グローバリゼーションとは、いかなる現象であるのか?

前編: 「グローバル人材」育成についての話
後編: 「アンパンマンのマーチ」とマックス・ウェーバーが見た神なき世界の話

グローバリゼーションとは、いかなる現象であるのか?

ウォーラステインの「世界システム論」を持ち出すまでもなく、有史以来世界は「グローバル」であったとも言える。それは、アフリカで誕生した人類がユーラシア大陸に拡散し、その一部がベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に足を踏み入れた頃から、世界は一つであったことは間違いない。

あるいは、ローマ帝国はイングランドからバグダッドまでの広大な地域に住む人々を政治的な支配下に置き、経済面では北アフリカからの安定的な小麦の供給がローマ市内の治安に直結していたという事実からも、古代地中海世界は相当に「グローバル化」していたと言える。

このような世界帝国を挙げれば、モンゴル帝国、オスマン・トルコ帝国、清帝国などいくらでもある。(どうでもよい話だが、当時のイスラムの盟主であるオスマン・トルコ帝国のスルタンの中には碧眼であったものが少なくなかったという。それは、同盟国のフランス王室から妃を迎えていたことが理由らしい。歴史マニアにとってはロマンを掻き立てられる、わくわくするような話。)

そして、現代につながる意味でのグローバリゼーションを考えれば、ヨーロッパとアメリカ大陸が経済的に結ばれることになった大航海時代がその契機となっている。南米で産出される銀がスペイン帝国を支えたし、最近まで住んでいたフィリピンはメキシコとのガレオン貿易によって当時の世界経済に組み込まれていた。そして、時代が下がりイギリス帝国はスペイン帝国が行ったような単純な収奪ではなく、自国の工業製品を売る市場としての広大な海外植民地を必要とした。

ところで、大学院で会ったAさんはグローバリズムについてこのように語っていた。

「グローバリズムというと、日本経済再生のための刺激的なムーブメントのように語られるけど、実際は世界中の人がライバルになって競争を繰り広げ、その中で人間の行動や生活スタイルはいつでも、どこでも同じようになっていく。そう考えると、これは結構冷たいものなんじゃないかと思うんですけどね。」

モスクワで生まれ育ち英語が堪能で、日本語を不自由なく操る留学生でまさに「グローバル人材」であるAさんは、クールにグローバリゼーションを見つめていた。

近代的に捉えれば、スペイン帝国、イギリス帝国、そしてブロック経済が引き金となった2度の世界大戦。さらに現代的な視点で考えれば冷戦構造の崩壊による市場の急激な拡大と、新興国の経済発展による世界市場の形成がグローバリゼーションという現象が現出する母胎となった。

では、現代的な意味でのグローバリゼーションは、古代のローマ帝国やスペイン帝国、イギリス帝国と異なる点は何か?

今日のグローバリゼーションは、私たちひとりひとりが世界的な資本の移動と拡大という現象(あるいは自己運動)に個別につながっていくという点にあるのではないかと思う。この現象の拡大の過程で、政治的権力(あるいは国民国家)や宗教的権力などという集団的な行為主体の力は相対的に弱まっていく。

この資本の自己運動はアメリカや中国などの今日の「ヘゲモニー国家」ですら制御不可能なまでに肥大化してしまった。

かつてキリストは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」と語ったが、現代は人々の上に神も皇帝も君臨することなく、特定の「顔」を持たない資本の自己運動だけが個人を呑みこんでいく。

市場の成熟と共同体の解体、さらに国民国家からの離陸を通してひとりひとりが社会に向き合う世の中。プロテスタンティズムが「神の代理人」たるカトリック教会を拒否し、個々人が直接神と向き合えと説いた思想は、現代、神の不在の中、皮肉な形で実現しつつある。

これまで何度も触れているが、資本主義の精神(あるいはエートス)の根源をプロテスタンティズムの職業倫理に求めたウェーバーの大著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はこのような一説で結ばれている。

「禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作りあげるのに力を貸すことになったからだ。」

「この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入るこんでくる一切の諸個人-直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく-の生活スタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定し続けるだろう。」

(今後、世界中の人々の生活は資本主義という強力な「秩序界」よって好むと好まざるをかかわらず支配され、それはたぶん石油が枯渇するまで続いていくだろう。)

背筋が寒くなるほどに現在の状況を言い当てた一節である。特に「化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで」という表現のあたりは、この本が出版されて100年余りが過ぎている現代においてもいささかの古さも感じない。

ユダヤ教的に解釈すればこれは一種の予言と言えるだろう。その予言とは、自分なりに解釈すればつまりこうだ。

石油の枯渇が決定的となった時点で、その最後の一片をめぐる全世界的な闘争が開始される。それはさながら観察箱の中の増えすぎたコオロギが共食いを始める瞬間のように。その中で一番強いコオロギは「最後の一片」を手にするが、それが燃えつきたとき、そのコオロギも死ぬ。

映画「ワールドウォーZ」では、ゾンビが人を喰らうが、この世界では正気の人間たちが自らの生存をかけて人を喰らう。そのようすは、まさにハルマゲドンであるけれど、最後の瞬間にはメシアは降臨せず審判は行われない。既にこの世界において「神は死んでいる」のだから。

(もし、この中で生き残る人たちがいたとしたら、それは例えばフィリピンの片田舎の山中でグローバリゼーションから「取り残され」、「絶対的な貧困」の中で、バナナを栽培し、鶏を育てて生活しているような人たちかも?と思う。)

「世界の呪術から解放」を標榜したウェーバーだったが、その解放の先に見出したのは、「化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで」機能し続ける「鉄の檻」だったとはあまりにも皮肉で、救いようがない。

凄まじいほどのニヒリズムである(だから、ウェーバー自身も狂死寸前の神経耕弱を経験している)。

そこには西洋近代合理主義の賛美に彩られているとして、オリエンタリズム批判の的となるウェーバーの「正しさ」や「強さ」は、微塵も感じられない。

そして、「鉄の檻」を見出したウェーバーの背後で、仄暗い笑みを浮かべ佇む男がいる。彼の名はフリードリッヒ・ニーチェ。ウェーバーとニーチェとの関係はまた別の機会で触れたいが、フーコーにつけ、ウェーバーにつけ、気になる人物の思想の背後にはかならずニーチェがいる(とかっこつけて言ってみる)。

とにかく、グローバリゼーションとは、もろ手を挙げて賛美できるような代物ではなく、私たちの希望を託せるような夢のシステムでもない。その流れにいち早く乗れば、「より強いコオロギ」としてある程度まで後発の誰かを圧倒することはできるかもしれない。が、それは、自らの手足を鎖でしばりつけ、鉄の檻にはまり込んでいくような行為でるあることも間違いないだろう。

かといって、ウェーバーの予言通り、今更この「鉄の檻」から逃れることはできない。絶対に無理。むしろ何も知らずに、無邪気にグローバリゼーションが現出させるというお花畑を信じこめたほうが幸せだったかもしれないとさえ思う。

であるならば、私たちはいかに生きるべきか。

この問いは「グローバル人材」の育成が声高に叫ばれる日本語教育界にも突きつけられた、そして神経耗弱をもよおすような、抜き差しならない課題である。

と思っているのは僕だけか?

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