雑誌を作っていたころ(24)
Macとの出会い
広尾1丁目にあった青人社の最寄り駅は、JR山手線と地下鉄日比谷線の恵比寿駅、または地下鉄日比谷線の広尾駅だった。日比谷線というのは意外に使えない路線で、六本木、日比谷、築地あたりに用事がないと、乗る機会がない。なのでぼくらはもっぱら、恵比寿駅周辺を徘徊していた。
当時、恵比寿駅のそばに、キヤノン販売がやっている「ゼロワンショップ」があった。ぼくはどんな分野でもショールームと名の付くところが大好きなので、よく暇つぶしに遊びに行った。何度も行けば顔見知りの人ができるのは自然の成り行きで、ぼくにも挨拶をしてくれる人ができた。
当時のゼロワンショップといえば、Macつまりアップルコンピュータのマッキントッシュを売る店だ。しかしぼくはMacを「パソコン界のポルシェ」程度にしか認識していなかったから、ひやかし以上の興味はなかった。それなのに社長を騙して総額300万円の稟議を通し、以来四半世紀以上にわたるMacファンとなった原点は、このゼロワンショップにある。
どういうきっかけで見積書をもらうまでに話が発展したのか、今となっては忘却の彼方だが、たぶんぼくが自分の仕事の内容を事細かに説明し、対応した営業マン(まことに申し訳ないことに名前を失念している。名刺ホルダーをくまなく探せば見つかるのだが、ここで固有名詞を出す必要もないだろう)が熱意を持ってそれに対応したからだと思う。
当時のぼくは、DTP(デスクトップ・パブリッシング)という言葉も、その概念も会得してはいなかった。だが、持ち前の野次馬根性で印刷所に行けば工場を覗いていたから、印刷工程のネックが組版と製版にあることは知っていた。だから「Macで組版と製版ができることはご存じですよね」という言葉にころっと参ってしまったのだった。
パソコンで組版ができれば、写植代が軽減できるし、何よりも制作日数が短縮できる。当時の自動車雑誌やモノ関係の情報誌は、印刷所の出張校正室で原稿を書くのが当たり前になっていた。最新の情報を電話で入手し、その場で原稿を書いて、校正時に差し替えるのである。差し替えるのが前提だったから、元のページはレイアウトで枠だけができているものだったりした。
そういうお祭り騒ぎが、パソコンの力で不要になる。これはすごいと思った。また、「4色分解」「網点ポジ」という製版作業が編集部でできるようになれば、最後の最後まで出版に責任を負う人たちでコントロールできる。「あなた任せ」の仕事が減ることで、ぎりぎりまで粘って記事作りができるのだ。
可能性が見えた途端、ゼロワンショップ行きは「お遊び」から「仕事モード」へと変質した。
「こういうことはできるの?」
「こういう原稿にはどう対応すればいいの?」
ぼくの質問は、かなり専門的かつ具体的なものだったはずだ。何しろ、もうそれを使うつもりでいたのだから。
見積書はヒラのサラリーマンから見れば巨額になった。
「MacⅡfx本体と増設メモリー」「21インチカラーモニター」「レーザーイメージライター」「スキャナー」「MOドライブ」「フォトショップ」「イラストレーター」「クオークエクスプレス」「イージーワード」「表計算ソフト(当時エクセルはグラフが作れなかったので、アスキーが売っている別のソフトを選んだ)」全部で300万円を超えた。
社長に提出した稟議書には、およそ考えられる限りの節減効果を列挙した。
「版下製作費が不要になる」
「パソコン通信でデータが送れるので、デザイン事務所へのアルバイト交通費が不要になる」
「すべての原稿が一元管理できるので、使い回しが楽になる」
「本誌で作った原稿を別冊等でそのまま使える」
「ぎりぎりまで〆切が延ばせるので印刷直しが減る」…などなど。
機械音痴の社長が、この冒険的な投資に同意してくれた理由は、平凡社時代に電算写植の威力を学んでいたことと、学研に対して先進的なところを見せたいという見栄の2つだったと思う。そうでなければ、ぼくのような若造が「これからの本は、コンピューターで作るのが当たり前になります」などと生意気を言ったとたんに、ぺしゃんこにしていたはずだ。そういう人なのだ。
Macが納品されてからというもの、ぼくは毎日会社に居残り、通常の仕事を終えてからMacの前でひたすら学び続けた。始発までやって帰宅し、午後1時に出社するという生活を半年続けた。そのおかげで、Macの基本からフォトショップ、イラストレーター、クオークの基礎はひととおりマスターすることができた。
次にやったのは、自社広告の版下をMacで作ることだ。「月刊ドリブ」のデザイナーのところに通い、一緒になって試行錯誤を続けた。写植では写研の文字がスタンダードだったが、Macの日本語書体はモリサワが主流。だから使う文字も気を遣わなければならない。欧文との混植で起こる問題や、モニターでは大丈夫と思えても版下にすると出てくる違和感などについても、デザイナーからたくさん助言をもらった。
社長の気持ちを汲んで、学研の「マイコン委員会」なるサークルにも参加した。おどろいたことに学研では、まだパソコンをDTPではなく業務簡素化の道具としかとらえていなかった。なのでそこで勉強するのはデータベースの構築ばかり。不満だったが、「これなら抜けるな」と密かに思ったものだった。
今から思えば傲慢不遜な若者時代だったが、あのころ馬鹿みたいにMacにむしゃぶりついたから、こんなロートルになっても仕事にあぶれずにすんでいるのかもしれない。編集・ライターの世界で、「参りました」と思うほどDTPに詳しい人にはまだ出くわしていない。
Macを使うのに慣れてくるにつれて、いろいろなものを作りたくなった。最初に手がけたのは「地図」。雑誌の記事に登場するお店などの小さな地図をイラストレーターで作るのだ。マシンに搭載している書体が中ゴシックと細明朝しかなかったから、複雑な文字組みができないという事情もあった。
「地図、作ろうか?」と社内で注文を取ったら、山のような発注が来て閉口したものだ。内製だから〆切はぎりぎりまで延ばせる。しかも、いくら直しても請求ゼロ。おかげで他誌の校了日に徹夜する羽目になった。
それからはエスカレートの一途となった。モリサワの書体をひととおり揃え、安いダイナフォントにも手を出し、著作権フリーの写真やイラスト集を大量に購入した。いろいろな技法書も買いあさり、読んでは試してみた。新しくつきあい始めたデザイン事務所が出力センターの仕事もしていたため、版下出力はそこに頼むことにした。
おかげで青人社の名刺、はがき印刷は完全に内製になった。学研の生産管理部から、
「最近、小口印刷の仕事がこないけど、よそに頼んでいるの?」
と聞かれ、胸を張って「すべてMacで内製しています」と答えたりした。最先端のことをやっているという自負で、毎日が充実していた。
そんなある日、凸版印刷の営業担当から、こんなことを言われた。
「せっかくMacを使っているのに、版下出力止まりじゃ宝の持ち腐れじゃないですか」
まったくその通りと反省し、雑誌に掲載する自社広告をMacでフルに作ることにした。
最初は自信がなかったので、いきなりデータ入稿するのではなく、いったん出力センターで製版フイルムを出力し、凸版にはフイルムで入稿することにした。出力センターにMOを持っていき、できあがったフイルムをルーペで隅々まで検版。まるで印刷所の製版担当者みたいだった。
毛抜き合わせの精度が悪く、0.1ミリくらいの隙間が空いているのを発見し、自分のふがいなさにはらわたが煮えくりかえる思いをしたこともあった。校了時に訂正するというのは、フイルムを無駄にすることだと知り、完全原稿の重要性を再認識したものだ。
やがてフイルム入稿からMO入稿へ、1色原稿から4色原稿へとスキルが上がり、DTPへの自信が深まっていく。雑誌や書籍がオールDTPになるのは時間の問題だと予感した。しかし、凸版の担当さんは浮かない顔をしていた。
「山崎さんに協力していると、うちの仕事がどんどん減ってしまうんですよ」
なるほど、雑誌がオールDTPになってしまえば、印刷所はただ刷版を作り、印刷するだけの存在になってしまう。ドル箱の製版業務がなくなれば、印刷会社の売上げは激減だ。システムが変わるということは、経済的な悲喜劇を生むのだと痛感した。
ぼくがいろいろなものを内製していると聞いて、出入りの写植屋さんたちがよく見学に来た。彼らにとってDTPは親の仇のようなものだが、敵を知らなければ対処はできない。説明を繰り返しているうちに、写植屋さんに2タイプがあることがわかった。
ひとつは旧態依然の頑迷なタイプ。電算写植に多額の投資をしていて、気分的に後に引けないため、黎明期のDTPの弱点を探そうと鵜の目鷹の目であら探しをする。
「書体が少ないねえ」
「写研が使えないんじゃ話になりませんな」
「縦組みの字詰めが汚いですよ」
などと、文句ばかり言って帰っていく。
もうひとつは、頭の柔軟な人々。
「これ一式でいくらですか。ほお、それは安い。テスト用に何を買えばいいのか、リストを作ってくれますか」
と、はなはだ実務的だ。電算写植機に比べればMacはただみたいに安いし、写研の文字盤に比べればモリサワのポストスクリプト書体は激安。一式入れて若い人に習熟させておこうと考えたのだろう。そういう会社は今もDTP屋さんとして立派に生き残っている。
どちらでもない写植屋さんで、ひとつ気の毒な例があった。社長さんみずから見学に来たのだが、DTPの可能性を理解してガクガクブルブル。「昨晩は一睡もできませんでした」と電話をしてきた。その会社は2、3人の少人数で、資金的にもゆとりがなかった。「ぼくでも使えるのだから、社長さんならすぐに覚えられますよ。安いのを入れてみませんか」とすすめたのだが、「いやあ、もう頭が固くて…」と否定的。あの会社、どうなったかなあと心配していたら、数年後に社長さんは首を吊った。
DTPの勉強をしているとき、ひょんなことから「オンデマンドプリント」という言葉を聞き、それに興味を持つようになった。
イスラエル製のEプリントやザイコンといった、カラーコピーの延長線上にある印刷機が続々と上陸してきたのだ。それらを使えば、「一部からの印刷物」が作れるようになる。それからは大倉商事、トッパンムーアなど、オンデマンドプリンターに関連する会社へ見学に行くようになった。
思えば今、アマゾンのプリント・オンデマンドを使って安価な自費出版本をプロデュースしているが、それができるのも、このころにDTPやオンデマンド印刷にどっぷりはまっていたからなのだ。人生に無駄なことなどひとつもないと言われるが、まさにその通りだと思う。
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