雑誌を作っていたころ(23)

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後編: 雑誌を作っていたころ(24)

神風


 学研から切り離され、グループ会社となった青人社は、「2年で倒産する」と予想されていた。その根拠は、月150万円ペースの赤字だった。「ドリブ」と「おとこの遊び専科」が稼ぎ出すわずかな黒字では、30人の所帯をまかなう一般管理費が出てこない。それまでは「日本こころの旅」などのムックで帳尻を合わせていたが、ムックが出せない環境では赤字がもろに出てしまう。

 馬場社長は独立に当たって、「出を制し、入を増やす」という当然の策を講じた。まず、創刊以来続いてきた「ドリブ」の車内中吊り広告をやめた。これで月300万円の節約ができる。次いで編集制作費を10%カットした。タクシーの使用については、理由書の添付が義務づけられた。典型的な赤字企業の「縮小再生産モデル」である。


 収入を増やすためには、書籍編集部の新設、広告営業の活発化が実施された。少し前から社長の趣味でスタートしていた「歴史百人一話シリーズ」に加えて、「ドリブ」と「おとこの遊び専科」の人気連載を書籍化することになったのだ。ぼくは「書籍部編集長」の肩書を与えられ、責任者になった。

 広告部には「これまで断ってきた広告を、全部載せろ」という指示が出た。学研広告部は殿様商売なので、少しでもいかがわしい広告は掲載を拒否していた。それを拾いまくって売上げを向上させようと考えたのだ。


 だがそれら一連の戦略は、一歩間違えば「典型的な三流出版社倒産への軌跡」となる恐れがあった。宣伝や制作費をケチれば、雑誌の売れ行きは必ず落ちる。「企画力でカバーしろ」というのは「竹槍精神論」にすぎない。また、慣れない書籍作りは赤字を増やすだけになるかもしれない。広告の掲載基準緩和は、誌面を汚らしくして読者離れに拍車をかける危険性があった。

 ぼくはそう言って社長の案に反対した。だが、社長は顔を真っ赤にして怒鳴った。

「きみの言っているのは、書生論だ。そういうことは、きちんと収益が出てから言うものだ!」

 彼は激しく机を叩き、社内を睥睨した。本当は社長も、こんなことはやりたくないのだ。ほかに方法が見つからないので、自分に腹を立てているのだ。ぼくはそれを理解して、引き下がった。あとに無力感が残った。


 新設された広告部は、掲載基準の緩和を喜んだ。それまで通りの広告営業なら、学研広告部の人たちが築いた人脈を引き継ぐだけだが、基準が変われば新しいクライアントと代理店との付き合いができる。2人の営業マン、奥薗部長と石川主任は、もともとそういう世界が得意な人たちだった。その効果はすぐに現れ、聞いたこともないような名前の広告代理店から、電話がじゃんじゃんかかるようになった。

 嵐の第一陣は、当時ピークにさしかかっていた「結婚紹介ビジネス」だった。アルトマン、OMMG、ダイヤモンドといった「コンピュータで理想の広告相手をご紹介します」という商売が大流行していたが、どこも女性会員ばかりで男性会員が少なかった。そこでハガキつきカラー見開き広告を「ドリブ」に掲載したところ、空前のリピート率を記録したため、業界の全社がレギュラー出稿するようになったのだ。

 ハガキ付き見開き広告は、「折」という16ページ単位の製本上の境目にしか入れられない。「ドリブ」の台割上、その位置は8箇所しかなかったが、そのうち六箇所が「結婚紹介ビジネス」のハガキ付き見開き広告で占拠されることとなった。編集部は「扉ページが作れなくて格好が悪い」とかなんとか文句を言ったが、毎月1200万円の広告収入を前にしては、黙るしかなかった。


 続いて、「おとこの遊び専科」の1色タテ3分の1広告がいっぱいになった。「美容整形」の広告を解禁したため、新宿形成クリニックや高須クリニックをはじめとする包茎カッターたちが、財力にものを言わせてスペースを買いまくったのだ。ただし、医事法によって病院の広告は院長名と専門科目、所在地と連絡先くらいしか載せられない。そこで彼らは本を作ってその宣伝をしたり、レーシングチームに出資してそのニュースを載せさせたり、あの手この手の戦略を駆使した。「遊び専科」のスペースが埋まると、その勢いは「ドリブ」を襲うこととなった。


 そして本格的な神風が吹いた。「ダイヤルQ2」の大流行による「パーティライン」「2ショット」「伝言ダイヤル」などの「出会い系サービス」が、雪崩のように「ドリブ」と「おとこの遊び専科」の1色広告ページを埋め尽くしたのだ。

「ダイヤルQ2」を利用した風俗産業は、女性会員はフリーダイヤルで無料にしておき、男性会員から法外な通話サービス料をせしめて利益を出す構造である。素直にお金を払う男を集めるには、「彼女いない歴」が長く、勤め人で一人住まいの多い「ドリブ」と「おとこの遊び専科」の読者を狙うのが最適だったのだ。

 その手の広告は、カラーページである必要はない。なるべく暗く、いかがわしい雰囲気の広告のほうが、反響があるものだ。「角雑」と呼ばれる、記事の隅に入る小さな広告スペースや、ヨコ5分の1という記事の下1段をとる広告スペースが、真っ先に売れていった。広告部長の奥薗さんは、馬場さんに進言して「連合広告」を解禁させた。これは、広告代理店に1ページ単位でスペースを買わせ、代理店が団地のようにそのページをコマ割りして再販売するものだ。見た目がお世辞にも上品とは言えないので、一流誌では見ることはない。「号あたり5ページまで」としたそのスペースも、先の先まで埋まってしまった。


「すみませんが、来月号は先週満稿になりました。その次の号もまもなく満稿ですから、お申し込みはお早めにお願いします。タテ3ですか? 年内は無理です。記事タイアップでよければ、10月号で取れますが」

 広告デスクの宮木さんが申し訳なさそうに電話で答える言葉が、まるで留守番電話の応答メッセージのように思える日々が続いた。「ドリブ」と「遊び専科」を合わせた広告収入は、毎号5000万円を突破。学研広告部時代に比べると、4000万円の増収となった。年商ベースに直せば、5億円近い伸びである。「赤字」や「倒産」という言葉は、完全に過去のものになった。

「社長、これは税金対策をしないと大変ですよ」

 満面に笑みをたたえた経理部長の鈴木さんが、口癖のように馬場さんに声をかけるようになったが、その言葉の通り、広告収入の飛躍的な増大で、青人社は学研からの独立による財政的危機を乗り切り、黒字基調で決算を迎えた。売上金額は約10億円。経常利益は1億円を超えた。ということは、数千万円の税金を支払うわけだ。

 ぼくらは連日、社長の机の周りに集まり、さまざまな陳情を繰り返した。

「机と椅子を新調してほしい」

「編集者の仮眠施設を作ってほしい」

「電車の中吊りポスターを復活してほしい」

「もっときれいなビルに引っ越したい」


 要するに、みんな税金を払うのがもったいないと感じていたのだ。だから経費で使ってしまおうと、さまざまなプランを持って社長を責め立てたというわけだ。だがしかし、社長が許可したのは冷蔵庫の買い換えと、ポータブルワープロ5台の購入だけ。どちらもぼくの稟議だった。

 大型冷蔵庫への買い換えは、社長が夕方飲むビールを冷やすのに必要だったし、5台のワープロは、当時進行しつつあった原稿の電子化に対応するために、どうしても譲れないものだった。しかし、その他の要望はすべて却下された。

「あのケチ社長がなぜ税金を払うのか」

 という疑問で、社内は騒然となった。そのことに関する質問を、社長はいっさい受け付けなかったので、疑問は様々な憶測を呼んだ。


 ひとつの答えが提示されたのは、それから数カ月たった後のことだった。業界紙に出版社の売上げランキングが掲載されたのである。いち早く社長が赤鉛筆で印を付けたところには、青人社の名前が第50位として載っていた。

「どうかね。平凡社はこの中にないんだよ」と得意満面で語る社長の顔を見て、ぼくらは「ああ、社長はこのランキングに載りたいから税金を払ったのだ」と納得した。コストの高い見栄だと、やりきれない思いだった。

 しかし、その理解は甘かった。それから3年後に社長が食道ガンで死去したとき、学研の経理担当役員が「あのときの税金は、馬場くんの役員報酬を払うためのものだよ。税引き後の利益を見て、役員報酬というのは支払われるのだから」と、こともなげに語ったのが真相だった。社長は自分のボーナスを少しでも多くするために、ぼくらの要望を蹴ったのだ。


 その時点ではまだそんな駆け引きは知らなかったが、ぼくは「この社長から何かを引き出すには、騙さなければダメだな」と悟っていた。それが、翌年のマッキントッシュ購入につながる。ぼくはDTPの個人的な実験をするために、総額300万円の買い物をしようとしていたのだ。


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