雑誌を作っていたころ(25)

前編: 雑誌を作っていたころ(24)
後編: 雑誌を作っていたころ(26)

再び「ドリブ」へ


 学研から独立したものの、ムックコードのない青人社は、「日本こころの旅」を出すことができない。そのために編集部は解散し、ぼくは書籍の仕事を担当していた。過去に「ドリブ」で連載した記事をまとめるもので、邱永漢、福富太郎、松本孝、サエキけんぞう・伊藤銀次といった人たちの本を作った。

 そろそろネタ切れで、やることがなくなってきたなーと思ったころ、ドリブ編集長の清野さんから声がかかった。清野さんは青人社ができたときに取材に来たフリーライターで、会社の雰囲気が気に入って、そのまま居座ってしまったという経歴の持ち主である。

「若いスタッフばっかりになったら、進行がめちゃめちゃになってしまい、凸版から毎月クレームが入っている」のだそうだ。で、ぼくにデスクをやれという。


 若くして編集長を経験してしまったぼくは、もう一度組織の中で自分を見つめ直す必要を感じていた。だから、中間管理職もいいかなとOKした。凸版印刷の担当営業は大喜びで、「おとこの遊び専科」みたいな進行をしてくれるのなら、校了日を繰り下げてもいいと言ってきた。

 もちろん、ただデスクをやるだけでは体がなまってしまうから、自分のページも持たせてもらうことにした。早速、流行の兆しを見せていた「伝言ダイヤル」の取材をしたいと申し出た。ダイヤルQ2は大事な広告源でもあったので、すぐに企画は通った。

 とはいうものの、ありきたりの紹介記事ではつまらない。まずは実態調査ということで、約1カ月の間、伝言ダイヤルにはまってみた。自慢じゃないがぼくはマメでしつこい性格だから、たちまち女性の知り合いがたくさんできた。そのときにできた友人の1人は、今も親しい仲間である。


 デスクの仕事に就いてみると、若い編集者たちの実力のなさに唖然とした。彼らは格好こそは雑誌編集者だが、教養もなければガッツもない。一番悲しいのは、ポリシーがないことだ。適当に興味の湧いた企画を通し、ライターに取材させて、カメラマンに写真を撮らせて、イラストレーターに挿絵を描かせる。自分がやっていることといえば、デザイン事務所に材料を運び、できたレイアウトを関係者にFAXして原稿を待つだけ。大出版社の編集者によくあるスタイルを真似しているだけなのである。

 ダイヤルQ2の広告で潤ってはいたが、雑誌の売れ行きそのものは伸び悩んでいた。その原因が「大企業病」とは思ってもみなかった。彼らは当たり前のようにタクシーを使い、バイク便を走らせ、高額の会合費を請求する。編集部は腐り始めていた。

 ぼくは編集部に次のような通達を出した。「自分で書く企画を必ず1本は持つように」。そしていい加減な進行をする編集者をきびしく追求した。その結果、素行不良の似非編集者が次々と会社を辞めていった。


 そのころ、清野さんが「ドリブ」にアウトドア企画を導入し始めた。「書を捨てよ、旅に出よう」の気分を読者に伝えようと考えたのである。編集部にアウトドアのわかる人間は彼とぼくの2人しかいない。編集長とデスクが合作する企画がスタートした。

 ただし清野さんはバックパッカー派、ぼくはオートキャンプ派。アウトドアという共通項はあっても、その内容と精神は水と油である。

「あの2人、取材先で大げんかするんじゃないのか」というのが、編集部の噂になった。が、実際はそうならなかった。清野さんがオートキャンプの良さを受け入れてくれたからだ。コールマンのツーバーナーストーブやツーマントルランタンを使い、中で立って着替えができる大型テントを張り、椅子とテーブルを出してくつろぐオートキャンプのスタイルは、スパルタンではないがより多くの人に受け入れられる。アウトドアにはいろいろな楽しみ方があっていいじゃないかという結論になったのだ。


 ちょうどそのころ、「フロッピー入稿」というものが始まった。それまで手書き原稿やワープロ印字原稿のプリントアウトに朱入れをして文字原稿としていたものを、データで入稿することにしたものだ。

 それまで写植オペレーターが原稿を読んで文字データを手で打ち込んでいた作業を、省いてしまおうというわけだ。

 メリットは、納期の短縮と校正の簡略化。A4判の雑誌原稿だと、4ページ分を入力して校正紙を出すのに、どうしても中1日はかかる。しかし文字入力の必要がなくなれば、翌日には出せる。〆切が1日ずらせるのである。それに写植オペレーターが打ち込むという転記作業がなくなることで、誤字脱字の可能性も低くなる。だから初校の校正に必須だった「読み合わせ」が省略できるわけだ。


 デメリットは、入稿作業が面倒なこと。東芝「ルポ」の独自形式で保存したフロッピーは使えないから、いったん「DOS変換」というやつをやらなければならない。MS‐DOS形式でフォーマットしたフロッピーディスクを別に用意して、それに変換したデータを記録するのだ。

 ぼくはすぐ慣れたが、「どうしてそうしなければならないのか」「自分が何の作業をしているのか」が飲み込めない編集者たちは、「おーい、誰か変換してー」と他人をあてにしていた。

 おまけに、プリントアウトに朱入れした原稿も添付しなければならない。TEXT形式のデータでは、書体の種類や大きさ、ルビや「縦中横」の指定ができないからだ。

 つまり編集者にとっては、従来の入稿原稿に加えて、フロッピーディスクの準備作業が余分に加わったことになる。

「なんで俺たちがこんな面倒なことをしなくちゃいけないんだ」と、怒ったりぼやいたりする声が渦巻き、編集部は殺伐とした雰囲気になった。編集長の清野さんは、われ関せずと手書き原稿を相変わらず入れている。

 凸版印刷との取り決めでは、「ワープロで作成した文字原稿は、MS‐DOS形式のフロッピー・ディスクを添付する」となっていたから、手書き原稿派の人はこの騒ぎには関係ないのだ。従来通り、手書き原稿に朱筆で各種の指定をしたものを、レイアウト用紙や画像原稿と一緒に送るだけ。納期は変わらないが、面倒がなかった。まだこの時代は、写植の入力代をケチケチしなくてもよかったのだ。


 ところで当時、青人社の編集部には、6台の「ルポ」があったが、MS‐DOS変換機能があるのは、そのうちの3台。編集者は全部で15人だったから、〆切が近づくとワープロの争奪戦が起きる。そして入稿時にはDOS変換を巡って、ふたたび争いが。それを嫌って自前のワープロを購入する編集者も現れたが、機種はみなバラバラだ。おかげで編集部は「オアシス」「書院」「文豪」「カシオワード」「キャノワード」「マイリポート」などで百花繚乱のありさまとなった。

 そうなると、誰かが休んだ場合、その原稿を修正するのはほとんど不可能になる。手書きだったら簡単に修正できたのに。技術の進歩とは、わずかな効率のアップと引き替えに多大な犠牲を要求するものなのだと悟ったのだった。


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雑誌を作っていたころ(26)

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