もう飲めないからあげる。」そう言って半分必ずくれてた友達が居ました。
最初のうちは気づかなかったけど、毎日毎日だったので私にもわかりました。
毎日、私の分まで買ってくれれば私に負い目ができる。
だからその友達は自分が要らなくても買って半分くれてたのです。
私に気をつかわせずに優しくしてくれる。
そんな友達に恵まれて、私は幸運でした。
遊ぶ時間はほとんど無かったけど、短い時間だったからこそ余計かな?
遊べる時間は変な表現かもしれないけど、精一杯遊んでいました。
私を精神的に支えてくれていた彼とのデートも。
会える時間はほんの少しで限られていたけど、私たちは心で繋がっていました。
会いたい時に会えなかったから余計にかもしれません。
8へ続く。
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